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    ボロブドウール寺院遺跡群
 Archaeological site of Borobdur temple

サムドラ・ラクサ船博物館 東インド会社2
 Museum Kapal Samudra Raksa

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年1月31日
独立系メディア E−wave Tokyo
 
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 こうした中、ホラント州の政治家オルデンバルネフェルトは、複数の商社をまとめてオランダ連合東インド会社を発足させ、諸外国に対抗しようとしたのです。6つの支社から構成されており、それぞれはアムステルダム、ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ミデルブルフに置かれました。


旧VOCアムステルダム本社  Source:English Wikipedia


The shipyard of the Dutch East India Company in Amsterdam. 1726 engraving by Joseph Mulder.
Source:English Wikipedia

設立後
旧VOCアムステルダム本社
 設立
当初は東インド(インドネシア)における香辛料貿易を目的とし、マラッカを拠点とするポルトガルや各地のイスラム諸王国と戦かいました。

1605年には、スラウェシ島に上陸。
1619年には、第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(在任1619年-23年、再任1627年-29年)がジャワ島西部のジャカルタにバタヴィア城を築いてアジアにおける会社の本拠地としました。


Replica of the VOC vessel "Batavia" 1620〜1629
1620年から1629年のバタビア(ジャカルタ)のVOC船のレプリカ
Source:English Wikipedia


オランダ東インド会社が使っていた戦船  Source:English Wikipedia

1623年にモルッカ諸島でアンボイナ事件が勃発し、オランダ東インド会社が日本人の傭兵を含むイギリス商館のイギリス人を虐殺した。イギリスは東南アジアから撤退し、インドのムガル帝国攻略に向かう転換点となりました。

1628年から1629年にかけて、
ジャワ島でマタラム王国がバンテン王国への進出を目指し、2度に渡ってバタヴィアに侵攻したが撃退しました。1646年に、マタラム王国と平和協定を締結し、ジャワ島でマタラム王国と独占貿易をすることになりました。

  また日本やタイとの交易も手がけ、中国に拠点をもつことは認められなかったが、当時無主の地であった台湾を占拠し、対中貿易の拠点とした。南アジアでは主としてセイロン島のポルトガル人を追い払い、島を支配しました。

 日本ではカトリックとスペイン・ポルトガルのつながりに警戒感を強めていた江戸幕府に取り入りポルトガルの追い落としに成功、鎖国下の日本で欧州諸国として唯一、長崎出島での交易を認められました。

 アジアにおけるポルトガル海上帝国はオランダ東インド会社の攻勢によって没落しました。イギリス東インド会社やフランス東インド会社もオランダとの競合に勝てず、東アジアや東南アジアから撤退して、インド経営に専念することになります。

 スペイン、ポルトガルでユダヤ人は改宗が強制され、異端審問などでひどい扱いを受けていました。そこから追放されたユダヤ人はアムステルダムなど各地に散在。ユダヤ人は商人などが多いので、東インド会社もユダヤ人が関係しています。日本からのポルトガルの排斥はその意味からも非常に重要なポイントです。

1643年、オランダ東インド会社に所属するマルチン・ゲルリッツエン・フリースは、東インド総督の命を受けて日本の東方沖にあるとされた金銀島探検のために結成された第2回太平洋探検隊の司令官として太平洋を北上し、ヨーロッパ人で初めて択捉島と得撫島を発見しました。そして、それぞれスターテン・ラント(オランダ国の土地)とコンパニース・ラント(オランダ東インド会社の土地)と命名して領土宣言しました。

1643年、カンボジアに留まっていた会社員たちが惨殺され、会社は短期間の戦争の後、1670年代までにカンボジアの交易地を放棄しました(カンボジア・オランダ戦争)。

1660年よりオランダ東インド会社は、スラウェシ島のマカッサル西海岸でゴワ王国(英語版)との戦争に突入し、1669年にスペルマン(英語版)提督が、スルタンのハサヌディン(英語版)に、オランダ東インド会社のスラウェシ島支配に関するボンガヤ条約(英語版)を署名させました。

1665年から1667年にかけての第二次英蘭戦争で、
バンダ諸島(東インド諸島モルッカ諸島)にあるラン島(香辛料貿易)とニューアムステルダム(毛皮貿易)の自治権と交換して獲得し、香辛料貿易(ナツメグ、クローブ等)の独占を図りました。イギリスは既に種子を持ち出しており、1815年頃からモーリシャスやグレナダなどでプランテーションを開始すると、香辛料はありふれた商品となってバンダ諸島の価値は相対的に下がっていくことになりました。


Natives of Arakan sell slaves to the Dutch East India Company, c. 1663
1663年、ミャンマーのアラカンで奴隷売買する東インド会社
Source:English Wikipedia

 18世紀には3度に渡るジャワ継承戦争(1703年・1719年・1749年)や華僑虐殺事件によって、マタラム王国が四分割され、ジャワ島での支配体制も確固たるものとなりました。

 オランダ本国は、オランダ東インド会社が17世紀の成功によって黄金時代を迎えていた一方で、衰微の兆しが訪れていました。

 17世紀半ばの3次にわたる英蘭戦争や絶対主義フランス王国との戦争で国力を消耗し、1689年にヴィレム3世がイギリス王に迎えられた後は、イギリス東インド会社に植民地帝国の座を譲り渡しました。以後イギリスが大英帝国として、海上覇権を確立する事になります。

1795年にはフランス革命軍により本国を占領されました。この混乱のなかで1799年12月31日、オランダ東インド会社は解散、海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収された。
ナポレオン戦争後、オランダは無事にイギリスから返還された東インドの領域経営(インドネシア)に主として専念することになります。

主要年表[編集]
1596年 最初のオランダ船、東インド到着
1600年 リーフデ号日本漂着
1602年 オランダ東インド会社設立
1603年ジャワ島西部バンテンに商館開設パタニ王国に商館開設
1605年 ポルトガルよりアンボイナ島を奪取
1608年 アユタヤに商館を建設。アユタヤはオランダ本国に外交使節派遣
1609年平戸オランダ商館開設
現在のアメリカのニューヨークを発見し、ハドソン川流域や北西航路を探検
1614年 現在のニューヨークを占領し、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)領「ニューネーデルラント」として領土宣言
1619年 イスラムのバンテン王国のジャカルタを占領し、要塞を築いてアジアにおける本拠地を確立
1621年 ニューネーデルラント(現在のニューヨーク)の所管がオランダ東インド会社からオランダ西インド会社に移る
1623年 アンボイナ事件
1624年 台湾を占領し、ゼーランディア城建設
1641年
オランダ商館平戸から長崎出島に移転
ポルトガル領マラッカ占領
1642年 アベル・タスマンのテラ・アウストラリス探検隊を派遣
1643年 得撫島に上陸して「コンパニースラント」(オランダ東インド会社の土地)と命名し、領土宣言[2]。
1648年 ヴェストファーレン条約(スペイン、オランダ独立承認)
1652年 南アフリカのケープ植民地設立
1653年 ヘンドリック・ハメルらが乗船した「スペルウェール」号が、朝鮮王朝の済州島に漂着する。
1656年 ポルトガル領セイロンのコロンボ占領、オランダ領セイロン成立
1661年 鄭成功、台湾を占領
1665年 第二次英蘭戦争(〜67年)
1704年 第一次ジャワ戦争(〜08年)
1719年 第二次ジャワ戦争(〜23年)
1740年 バタヴィアの華人反乱、虐殺
1749年 第三次ジャワ戦争(〜55年)
1760年 アユタヤ商館閉鎖
1795年 フランス革命軍がオランダ(ネーデルラント連邦共和国)を占領してフランスの衛星国バタヴィア共和国が建国を宣言すると、オランダ東インド会社の経営もバタヴィア共和国に移管される
1797年 オランダ商館がアメリカ船とバタヴィアにて傭船契約を結ぶ
1799年 オランダ東インド会社解散

Source:English Wikipedia

 なお、インドネシアへの日本人の進出としては以下があります。

日本人の進出

1879年頃、日本人が続々とポンティアナックに渡ったとされている。

1916年以前にスラバヤ市に日本人が進出しており、台湾籍の日本人も少なくなかった。

1916年にはそこに三井物産会社出張所、台湾銀行出張所、大阪福島洋行、東京潮谷商会支店、東印度貿易組合、橋本、岡崎、高橋、その他二、三の雑貨店があった。

1920年10月に、バタヴィアにおいて日刊邦字新聞の瓜哇日報が発刊される[10]。また、南洋協会瓜哇支部が月刊誌の蘭領東印度時報を発行した。

1933年9月、蘭印政府は明らかに日本商品の進出を阻止することを目的とした緊急輸入制限令を発布し、セメントの輸入を制限し、12月にはビールの輸入も制限した。
 
 日本の外務省が対策を考えていたところ、オランダ政府が貿易調整を目的とした会議の開催を希望したため、結果が出るまで日本に不利となる新措置を取らないことを条件に、

1934年6月8日から日蘭本会商が開始されたが、成果なく1934年12月21日に一時打ち切りとなった。会議中においても、蘭印政府は約束を無視して陶磁器、鉄フライ鍋、サロン綿布、晒綿布の輸入制限を新たに開始し、会議打ち切り後は40余種の商品に対して制厳令を乱発し、日本と蘭印は対立の状態となった。

東南アジアと日本帝国

 欧米諸国もアジア各国も、あの戦争は日本の侵略戦争であったことで一致しています。日本がアジアの各国を独立させたのではなく、日本に対する闘いがアジア各国に独立をもたらしたのだ、ということは、歴史の真実だとして各国で認められている事実なのです。

 それに反するような考え方が日本から伝えられて行くと反発を買って、日本はアジアでは尊敬される国ではなくて、むしろ嫌われ、非難される国になっているというのが実情です。

日本軍がアジア諸国の独立を救けたのではなく、日本と闘うことでアジア諸国民は強くなって行った。

 これは、東南アジア全体に言えることです。例えばビルマの場合、日本は形式的にはビルマの独立を認めました。認めたけれども、実質的には政治、外交、経済の実権を日本は握っていたわけです。

 日本がビルマに侵攻して行く時は、インドネシアの場合とは異なって、ビルマ人をあらかじめ訓練して「ビルマ独立義勇軍」を作らせておいて、これを連れて入って行った。これらはビルマ独立とともに、ビルマ国軍になるわけです。

 ところで、このビルマ国軍はどうしたか。日本の本心を見抜いているわけです。そこでインパール作戦で日本が負けると、反乱を起こしてしまう。日本軍の背後から日本軍を襲うわけです。

 この反乱を起こしたビルマ国軍の司令官がアウンサンで、例のアウンサン・スーチーさんのお父さんです。この人が、戦後のビルマ独立の先頭に立ち、日本軍と闘うことで独立したわけです。

 ベトナムもそうです。「ベトミン」(ベトナム独立同盟)は、日本と闘うことで力を貯えて、戦後の長い反仏闘争、さらに反米闘争を闘い抜いて、今のベトナムを作って行く訳です。

 日本軍がアジア諸国民の独立を救けたのではなく、日本と闘うことでアジア諸国民が強くなって行ったのです。中国共産党の周恩来が、冗談に「中国革命は日本のお陰だ」と言ったと言われていますが、それと同じことで、結局インドネシアの場合も典型的な例であった。日本はアジア解放とか、インドネシア独立を考えたのではない。初めから日本に必要な物を取り上げる、資源豊かだから占領する、と考えて、そういう方針をもって臨んで行った。そして独立運動を弾圧したのです。

 レジメにある「シンガパルナ事件」と「ポンティアナク事件」は、いずれもインドネシア独立のために闘った独立運動と、それに対する日本軍の徹底的な弾圧の例です。

 「シンガパルナ事件」というのは、この被害者が今日本に呼ばれていて証言集会をやっていますけれど、これは昭和19年の2月にジャワ島のシンガパルナという町で、イスラム教の寺院に対して日本が弾圧を加えた。神社参拝や天皇崇拝を強制した訳です。イスラム教の教えに反すると抵抗した者を、徹底的に弾圧したという事件なのです。

 「ポンティアナク事件」、これはボルネオの西にある大きな町ですが、ここは古い領主が支配している訳ですけれど、その領主が日本日本対して抵抗を企てたということを口実に、領主や華人を大量虐殺している。

 どちらの事件も戦後、戦犯裁判で裁かれていますけれど、これは一つの例でありまして、いたるところで独立運動、日本に対する抵抗運動が、日本憲兵や軍隊の厳しい弾圧に遇って、大量虐殺が行われている。つまり、きれいごとでは決してなかった。

 日本は、インドネシアの独立を救けにいったのではなく、それを抑えに行った。しかしその日本軍と闘うことで、インドネシアの独立は成し遂げられてのだ、というのが真実であります。

 それを美化して、「日本はインドネシアの独立を救けたのだ」、あるいは「アジアを解放したんだ」といった見方は、この戦争の真実を完全に歪める言い方に他なりません。この前の映画『プライド』がそうであったように、日本の軍国主義の復活の宣伝に使われることを、大変恐れるものであります。



つづく