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Iバチカン博物館(システィーナ礼拝堂)
Rome Histric District in ItalyI
-Cappella Sistina Musei Vaticani-

青山貞一 Teiichi Aoyama
2008年6月2日 2009年1月20日  転載禁

       青山貞一 ローマ短紀行 内容目次
@ローマ歴史地区とその魅力 Jサン・ピエトロ広場・大聖堂
A1日で回るローマ歴史地区ガイド Kサンタンジェロ城、イタリア最高裁
Bローマ歴史地区1日コース Lポポロ広場・ピンチョの丘
C共和国広場とオペラ座 Mコロッセオ
Dサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂 Nフォロ・ロマーノ
Eサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会 Oマルケス劇場
Fバチカン博物館(美術館) Pアンジェンティーナ遺跡広場
Gバチカン博物館(ラファエロ) Qパンテオン
Hバチカン博物館(フォルリのフラスコ画) Rトレビの泉
Iバチカン博物館(システィーナ礼拝堂) Sスペイン広場





バチカン博物(Musei Vaticani)
サンピエトロ大聖堂(Basillica San Pietorro)
サンピエトロ大聖堂の参道(Via Della Concillazione)
テヴェレ川河畔(Fuime Tevere)
サンタンジェロ城(Castel Sant' Angelo)
サンタンジェロ城橋(Ponte Sant' Angelo)



バチカン博物館(システィーナ礼拝堂)


システィーナ礼拝堂があるバチカン博物館の上空からの全景
写真では手前右の切妻屋根の建築物がシスティーナ礼拝堂。

 バチカン博物館の一部、というよりシスティーナ礼拝堂の一部としてバチカン博物館があると言った方が正解かも知れないが、博物館(美術館)をはじまで行くと、システィーナ礼拝堂がある。

 システィーナ礼拝堂を世界的に有名にしたのは、教皇を選ぶコンクラーベであろう。コンクラーヴェConclave)はバチカンの教皇選挙を意味する言葉で、カトリック教会におけるローマ司教たる『ローマ教皇』を選出する手続きを意味する。

 この手続きはカトリック教会の永い歴史の中で他国の干渉を防ぎ秘密を保持するため練り上げられてきたものとされている。

 なお、近代(19世紀)以降のローマ教皇は以下の通りである。

19世紀

  • ピウス7世 (1800-1823)
  • レオ12世 (1823-1829)
  • ピウス8世 (1829-1830)
  • グレゴリウス16世 (1831-1846)
  • ピウス9世 (1846-1878)
  • レオ13世 (1878-1903)

・20世紀

  • ピウス10世 (1903-1914)
  • ベネディクトゥス15世 (1914-1922)
  • ピウス11世 (1922-1939)
  • ピウス12世 (1939-1958)
  • ヨハネ23世 (1958-1963)
  • パウロ6世 (1963-1978)
  • ヨハネ・パウロ1世(1978)
  • ヨハネ・パウロ2世(1978-2005)

・21世紀

  • ベネディクトゥス16世(2005-)

 下の写真は、バチカン博物館(美術館)の一部となっているシスティーナ礼拝堂内部。

 システィーナ礼拝堂にはミケランジェロ・ブオナローティ(1475−1564)が描いた『創世記』などの大きな天井画や『最後の審判』の壁画で有名である。


ミケランジェロ・ブオナローティ 1475−1564


システィーナ礼拝堂内部
資料映像より

システィーナ礼拝堂の天井画

 シクストゥス4世の甥にあたるユリウス2世は1506年、ミケランジェロに天井画の制作を命じた。この注文は彫刻家を自任するミケランジェロにとって必ずしも本意とするところではなかったが、1508年にフレスコ画の制作を開始した。堂内に足場を組み、横になりながらの制作で、助手の手際が気にいらず結局一人で作業を続けていった。

 1512年に完成し、ミケランジェロの代表作のひとつに数えられる。天井部中央の旧約聖書『創世記』の9場面、天地創造、楽園追放、大洪水などが、祭壇から後陣にかけて配列される。ただしその配列は必ずしも創世記の時系列とは一致しない。四隅には旧約聖書の場面が描かれ、これにはネオプラトニスムからミケランジェロが摂取した四大の思想など、古代ギリシア自然哲学の影響も指摘される。また創世記の場面を取り囲むようにして、キリストの先祖であるユダの王たち、また旧約と古典古代の巫女たちが描かれる。

 この天井画はその制作途中を覗き見たラファエロにも強い影響を与え、彼が当時描いていたバチカン宮殿・署名の間の壁画「アテナイの学堂」のタッチには、ミケランジェロの影響の跡が指摘される。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 システィーナ礼拝堂でとりわけ有名な絵画は、『アダムの創造』と『最後の審判』であろう。

 下の写真は『アダムの創造』である。作者はかのミケランジェロの作品である。この絵画はシスティーナ礼拝堂にフレスコ画として描かれている。

 『アダムの創造』の題材はいうまdめおなく旧約聖書の創世記にある。


ミケランジェロ作、『アダムの創造』

 下の写真は、『最後の審判』である。作者は同じくミケランジェロ、システィーナ礼拝堂の祭壇に描かれている。


ミケランジェロ、『最後の審判』
出典:資料画像より


ミケランジェロ、『最後の審判』
出典:資料画像より

最後の審判(Last Judgement)

 キリスト教などにおいて、世界の終わりに人々が裁かれること。キリスト教では、世界の終わりにイエス・キリストが再臨し、あらゆる死者をよみがえらせて裁きを行い、永遠の生命を与えられる者と地獄へ墜ちる者とに分けるという。

 主に新約聖書のヨハネの黙示録に記述されている。これはユダヤ教からキリスト教・イスラム教に引き継がれ、これら3つの宗教において重要な教義となっている。元々はゾロアスター教の教義から来たものと言われる。

 イスラム教ではキヤマー (Qiyamah) と呼ばれる。

 ルネサンス期の芸術家ミケランジェロの代表作。バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描かれたフレスコ画である。1541年に完成した。

 これより先、ミケランジェロはローマ教皇ユリウス2世よりシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられ、1508年から1512年にかけて創世記をテーマにした作品を完成させている。それから20数年経ち、教皇パウルス3世に祭壇画の制作を命じられ、1535年から約5年の歳月をかけて1541年に「最後の審判」が完成した。天井画と祭壇画の間には、ローマ略奪という大事件があり、今日、美術史上でも盛期ルネサンスからマニエリスムの時代への転換期とされている。

 「最後の審判」には400名以上の人物が描かれている。中央では再臨したイエス・キリストが死者に裁きを下しており、向かって左側には天国へと昇天していく人々が、右側には地獄へと堕ちていく人々が描写されている。右下の水面に浮かんだ舟の上で、亡者に向かって櫂を振りかざしているのは冥府の渡し守カロンであり、この舟に乗せられた死者は、アケロン川を渡って地獄の各階層へと振り分けられていくという。ミケランジェロはこの地獄風景を描くのに、ダンテの『神曲』地獄篇のイメージを借りた。

 群像に裸体が多く、儀典長からこの点を非難され、「着衣をさせよ」という勧告が出されたこともある。ミケランジェロはこれを怨んで、地獄に自分の芸術を理解しなかった儀典長を配したというエピソードもある。さらにこの件に対して儀典長がパウルス3世に抗議したところ、「煉獄はともかく、地獄では私は何の権限も無い」と冗談交じりに受け流されたという。また、キリストの右下には自身の生皮を持つバルトロマイが描かれているが、この生皮はミケランジェロの自画像とされる。

出展: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 ※ グーグルアース上のシスティーナ礼拝堂の3次元グラフィクス


システィーナ礼拝堂内部 
出典:資料画像より


システィーナ礼拝堂天井画 
出典:資料画像より


システィーナ礼拝堂天井画 
出典:資料画像より

システィーナ名礼拝堂

 システィーナ礼拝堂(Cappella Sistina)はサン・ピエトロ大聖堂に隣接し、バチカン宮殿内に建てられた礼拝堂。ミケランジェロが描いた創世記などの大天井画、最後の審判の壁画で有名。教皇を選出するコンクラーヴェの会場としても知られている。

 そのシスティーナ礼拝堂は、シクストゥス4世の発願により教皇礼拝堂として1475年に建設が始まる。1481年に建物が完成後、ボッティチェリら初期ルネサンスの画家がモーゼ、イエス・キリストをテーマに壁画を描き、1483年8月、シクストゥスによる聖別が行われ、聖母被昇天に捧げられた。

 当初、天井には天空が描かれていた。なお、礼拝堂の名はシスト(シクストゥス)に因む。内部の奥行き40.25m、幅13.41m、高さ20.73mで、これは「列王記」6章にあるソロモン王の神殿の比率(60:20:30)に合わせているという。

出展: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つづく