日本と中国の歴史をひも解くシリーズ 南京の目撃者 ジョージ・フィッチの日記 その9(11本あり) George Ashmore Fitch:Eyewitness of Nanking&1937~38(PDF) 出典:イェール大学神学部図書館、 南京大虐殺プロジェクトウェブサイト 英語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授) 独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月26日 |
中国におけるアメリカ人プロテスタント宣教師、ジョージ・フィッチ氏。1937年12月、大日本帝国軍が南京に侵攻したとき中国にいたアメリカ人プロテスタント宣教師ジョージ・フィッチの写真。 総合メニューへ フィッチ日記1 フィッチ日記2 フィッチ日記3 フィッチ日記4 フィッチ日記5 フィッチ日記6 フィッチ日記7 フィッチ日記8 フィッチ日記9 フィッチ日記10 フィッチ日記11 ◆12月28日。 私たちが恐れていたことが起きた。 悪天候:降り続く霧雨、そして雪。 小屋に住んでいる貧しい難民は、その多くがパップテントより大きくないので、惨めな時を過ごすことになる。 ※注)パップテント パップテント(軍用テント)は、元々軍幕として使われていた ミリタリーライクな機能性の高いテント。 頑丈なコットンや軽 量なナイロンを素材としたもの、雨対策に防水性能の高い タイプもある。 出典:POMOLY しかし、私たちは理想的な天候に恵まれている。私は今日、いくつかのキャンプを視察した。 ほとんどのキャンプの混雑はひどいもので、もちろん、それはありえないことです。 私たちのキャンプマネージャーとアシスタントは、すべてボランティアで、規律を守り、人々に食事を与え、かなり衛生的に保つという、全体として素晴らしい仕事をしている。 いつになったら、人々は自分たちのところへ戻ることが許されるのであろうか? いつになったら秩序が確立されるのであろうか? 私は今日、初めて私たちのY!M!C!A!スクールに行ってきた。 そこは私の住居からそう遠くないところにある。 すべてがひっくり返され、物理学研究室の器具の多くが意図的にひっくり返されていた。 陸上競技場には死んだ牛がおり、半分犬に食べられていた。 大使館宣言が貼られた門で宣言がから破られていた。 ◆12月29日。 今日は幸いにも天気が良い。 人々は、いつ、どこで、どのように現れるのか、何の情報も与えられていない。 もっと多くの避難民が、元兵士とみなされる。 男性たちは、ひざまずき、泣きながら、夫や息子を取り戻すために助けを懇願している。 しかし、軍は我々からのいかなる干渉にも腹を立てている。 中国赤十字の代表から、川沿いには約2万人の難民がいるとの知らせがあった。 日本軍が到着する前に持たせていた米の供給は尽きており、大変な状況である。 彼らは南京安全区に入りたいと言ったが、我々はすでに混雑しすぎている。 とにかく、日本兵は.... 日本人はそれを許さないし、私たちがそこに行って助けを与えることを許さないであろう。 彼らには、できる限りのことをしなければならない。 しかし、なぜ2週間前にそうしなかったのか? 私たちの家はまだ無防備のままだ。そして私たちのキャンプのいくつかで配置されている少数の警備員は少ない!。 彼らは、火や食料、ベッド、その他のものを人々から要求しています。 フィッチ日記10へつづく |