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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ


南京の目撃者

ジョージ・フィッチの日記

その4
(11本あり)
George Ashmore Fitch:Eyewitness
of Nanking&1937~38(PDF)
出典:イェール大学神学部図書館、
南京大虐殺プロジェクトウェブサイト

英語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月26日

 

中国におけるアメリカ人プロテスタント宣教師、ジョージ・フィッチ氏。1937年12月、大日本帝国軍が南京に侵攻したとき中国にいたアメリカ人プロテスタント宣教師ジョージ・フィッチの写真。

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 彼らの存在に怯え、彼らから逃げ出した20人の難民を殺したのである。なぜなら、ここでも、それがそうであったように、それがルールであるように思われる。

 1932年の上海ように、逃げる者は撃たれるか、銃剣で突かれる。

 一方、私たちは本部で、逃げ遅れた兵士(中国国民軍)の武装解除に追われていた。私たちは、もし兵士らが装備を手放せば、彼らの命は保証されると断言した。しかし、それは無駄な約束だったのである。そして、銃殺されるか、あるいは銃剣の練習に使われるであろう。

 その日、まだ多少の砲撃があったが、安全区に着弾したのはごくわずかであった。

 その晩、私達の庭で榴散弾の破片を発見した。ウィルソン博士は、榴散弾の破片から間一髪で逃げた。ウィルソン博士は、手術中に手術室の窓から入ってきて榴散弾から辛うじて逃げた。死傷者は出なかった。榴散弾の破片砲撃によるものか、それとも退却する中国人が始めたものかは分からない。

 ※注)榴散弾
  榴散弾は、19世紀初頭から20世紀半ばごろまで使われた対人
  ・対非装甲目標用の砲弾で、野砲や榴弾砲から発射する。 砲
  弾内部には球体の散弾が多数詰まっており、目標のやや手前
  上空で弾丸底部の炸薬を炸裂させ、散弾を前下方に投射して
  人や馬を殺傷し軟目標を破壊する。 旧軍では榴霰弾と表記し
  た。

  
  出典:mssn65@jpg2t785  on Teitter


◆12月14日(火)、

 日本軍が戦車、大砲、歩兵、トラックで市内に押し寄せた。恐怖の支配が始まり、その後の10日間、厳しさと恐怖は増すばかりであった。

 彼らは中国の首都、憎き蒋介石政府の所在地を征服したのである。

 飛行機が散布したチラシに書かれた宣言は、日本軍が好きなようにするために自由な支配を与えられた。日本人は中国人の唯一の真の友人であり、善良な人々を守ってくれる、ある。だが、彼らのその「誠意」を示すために、彼らは強姦し、略奪し、殺しまくったのである。

 中国の男性が、私たちの難民キャンプから大挙して連れて行かれた。しかし、彼らは二度と連絡を受けていないし、今後も受けることはないであろう。

 大佐とそのスタッフが私の事務所に電話をかけてきて、1時間過ごした。

 その日、4回も日本兵がやってきて、「6,000人の武装解除された兵士」がどこにいるのかを知ろうとした。

 その日、日本兵が4回来て、私たちの車を持ち去ろうとした。その間、他の人たちは、私たちの車のうち3台を盗むことに成功した。曽根さんの車では、彼らはアメリカ国旗を引きちぎって、それを地面に投げつけ、窓を割って、そして、私たちの車を3台盗むことに成功した。

 トンプソン博士の家に入ってから5分の間に、すべて逃げ出すことができた。

 それ以来、2人のアメリカ人が米や石炭を配達するために、トラックに乗ってほとんどの時間を過ごすことが必要になった。

 そして、大学病院では、彼らは看護師から時計と万年筆を奪った。

 ニューヨークタイムズと德丁(Durdin)は、その日、モーターで上海に向かったが、私たちは誰も、そのことを知らなかった。私は急いで彼に手紙を書いたが、彼は九龍で追い返された。シカゴニュースのスティールは、何とか川まで出て、日本の駆逐艦が何隻もいることを報告した。

 中尉は彼にパナイ号沈没のニュースを伝えたが、詳細は不明である。

 しかし、パナイ号沈没の詳細については何も知らなかったし、沈没した他の船についても何も言わなかった。私たちはロープで壁を越えて川に降りることができた。これは実に皮肉なことであった。

  ※注)パナイ号事件
    パナイ号事件(パナイごうじけん、Panay incident)は、日中
    戦争(南京事変)初期の1937年12月12日、揚子江上におい
    て、日本海軍機がアメリカ合衆国アジア艦隊河川砲艦「パナ
    イ」を攻撃して沈没させ護衛されていたスタンダードオイル社
    のタンカー3隻を破壊し、さらにその際に機銃掃射を行ったと
    される事件。同日にレディバード号事件も発生している。

    以下はパナイ号
 
 パナイ。1928年8月30日の中国にて撮影
 Source: WikimediaCommons U.S. Navy - パブリック・ドメイン, リンクによる


 パナイ号が爆撃されても、私たちはまだ安全なのである。

 私たちの会長であるラーベ氏(シーメンス・チャイナ社の社長)とスマイス氏(秘書)は、軍に電話をかけました。

 ラーベ氏はシーメンス・チャイナ社の社長、スマイス氏の3人は、司令官と会い、耐え難い乱れを止めたいと思い、軍に電話をかけたが、結局、軍に行くしかなかった。しかし、彼はまだ街に入っていなかったので、次の日まで待たなければならなかった。


フィッチ日記5へつづく