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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所 (概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
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関連サイト> 日中戦争 太平洋戦争 731部隊
トラウニキ強制収容所(Trawniki:ポーランド) 地図
<ポーランド> アウシュヴィッツ・ビルケナウ  モノヴィッツ  ベルゼック  マイダネク  ソビボル  トレブリンカ  ヘウムノ
 クラクフ・プワシュフ   ポズナン   ポトゥリツェ  グロース・ローゼン  シュトゥットホーフ  ソルダウ   トラウニキ
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概要
 トラウニキ強制収容所Trawniki Concentration Camp, KZ Trawniki)は、第二次世界大戦でポーランドを占領している間、ナチスドイツによってルブリンの南東約40キロメートル(25マイル)にあるトラヴニキ村に設立された。存在している間、この収容所は、二つの機能を果たしていた。この収容所は、旧ポーランドの中央工業地域にあった砂糖精製所の敷地内に建設され、少なくとも3つの区域に分かれていた。

 ※ 英  Trawniki Concentration camp
    独 KZ(onzentrationslager)  Trawniki
   
波 Oboz koncentracyjny Trawniki
    日 トラウニキ強制収容所

 トラヴニキ収容所は、ソ連との戦争発生後に開設され、ポーランド総督府領土内のすべての主要な方向に向かう鉄道線が敷かれ、ソビエト戦争捕虜を収容する役割を果たしていた。1941年から1944年の間に、収容所は主にウクライナの協力者からなる補助警察官のための親衛隊員訓練施設へと拡張されていった。

 そして1942年には、強制収容所ルブリン支所としてユダヤ人のための強制労働収容所になった。トラヴニキのユダヤ人の受刑者は、親衛隊企業体の俄作りの工場設備のために奴隷のような労働をさせられ、食糧はほとんど与られない状態で働かされていた。

 囚人達は選別され、ホロコーストの地から衣類を乗せた列車に乗せられてトラヴニキに送られたユダヤ人囚人達は、1943年時点で、12,000人を数えた。 彼らは、1943年11月3日の収穫祭作戦で秩序警察(オルポ)からの予備警察大隊101(Reserve Police Battalion 101)の支援を受け、同じ場所に駐留するトラヴニキの補佐部隊によってすべて虐殺された。 最初のキャンプ司令官ヘルマン・ヘーフレ(Hermann Hoefle)は、その後、カール・ストラーベル(Karl Streibel)に代わった。

※収穫祭作戦(wikiより)
 収穫祭作戦(独:Aktion Erntefest, アクチオン・エルンテフェスト)は、ナチス・ドイツが1943年11月3日と11月4日の2日間にルブリン強制収容所(マイダネク)においてユダヤ人を大量銃殺した事件のドイツ側の作戦名である。ユダヤ人側は「血の水曜日」と呼んだ。

※秩序警察(Wikiより)
 秩序警察(ちつじょけいさつ、独:Ordnungspolizei)は、1936年から1945年まで存在したナチス・ドイツの警察組織。略して「オルポ(Orpo、Ordnungspolizei)」と呼ばれる。着用する制服の色から「緑色の警察(Grune Polizei)」とも呼ばれていた。英語では「order police」とも訳されることがある。ナチス・ドイツ時代においては保安警察と並んで体制維持の二本柱の一つであった。

※ヘルマン・ヘーフレ(Wikiより)
 ヘルマン・ヘーフレ(Hermann Hofle、1898年9月12日 - 1947年12月3日)は、ナチス・ドイツの親衛隊の将軍。最終階級は親衛隊大将、武装親衛隊大将及び警察大将(SS-Obergruppenfuhrer sowie General der Waffen-SS und Polizei)。(中略)


 1943年7月1日に親衛隊中将の階級で親衛隊へ入隊する(隊員番号:463,093)。また同時に警察中将にもなっている。9月17日に「中央」親衛隊及び警察高級指導者及び親衛隊上級地区「中央」指導者に任命されている。 1944年9月20日にゴットロープ・ベルガーの後任として「スロバキア」親衛隊及び警察高級指導者に任命され、スロバキア民衆蜂起制圧の指揮官も引き継いだ。同時に親衛隊大将および警察大将に昇進し、7月1日には武装親衛隊大将となった。

 戦後、スロバキアのブラチスラバで逮捕され、駐独立スロバキアドイツ大使であったハンス・ルディン(Hanns Ludin)とともに裁判にかけられ死刑を宣告される。1947年12月3日に処刑された。


※)Karl Streibel 英文Wikiあり
 SS-HauptsturmfuhrerKarl Streibel(1903年10月11日-1986年)は、第2次世界大戦中に占領されたポーランドのナチス強制収容所のKLルブリン制度のサブキャンプの1つであるトラヴィニキ強制収容所の第2位であり最後の指揮官だった。

 StreibelはOberbayern(バイエルン)出身。1932年11月29日にNSDAPとSSに加わった。彼はドイツのナチスのポーランド侵攻の直前にObersturmfuhrerに昇進しました。1941年10月27日にGlobocnikによってトラヴニキの指導者に任命され、ポーランド総督府政府のナチス・ドイツへの奉仕のために協力関係の補助警察、別名「Hiwis」(Hilfswilligen、「助けてくれる人」)を訓練した。彼の収容所には、ポーランドのユダヤ人も投獄されていた奴隷労働により非難された。ユダヤ人はすべて1943年11月3日に「収穫祭」で虐殺された。


<解説詳細>
◎強制収容所の運用
 トラヴニキのナチスドイツ軍がつくった収容所は、1941年7月に、バルバロッサ作戦の実施後、ソビエトに占領され東部ポーランドに捕らえられていた捕虜を収容するために設立された。有刺鉄線の屏の後ろにある新しい兵舎は、囚人自身によって建てられた。

 1942年、収容所はポーランド総督府全域から(送られてくる)ポーランドのユダヤ人向けに、親衛隊-労働収容所を含め拡大していった。大管区指導者であったオディロ・ロタール・ルドヴィクス・グロボクニク(Gauleiter Odilo Globocnik)の管理の下、1年以内に収容所は毛皮加工工場、ブラシ工場、ブラシの毛の仕上げ工場、そして、ドロフツァでの泥炭工場の新しい支店などでの強制労働行うようになっていった。

※ オディロ・ロタール・ルドヴィクス・グロボクニク(Wikiより)
 オディロ・ロタール・ルドヴィクス・グロボクニク(Odilo Lothar Ludovicus Globocnik[1]、1904年4月21日‐1945年5月31日)は、ドイツの政治家、官僚、軍人。オーストリア・ナチ党で頭角を現し、アンシュルス後にはナチ党ウィーン大管区指導者を務めた。第二次世界大戦中には親衛隊(SS)の将軍としてポーランド・ルブリン地区親衛隊及び警察指導者を務め、ラインハルト作戦(ユダヤ人のゲットーを解体して絶滅収容所へ移送する計画)の執行にあたった。最終階級は親衛隊中将および警察中将。「グロボチュニク」、「グロボツニク」などの表記も散見する。愛称はグローブス。
(中略)

第二次世界大戦中
 ドイツ軍のポーランド侵攻の際にも「ゲルマニア」に従軍した。占領後の1939年11月9日、ヒムラーは、グロボクニクに再度チャンスを与えた。グロボクニクをポーランドルブリン地区の親衛隊及び警察指導者を命じたのであった。グロボクニクは名誉回復のためにもここで与えられることとなる任務ホロコーストを忠実に実行する。

 ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所の三大絶滅収容所の設置に携わった。ポーランド総督府領内のユダヤ人を三大絶滅収容所へ送り込んでガス殺する「ラインハルト作戦」の執行はグロボクニクに委ねられていた。グロボクニクはヒムラーへの報告書の中で「ラインハルト作戦」の任務について「Aユダヤ人の移住(殺害)、Bユダヤ人の労働力の活用、C物財の活用、D隠匿された有価物と不動産収用」の4つをあげている。

 グロボクニクはポーランド総督府領全体の親衛隊及び警察高級指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー親衛隊大将の指揮下にあったが、「ラインハルト作戦」の執行においては親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに直属するとされ、クリューガーの指揮は受けなかった。さらに「ラインハルト作戦」を実質的に指揮したのはグロボクニクの副官であるヘルマン・ヘフレ(ドイツ語版)親衛隊大尉であった。彼が各地域の親衛隊及び警察指導者と調整しながらゲットーのユダヤ人の絶滅収容所への移送を指揮した。またベウジェツ・ソビボル・トレブリンカの三大絶滅収容所の管理はクリスティアン・ヴィルトに委ねられていた。150万人以上のユダヤ人がラインハルト作戦によって殺害された。

 1942年11月9日に親衛隊中将及び警察中将に昇進

 1942年6月から1944年5月までナチスによる戦争で強制労働をさせられていたユダヤ人はワルシャワ・ゲットーから、また、ラインハルト作戦の名の下でヨーロッパ各地(ドイツ、オーストリア、スロバキア)の中継用ゲットーから連行され、1943年9月からは、ポ-ニアトワ強制収容所などマイダネク強制収容所組織の支部収容所の一部や其の他の収容所からも連行された。

※ポーニアートワ強制収容所(Poniatowa Concentration camp:ポーランド)
英文Wikipediaあり
https://en.wikipedia.org/wiki/Poniatowa_concentration_camp

◎トラヴニキの男達
 1941年9月から1944年7月まで、この施設は、ポーランド総督府領土内のナチスドイツに奉仕するため、戦争捕虜収容所から集められた新人戦闘警察員(シュツットマンシャッフェン)の食堂と寝室を備えた本格的な訓練拠点として機能した。政治家カール・ストレイベルとその部下の役人たちは、自分達の自由になるよう主導するため、既に銃器に慣れて精通しているウクライナ、ラトビア、リトアニアの男性たちに誘いを掛けていた。

 1944年末までにトラヴニキで5,082人の兵士がドイツ特別部隊(Special Service:Sonderdienst)大隊の任務のために準備された-内部の屏で隔てられた人里離れたユダヤ人収容所の向こう側で。

 トラヴニキの男達(またはボランティアたち)の大半は、ウクライナ人で自ら進んで戦争捕虜となった者の中からやってきたが、中には、東欧のドイツ人種(Volksdeutsche)の男達もいて、ウクライナ語、ロシア語、ポーランド語などの占領地の言語を話す能力があるため、重宝がられた。彼らは唯一の部隊指揮官となった。

 トラヴニキの男たちは、ポーランド人よ外国のユダヤ人を絶滅させるナチス計画である「ハインハルト作戦」において主要な役割を担った。彼らは絶滅収容所で働き、ワルシャワ・ゲットー蜂起(シュトループ報告書を参照のこと)と他のゲットー反乱のなかで特に、ビアウィストク・ゲットー蜂起の際にユダヤ人を殲滅する上で重要な役割を果たした。

※Stroop Report (from English Wiki)
The Stroop Report is an official report prepared by General Jurgen Stroop for the SS chief Heinrich Himmler, recounting the German suppression of the Warsaw Ghetto Uprising and the liquidation of the ghetto in the spring of 1943.
シュトループ報告書は、、ユルゲン・シュトロープ将軍が親衛隊長ハインリヒ・ヒムラーのために作成した公式報告書であり、ワルシャワ・ゲットー蜂起の際のドイツによる抑圧と1943年春のゲットー解体を詳述している。

※ユルゲン・シュトロープ(Wikiより)
 ユルゲン・シュトロープ(Jurgen Stroop, 1895年9月26日 - 1952年3月6日)は、ナチス・ドイツ親衛隊 (SS) の将軍。1943年4月のワルシャワ・ゲットー蜂起の悪名高い鎮圧者で知られる。親衛隊における最終階級は親衛隊中将および武装親衛隊中将。警察における最終階級は警察中将。(中略)

ワルシャワ・ゲットー蜂起鎮圧
 1943年4月19日に「ワルシャワ」親衛隊及び警察指導者フェルディナント・フォン・ザンメルン・フランケネック親衛隊上級大佐がワルシャワ・ゲットー蜂起の鎮圧に失敗したことでヒムラーは代わってシュトロープを「ワルシャワ」親衛隊及び警察指導者に任じ、鎮圧部隊の指揮を任せた。シュトロープは焦土作戦を実施してワルシャワ・ゲットーを文字通り火の海にし、蜂起したユダヤ人たちを地下壕へ追い込んでいった。 シュトロープは次のような報告書を書いている。


  火は夜通し燃え、探しても見つからなかった屋根裏部屋や地下室に隠れたユダヤ人たちを次々といぶり出してくれました。何人ものユダヤ人が窓から飛び降りたり、シーツを使って滑り降りようとしていました。我々はこうしたユダヤ人たちも他の者たちと同様にその場で始末しました。
     -1943年4月22日のシュトロープの報告書

 5月8日に蜂起の中心組織である「ユダヤ人戦闘組織」の司令地下壕を発見し、そのリーダーであるモルデハイ・アニエレヴィッツを殺害することに成功した。5月15日になると戦闘も散発的となり、5月16日にシュトロープは正式にゲットー解体完了を宣言し、その記念に大シナゴーグを破壊させた。

 シュトロープの報告書によると「5万6000人のユダヤ人を捕えた。捕えた者のうち7000人が作戦中に死亡し、また移送中に6929人が殺害された。あわせて1万3929人が死亡した。捕えた5万6000人とは別に5000人から6000人が爆発・火災で死亡した」という。ただしこの数についてはシュトロープが自らの手柄を大きく見せかけるために行った誇張ではないかとする説もある[10][8]。捕えられた者のうち生存していた者たちはトレブリンカ絶滅収容所、マイダネク、強制労働収容所に送られていったという。



◎(ユダヤ人問題の)最終解的解決におけるトラヴニキの男達の主要な役割
 トラヴニキの男たち(ドイツ語:Trawnikimanner)は、トラヴニキから すべての主要な"ユダヤ人問題の最終解決"である殺害場所に配備された。その主な目的は訓練とされていた。

 警備員として、彼らはベルゼック、ソビボル、トレブリンカIIのユダヤ人の絶滅に積極的な役割を果たした。 彼らはワルシャワ(3回)、チェストホヴァ、ルブリン、リヴィヴ、ラドム、クラクフ、ビャウィストク(2回)、マイダネクそしてアウシュビッツで、そして、言うまでもなく、トラヴニキでも大規模な虐殺を行った。
 訓練の間、二重に張られた有刺鉄線のフェンスの向こうに投獄されていた多くのユダヤ人を処刑した。彼ら全員が、ユダヤ人を射殺し、殴打することに関わった。彼らは、ストレイベル(Streibel)によって反ユダヤ主義の感情について事前に審査されていた。

 ボランティア支援者の射撃手たちは親衛隊大尉カール・シュトラーベによって、占領された東部ポーランドのユダヤ人ゲットーでの最悪の「現場での汚れた作業」に派遣された。そのため秩序警察(オルポ)の同時に存在していた予備警察大隊101からのドイツ人たちは最終的に何時間も何日もの間、手を下して殺害することの恐怖に対し「発狂することはないだろう」。

 トラヴニキの男達は通常、殺害現場におよそ50人の隊員で到着し、座ってナップザックからのサンドイッチとウォッカのボトルを取り出し、客のように行動していた。その一方で、ドイツ人たちは何千人もの手に負えないゲットー住民達の群衆を扱っていた。 ミェンヅィジェツ、ウクフ、ラジンスキ、パルチェフ、コィンスコヴォラ、コマルフカおよび他のすべての場所で。

 トラヴニキの男達は非常に素早く、非常に激しく銃を発射するため、ウィルヘルム・トラップの下にいるドイツの警察官は、「しばしばその弾に当たらないようにする必要があった」と述懐している。彼らはこの作戦に欠かせない存在であると見なされていた。ウォマジでは、ドイツ人たちはユジェフフ(Jozefow)での惨たらしい虐殺の後に来てそれを見るのを "喜んで"いた。

 ミェンヅィジェツでの殺害は、パルチェフと同じく、約350~400人のトラヴニキの男性部隊によって実行された。一部のナチ秩序警察(オルポ)のメンバーは非ユダヤ系のポーランド人を殺すことに不安を感じていた。彼らの大隊は1942年9月までに4,600人のユダヤ人を撃墜したが、一方で、ポーランド人はわずか78人(総体的に不均衡な数)しか撃墜しなかった。対照的に、(トラヴニキの)ボランティア兵士たち(Hiwis)はポーランド民族を(ユダヤ人と)同等に犯罪者とみなしていた。

◎収容所の清算、1943年11月3日
 強制収容所ルブリンのユダヤ人は、労働者としての必要性が高まっていたこともあり、自分たちにとって悪いことが起こる可能性はないと考えていた。10月の終わりにかけて、トラヴニキ強制収容所のユダヤ人捕虜を含め、強制収容所ブリン/マイダネクの奴隷労働者全員が対戦車用の側溝(トレンチ)の建設を開始するよう命じられた。彼らはその真の目的を知らされなかった。

 後にスターリングラードでのドイツ軍の敗北のために復讐したとされる虐殺は、暗号名 「収穫祭(Aktion Erntefest) 」の下、1943年11月3日にクリスティアン・ヴィルト      (Christian Wirth)によって、マイダネク、トラヴニキ、ポーニアートワ、ブジン、クラシニク、プワヴィそして、リポバの支所収容所で同時に開始された。大隊101の助けを借りてトラヴニキの男達によって一人ずつ穴の中に打ち落とされたユダヤ人の体は、1943年の終わりまでに作業が完了したときに現場で処刑されたミレユフ(Milejow)のソンダーコマンド(ナチスドイツが強制収容所内の囚人によって組織した労務部隊)によって後に焼却された。

※クリスティアン・ヴィルト(Wikiより)
 クリスティアン・ヴィルト (Christian Wirth、1885年11月24日 - 1944年5月26日)は、ナチス・ドイツの親衛隊(SS)将校。最終階級は親衛隊少佐(SS-Sturmbannfuhrer)。第二次世界大戦中、ラインハルト作戦に基づきポーランドにおかれたユダヤ人三大絶滅収容所総監をつとめ、ユダヤ人虐殺(ホロコースト)に深く関与した人物。


経歴
 ヴュルテンベルクのオーバーベルツハイム出身。帝政時代のドイツで警察官をしていたが、第一次世界大戦がはじまると西部戦線に出征した。戦後、シュトゥットガルトにおいて再び警察官となった。当時から残忍かつ強引な捜査で知られていたという。1931年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党している(党員番号420.383)。1933年に突撃隊(SA)に入隊。1937年にはラインハルト・ハイドリヒ指揮下のSDに配属され、1939年から親衛隊(SS)に入隊した(隊員番号345,464)。1939年に刑事警察(クリポ)に配属され、シュトゥットガルトの刑事警察長官に就任する。

 その後、グラーフェネックやブランデンブルクへ派遣されてユダヤ人や障害者など「生きるに値しない命」を安楽死させる計画に携わった(T4作戦)。ヴィクトール・ブラック(de:Viktor Brack)の技術面の片腕であった。


 「ラインハルト作戦」(ポーランド・ユダヤ人の移送・絶滅計画。ラインハルト・ハイドリヒの暗殺後にこう命名された。)の執行者にポーランド・ルブリン地区の親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクが任命されると、グロボクニクはブラック以下92人の安楽死計画メンバーを招集した。この中にヴィルトもいた。

 ヴィルトは1941年12月にオディロ・グロボクニクから完成したばかりのベウジェツ強制収容所の所長に命じられた。1942年3月にはソビボル強制収容所建設工事の監督にもあたっている。さらに1942年8月には「ラインハルト作戦」により三大絶滅収容所と指定されたベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ強制収容所の総監職を命じられた。

 彼の監督下で三大絶滅収容所は大量のユダヤ人やロマをガス殺していった。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスとはガス殺の競合関係であったといい、ヴィルトはヘスを「自分の無能な生徒」と称したという。

 またヴィルトは鞭で殴りつけるのが好きなサディストであったが、その対象は囚人のみならず部下である看守に対しても及んだという。

 1943年、上司のグロボクニクがイタリアのトリエステへパルチザン狩りの任務へ送られるとヴィルトもグロボクニクに同行したが、1944年5月、リエカにおいてクロアチア人パルチザンにより殺害された


 約4万3千人の犠牲者を出した「収穫祭」(ドイツ語ではAktion Erntefest)が、全戦争を通じてドイツによる最大のユダヤ人虐殺であった。10,000人の犠牲者が加わり、キエフ郊外のバビ・ヤールでの33,000人以上の悪名高いユダヤ人虐殺を上回った。トラヴニキの訓練収容所は、最前線が迫ってきたため、1944年7月に解体された。カール・シュトラーベル自身が率いる親衛隊大隊シュトラーベルを結成した最後の1000人のボランティア軍は、まだ機能していた絶滅収容所でそのおぞましい行為を続行させるため為に西部へ送られた。

 ソビエトは1944年7月23日に完全にもぬけの殻となった収容所施設に入った。 戦後、彼らは何百人、あるいは何千人ものソ連に帰還したボランティア軍兵士(Hiwis)を逮捕し起訴した。ほとんどがグラグ(ソビエト連邦内務省などにあった強制労働収容所・矯正収容所)への移送を言い渡され、1955年のフルシチョフ大統領の下、恩赦により解放された。

 西側で裁判を受けたボランティア軍ヒウィスの数は、比較して非常に少なかった。6人の被告は、すべての訴訟で無罪となり、ハンブルクの西独裁判所で1976年にシュトラーベル司令官を含めて自由になった。ソビエト連邦で逮捕されたトラヴニキの男たちは、反逆罪で訴追され(射殺したことに対してではなく)司法手続の開始から有罪リストに入れられていた。米国では、16人の元ボランティア軍兵士(Hiwis)警備員が国籍を剥奪されたが、そのうちの数人は非常に高齢だった。

◎再就職の試みの失敗
 1943年1月、タトラ山脈の中心地にある占領されたザコパネの親衛隊ドイツ指令センター(Germanische Leitstelle)は、新しく武装親衛隊高地部隊を形成するという趣旨で募集活動に着手した。約200人の若いグラル人(Goralenvolk)が応募したが、無制限にアルコールを提供されていた。彼らはトラヴニキへの旅客列車に乗ったが、ほとんどが素面で、途中のマクフ・ポトハランスキ(MakowPodhala)で列車を降りた。

 トラヴニキには12人しか到着しなかった。 彼らは早速ウクライナ人と大騒ぎを起こし、混乱を招いた。彼らは逮捕され、追放された。1943年4月5日、占領下のクラクフの親衛隊大将クルーガ(Kruger)はその最後の公的な手紙で、(ナチスの)思想全体を実現不可能なものとして放棄した。この失敗により、1943年11月9日、ハンス・フランク(Hans Frank)総裁によって必然的に解任された。クルーガーは2年後にオーストリアで自殺した。

※ Hiwisについて(英文Wikiより)

Hiwi(ボランティア)

 Hiwi([ヒヴィ])という用語は、ドイツ語のHilfswilliger(補助ボランティア)という言葉の略語で、「自発的アシスタント」を意味し、文字通り「自発的なヘルパー」を意味している。第二次世界大戦中、Hiwiという用語は、東ヨーロッパのナチス・ドイツが占領した地域の先住民族から募集された補助軍として、広く人気を博していた。ヒトラーは、バルバロッサ作戦中に後背地区でのソビエト市民の募集を渋々認めた。

 短期間で、彼らの多くは戦闘部隊に移された。1942年後半、Hiwisは第2戦車軍の134歩兵部隊の50%を占め、第6軍団はスターリングラードの戦闘では25%がHiwisの戦闘員からなっていた。

 1944年までに、その数は、ソ連のナチス・ドイツに奉仕する60万人の男女にまで増加していた。ヴェテランのHiwisは、通常のドイツ軍とほとんど区別がつかず、多くが部隊の有能な戦力
となっていた。

 1941年9月から1944年7月にかけて、親衛隊はソ連捕虜収容所から直接Hiwisとして募集された何千人もの協力者補助隊員を雇った。訓練の後、彼らはナチスドイツ軍とともに、ポーランド総督府政府領内と占領されたヨーロッパ東部地域にに派遣され任務に就いた。

 一例として、ドイツの親衛隊と警察は、ルブリン南東のトラヴニキ村に設置されたトラブニキ強制収容所の親衛隊訓練キャンプ部で、1944年末までに5,082人のHiwi警備員を訓練した。

 彼らは "トラヴニキの男たち"(独語:Trawnikimanner)として知られていた。 トラブニキの男たちは、彼らの主な訓練の目的であった「(ユダヤ人問題の)最終解決策」の主要な殺害現場に送られた。

 彼らはベルゼック(Be:zec)、ソビボル(Sobibor)、トレブリンカⅡ(TreblinkaII)、ワルシャワ(3回)、チェストホーワ(Cz?stochowa)、ルブリン(Lublin)、リビフ(Lvov)、ラドム(Radom)、クラクフ(Krakow)、ビャストク(Biaystok)(2回)、マイダネク(Majdanek)、アウシュビッツ(Auschwitz)、トラヴニキ(Trawniki)そのものでもユダヤ人の処刑に積極的な役割を果たした。


注釈
1. Mgr Stanis?aw Jab?o?ski (1927?2002). "Hitlerowski oboz w Trawnikach" [The Nazi camp at Trawniki]. The camp history (in Polish). Trawniki official website. Retrieved July 12, 2014.

2. Tadeusz Piotrowski (2006). "Ukrainian Collaboration". Poland's Holocaust. McFarland. p. 217. ISBN 0786429135. Retrieved July 12, 2014.

3. Holocaust Encyclopedia. "Trawniki" (permission granted to be reused, in whole or in part, on Wikipedia; OTRS ticket no. 2007071910012533). United States Holocaust Memorial Museum. Retrieved July 12, 2014. Text from USHMM has been released under the GFDL.

4. Mgr Stanis?aw Jab?o?ski (1927?2002). "Do?ynki" [Operation Harvest Festival]. The camp history (in Polish). Trawniki official website. Retrieved July 12, 2014.

5. Jack R. Fischel (Jul 17, 2010). "Trawniki labor camp". Historical Dictionary of the Holocaust. Scarecrow Press. pp. 264?265. ISBN 0810874857. Retrieved July 12, 2014.

6. Donald L. Niewyk, Francis R. Nicosia (2012). "Trawniki. A labor camp". The Columbia Guide to the Holocaust. Columbia University Press. p. 210. ISBN 0231528787. Retrieved July 12, 2014.

7. Mgr Stanis?aw Jab?o?ski (1927?2002). "?ydzi w Trawnikach" [The Jews of Trawniki village]. The camp history (in Polish). Trawniki official website. Retrieved July 12, 2014.

8.Mgr Stanis?aw Jab?o?ski (1927?2002). "Ucieczki z obozu" [Escapes from the concentration camp]. The camp history (in Polish). Trawniki official website. Retrieved July 12, 2014.

9.Browning & 1992; 1998, p. 52.

10.David Bankir, ed (2006). "Police Auxiliaries for Operation Reinhard by Peter R. Black" (Google Books). Secret Intelligence and the Holocaust. Enigma Books. pp. 331?348. ISBN 192963160X. Retrieved July 12, 2014.

11.Markus Eikel (2013). "The local administration under German occupation in central and eastern Ukraine, 1941?1944". The Holocaust in Ukraine: New Sources and Perspectives (PDF). Center for Advanced Holocaust Studies, United States Holocaust Memorial Museum. 110?122 in PDF. Ukraine differs from other parts of the Nazi-occupied eastern territories because the local administrators were able to form the Ukrainian Hilfsverwaltung in support of the extermination policies in 1941 and 1942, providing assistance for the deportations to camps in 1942 and 1943.

12. Gregory Procknow, Recruiting and Training Genocidal Soldiers, Francis & Bernard Publishing, 2011, ISBN 0986837407 (page 35).

13. Belzec, Sobibor, Treblinka: The Operation Reinhard Death Camps by Yitzhak Arad, Indiana University Press, 1987, ISBN 0253342937 (page 21)

14. Arad, Yitzak (1987). Belzec, Sobibor, Treblinka: The Operation Reinhard Death Camps by Yitzhak Arad, Indiana University Press, ISBN 0253342937, page 22.

15.Sergei Kudryashov, “Ordinary Collaborators: The Case of the Travniki Guards” (in) Russia War, Peace and Diplomacy Essays in Honour of John Erickson edited by Mark and Ljubica Erickson, London: Weidenfeld & Nicolson, 2004; pages 226-227 & 234-235.

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7.In depth overview of the Trawniki Camp, Trawniki Staff, Photos. - All about Trawniki

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16.Coordinates: 51°08′21″N 22°59′35″E

Wikipedia英語版より翻訳


ポーランド内のナチスドイツの強制収容所及び絶滅工場付き収容所の位置
トラウニキ強制収容所はソビボルとベルゼックの間にある。
出典・Source:Wikipedia Commons
By Lonio17 na podstawie: Maria Wardzyńska: Był rok 1939. Operacja niemieckiej policji bezpieczeństwa
w Polsce. Intelligenzaktion. Warszawa: Instytut Pamięci Narodowej, 2009 - Praca własna, CC BY-SA 4.0, Link

Trawniki concentration camp established during World War II by Nazi Germany
on the territory of occupied Poland in Trawniki near Lublin, initially to hold
Soviet prisoners of war, and from June 1942 also Jews brought in from
Lublin and from all over Europe. Between September 1941 and July 1944,
the camp was also used for training Holocaust  
第二次世界大戦中にナチス・ドイツによって設立されたトラヴィニキ強制収容所
ルブリン近郊のトラウニキで占領されたポーランドの領土にあり、当初は、ソビ
エトの戦争捕虜を収容するために使われたが、1942年6月からはルブリンや全ヨー
ロッパからユダヤ人が連行されてきた。1941年9月から1944年7月まで、収容所は、
ホロコーストの訓練にも使われた。
 出典・Source:Wikimedia Commons
By SS Unknown author - Original at HolocaustResearchProject.org, cleaned up and reformatted in Photoshop, Public Domain, Link

Camps of Lublin Reservation on the map of General Government territory
of occupied Poland with Zakopane at Kreis Neumarkt am Dohnst (extreme southwest) and
Trawniki in the centre   
ザコパネによる占領下のポーランドにおけるポーランド総督府政府領土の地図上
のルブリン収容所Kreis Neumarktでのザコパネと占領されたポーランドの一般的
な政府領土の地図上の位置。南西端のクレイス・ノイマルク・アム・ドンスト
(Kreis Neumarkt am Dohnst)と中央のトラヴニキ
 出典・Source:Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0, Link
One of many mass graves of the Nazi German Operation Harvest Festival, 1943  
ナチスドイツの収穫祭戦略によって造られた死体を登記するための
多数の墓穴(1943年)
出典・Source:Wikimedia Commons
Trawniki men during the pacification of Warsaw Ghetto. Photo
from Jurgen Stroop Report, May 1943  
トラヴニキの男たちのワルシャワ・ゲットーに入ったときの様子。
写真の出典は、ユルゲン・シュトロープ報告書(1943年5月)
 出典・Source:Wikimedia Commons
Von Autor unbekannt (Franz Konrad confessed to taking some of the photographs, the rest was probably taken by photographers from Propaganda Kompanie nr 689.[1][2]) - https://research.archives.gov/description/6003996, Gemeinfrei, Link