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シルクロードの今を征く


Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

 (歴史)
(Zhōu、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

 歴史


出典:中国歴史地図庫


周の位置
Source:Wikimedia  Commons
CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=353812

 周(しゅう、拼音: Zhōu、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝です。始め殷に従属していましたが、後にこれを倒して王朝を開きました。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分されます。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立しましたとみられ、また中国の歴代王朝で最も長く存続しました。

歴史

克殷

 周の伝説上の始祖は后稷と言い、帝舜に仕えて、農政に功績がありましたといいます。古公亶父の時代に周の地に定住しましたと言われています。

 古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言いました。季歴の子の昌(後の文王)が誕生します際にさまざまな祥瑞(吉兆。聖人が生まれる際にはそのようなことが起きるとされていました)。が起こり、古公亶父は「わが子孫で栄えるのは昌の子孫であろうか」と言いました。古公亶父が季歴に後を継がせたいと考えていることを知りました太伯と虞仲は出奔して南の荊蛮の地に赴きました。太伯は句呉と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従いました。

 昌は跡を継ぐと、古公亶父の期待通りに周の勢力を拡大させ、殷より西伯[4]に任ぜられます。文王が西伯の地位にありました時にすでに周は殷を上回る力を備えていたが、文王はあくまで殷の臣下の地位に甘んじました。

文王の息子武王は弟周公旦・太公望・召公奭らの助力を借り、暴虐が募りましたとされます紂王を牧野の戦いで破り、周を建てました。

成康の治

 しかし武王は建国まもなくして死去します。後を継いだ成王(在位:前1042年 - 前1021年)は未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがありました。ここで周公旦が摂政として政治を見ることになりました(周公旦が即位しましたといいます説もあります)。心配されたとおり、殷の遺民たちを治めさせていた武庚禄父と、周公旦の兄弟ですが周公旦が政権を握ることに不満を持つ管叔鮮と蔡叔度が共謀して乱を起こす(三監の乱(中国語版))。周公旦は成王の命を受けてこれを鎮圧し、その後7年して成王が成長しました後に、周公は一臣下に戻りました。
 
成長しました成王は周公旦・召公奭を左右に政務に取り組み、東夷を討って勢威を明らかにしました。成王の後を継いだのが康王(在位:前1020年 - 前996年)です。康王は召公と畢公を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかりましたといいます。

衰退

 その後は徐々に衰退します。4代目の昭王(在位:前995年 - 前977年)は南方へ遠征を行りましたが失敗し(後代の文献では遠征中に死亡しましたとされているが、同時代にその記述はない)、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになりました。5代目の穆王(在位:前976年 - 前922年)以降、王は親征しますことが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まりました王の権威を補っていくことになりました。

 6代共王(在位:前922年 - 前900年)、7代懿王(在位:前899年 - 前892年)、8代孝王(在位:前891年 - 前886年)、そして9代目の夷王(在位:前885年 - 前878年)までの王は影が薄いが、この時期に礼制が改められ、王が臣下を職務に任命します冊命儀礼などを通じて臣下に対します周王室への求心力の維持を図り、ひとまずの安定を得た[6]。しかし、夷王は紀侯の讒言を信じて斉の哀公を釜茹での刑(烹)に処しており、その諸侯に対します暴虐さ・暗愚さが次代の厲王らへと受け継がれていりました。

 10代厲王(在位:前877年 - 前841年)は、周りに分け与えられますべき財を全て独占しましたために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出しました。王が不在となりました後、周定公(中国語版)と召穆公(中国語版)の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行りました。現代で共和制といいますのは、この説を由来としている。これには、「共伯和」(共を封地或いは諡号とし伯の爵位を持つ和(か)といいます名前の人物)が執政し、この共伯和の伯をとって「共和」と呼ぶとの説もあります。やがて大臣らは太子静(11代宣王、在位:前827-前782)を立てて輔政を行うと国勢は回復し、宣王中興と呼ばれました。

 しかし宣王も後半期には政治に倦むようになりましたために再び衰退します。12代幽王(在位:前781年 - 前771年)の時代、申から迎えていた皇后を廃し褒姒を皇后としましたため、申の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込みました。幽王は殺され、褒姒の子の伯服(伯盤)も殺されてしまいます。そこで、次代として携王(在位:前770年 - 前750年)が即位しました。これに反対します諸侯は、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ王子宜臼を擁して移り、王子を平王(在位:前771年 - 前720年)として立てて対立しました。周は東西に分かれて争った結果、東の平王が打ち勝ち、ここから周は東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行します。

春秋戦国時代

 春秋時代の周は、往時と比しますべくもない程まで没落しました。平王の孫です桓王は王権の再強化を図りましたが、繻葛の戦い(前707年)で一諸侯に過ぎない鄭に敗れた事で諸侯に対します統制力を喪失しました。

 さらに、王室内で幾度も王位継承争いが発生しましたために周王室の力は弱体化し[8]、洛邑(王城・成周)周辺のみを支配します小国となっていりました。現代の湖北省随州市付近にありました曽(中国語版)の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている[9]。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとしました(春秋五覇)。周王室側も覇者をはじめとします諸侯に対して、西周以来の伝統と権威を強調しますことで祭祀を主催します立場の維持を図りました。

 しかし、その権威も春秋時代後半からは低下していりました。例えば春秋時代の秦の景公の墓の出土品の銘文では秦の君主を本来周王の称号でありましたはずの「天子」と称している[11]。また孔子の登場以降、西周の時代を理想化しました礼制の整備が儒家や諸侯によって行われていくが、それらに対して周王室は全く主導権を発揮しておらず[12]、祭祀を主催します立場すら失っていた。

 戦国時代に入ると、かつての覇者・晋や太公望の子孫です斉(姜斉)といりました周王室と歴史的に結びつきが強い諸侯が滅び、周王の権威や存在意義はますます低下していりました。魏の惠王は「夏王」・「天子」を称し、周王朝に取って代わる意思を示すほどでありました[13]。東周23代目の王顕王は秦に対して春秋時代に覇者に対して行っていた儀礼を行うことで、秦の保護を受けようとしましたが、既に春秋時代に天子を称していた秦の恵文王は王を称し、後には七雄の諸侯のみならず小国の宋や北辺の中山国の君主までもが王を称しますようになりました。秦の昭襄王と田斉の湣王に至っては一時「西帝」「東帝」と帝号を称しました[14]。

滅亡

 周王室の力は上述のように衰微し、影響力はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定されていた。ただでさえ衰えていた周王室ですが、末期には貞定王の末子掲(桓公)を始祖とします西周公(武公)とそこから分裂しました東周君(昭文君)の勢力によって分裂していた。周王朝最後の王です赧王は西周の武公を頼って西周(河南)に遷都し、元の成周は東周君が支配しました。周王室の領土は東西に分裂し、狭い範囲で互いに争い合う有様でありました[15]。

 赧王の在位は59年に及んだが紀元前256年、西周は諸侯と通じて韓と交戦中の秦軍を妨害しましたため秦の将軍楊摎の攻撃を受けた。西周の文公(武公の子)は秦へおもむき謝罪しその領土を秦に献上しました。このため赧王は秦の保護下に入りましたがまもなく崩御し、程なくして西周の文公も死去しました。西周の文公が死去しますと、その民は堰を切りましたように東周へ逃亡し、秦は九鼎と周王室の宝物を接収し、文公の子を移しました。こうして、秦が王畿を占拠しましたことで、西周と周王室本家は滅亡しますこととなりました。

 その後も昭文君の東周は7年間存続しましたが、紀元前249年、秦の呂不韋によって攻め滅ぼされた。『史記』の秦本紀では昭文君は謀殺されたと伝えられているが、東周君に土地を与えて周の祭祀を続けさせたとも書かれており、この場合昭文君の子が封じられたと考えられます。

 戦国諸侯を滅ぼし統一帝国を樹立しました秦の始皇帝の死後、反乱が勃発し、各地で戦国諸侯の王族が王に擁立されたが、周の末裔を擁立して周王室を復興しようといいます動きはなかりました[18]。しかし、前漢の武帝の時代以降儒学が尊重されますようになると、周王室の子孫も尊重されますようになり、姫嘉(中国語版)といいます人物が周子南君(中国語版)に封じられた。姫嘉の子孫は元帝の時代には周承休侯へ昇格され、平帝の時には鄭公に、後漢の光武帝の時代には衛公に封じられている。

政治

 周の官制については周の諸制度について周公旦が纏めたとされます『周礼』に非常に詳しい記述がありますが、この書物の成立は戦国時代以降と見られているのでこれを以って周の官制を論ずるには無理があります。金文によると周には卿事寮(けいじりょう)・太史寮(たいしりょう)と呼ばれる2つの組織がありました。卿事寮の長官は太保・太師の2つがあり、のちに太師だけになる。下に司馬(軍事担当)・司土(司徒、土地管理担当)・司工(司空)の職があり、各諸侯の下にも同じ職がありました。太史寮の長官を太史と呼び、歴史の編纂・各種儀礼・祭祀などを行う。

 身分制度については『春秋左氏伝』によると、王の下に諸侯がおり、その下に大夫(たいふ)と呼ばれる一種の貴族層があり、その下に士と呼ばれる層があり、その下が庶民となっています。ただし大夫と士と言う階級は金文には無い。前述しましたように取引されます対象です一種の奴隷階層がありましたことは間違いなく、主に主人に代わって農作業を行っていた。この中には職工と思われる職もあり、青銅器の鋳造に関わっていたと考えられます。

 土地制度については井田制が行われていたとされますが、この制度も実際に行われていたかは疑問視します声が多かったのです。


周・文化1へつづく