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シルクロードの今を征く

Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

 ソグド (人)(文化3)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

ソグド(人) 文化3

硬貨


Source: Wikimedia Commns
I, PHGCOM, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com,
CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 エフタルがソグディアナで優勢になった5世紀から6世紀には、ササン朝がエフタルに貢物を送っており、中央アジアとイラン東部にはササン朝のドラクマ銀貨が流入しました。

 ソグド人はエフタルのもとで銀貨を取り引きに使ったため、中央アジアにササン朝の銀貨が普及しました。ソグド人は銀貨を元手にして北方へ進出し、タシュケント(ソグド語でチャーチュ)とソグドは取り引きが盛んになり、タシュケントやイラクへソグド文化が広まりました。

 タシュケントでは小領主が硬貨を発行し、大部分がソグド語の銘文となっており、硬貨の図像はソグドとテュルクが混じっていました。

 5世紀末か6世紀頃に、ブハラのオアシスではササン朝の硬貨を原料としてブハル・フダーと呼ばれる硬貨が発行された。7世紀には複数の都市でブハル・フダーと中国様式の孔のあいた硬貨が発行されました。ソグド人は、遠距離交易用の貨幣と、ソグディアナでの取り引き用の貨幣を使い分けました。

 遠距離交易にはササン朝の銀貨を使い、ソグディアナ内の取り引きには都市が発行したソグド風の硬貨を使った。このため中国ではソグド風の硬貨は発見されていません。

 唐の時代から中国産の物資とともに絹や銅貨が大量に流入して、中国の銅貨(銅銭)も流通しました。中国風に孔が開いた銅貨も発行され、7世紀のサマルカンドの銅貨は「ソグドの王、サマルカンドの支配者」と刻まれていたのです。


ソグドのコイン、6世紀。大英博物館
Source: Wikimedia Commns
PHGCOM, CC 表示-継承 3.0, リンクによる



中国風のソグドの硬貨(銅銭)、8世紀。 大英博物館
Source: Wikimedia Commns
Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com,



ブハル・フダー
Source: Wikimedia Commns
CC 表示-継承 3.0, リンクによる

金融


 遠距離貿易は費用と時間のかかる事業であり、協同で投資をして利益を分配しました。取り引きを行う商人と、投資をする出資者(国家、王族、官僚、軍人、地主など)に大きく分かれており、ソグド人も出資者を集めたり、ソグディアナと遠隔地の商人が協同しました。

 7世紀にはソグド人の金貸しが活動していた記録があります。また、ソグディアナの外に住むソグド人の中には、ソグディアナへの軍事行動に資金を提供した可能性もあります。8世紀から9世紀にはソグド人の高利貸しが長安などで漢人に融資しており、ソグド人が金貸しとして有力になったため、唐政府はソグド人から借りることを禁じました。



 アラビア語やペルシア語の文献によると、ソグドの特産品に紙がありました。9世紀のバグダードの奢侈品のリストにサマルカンド産の紙がありますが、紙を売買していたのがソグド人という記録はありません。

他民族との関係

ホラズム人


 ホラズム人は、ソグド人と並んで中央ユーラシアで活発に交易をした民族です。ホラズムは地理的にはソグディアナの西方に位置し、西方での交易において有利でした。

 568年にビザンツ帝国からの使節がコンスタンティノープルに帰る際に、ソグド人とホラズム人(ホリアタイ人)の王が同行しており、両者は協力していたと推測されます。その後、ソグド人は唐や突厥との取り引きを有利に進めてホラズムの領域にも進出して、8世紀にはホラズムをソグドの交易圏としました。

 8世紀のホラズムの銀貨にはホラズム語とソグド語の表記があり、8世紀末にはアラビア語も加わりました。ホラズムの銅貨にはソグド語表記がないため、銀貨は国を越える貿易に使われたと考えられます。イスラム王朝によってソグド人の活動が次第に衰退すると、北西での交易は9世紀のうちにホラズム人へと主導権が移りました。

ウイグル人

 ソグド人は8世紀に取り引き相手となったウイグルのもとへ入り込み、植民集落(ソグド人コロニー)や植民都市を形成しました。ソグド人はウイグルにソグド文化を持ち込み、なかには遊牧民化する者も現れたため、次第に混血が起こり、ソグド系突厥人やソグド系ウイグル人などの集団が生まれました。

 ソグド文字をもとにしてウイグル文字が考案され、10世紀以降のウイグル文字の仏典はソグド文字にならって縦書きになっています。ソグド人がイスラム王朝によってソグディアナと分断されて衰退してゆくと、ウイグル人は識字力を活かしてオアシス東西ルートの交易を盛んにしました。ウイグル文字による手紙や、各種経済文書、行政文書、諸啓典は14世紀まで作成されており、活発な活動がうかがえます。

 敦煌文書は、19世紀末に王円籙という道士が莫高窟に住み着いたときに偶然に発見し、20世紀に入るとヨーロッパ各国が相次いで敦煌を訪れました。

 1907年にスタイン隊が王から大量の文献を購入し、1908年にフランスのポール・ペリオが敦煌を訪れ、1910年には清が文物の流出を知って文書を持ち出し、1911年には日本の大谷探検隊、1914年にはロシアのオイレンブルク隊も王から文献を入手しました。1919年には中華民国も文物を収容している。こうして大量の文献が敦煌から持ち出されました。敦煌文書は半分以上が9世紀から10世紀のものとされています。

 「さまよえる湖」として知られるロプ・ノールの岸辺に位置する楼蘭では、1901年のスウェン・ヘディン、1906年のスタイン隊、1908年の大谷探検隊らが文献を発見しました。楼蘭の文書は、3世紀後半から4世紀前半です。そのほか、東トルキスタンではコータン、クチャ、営盤などでも漢文の文書が発見され、西トルキスタンではムグ城址からソグド文字や漢文の文書が出土しており、ムグ文書と呼ばれれています。その後も調査は続き、1959年から1975年にかけて中華人民共和国がアスターナ古墓群を調査し、1600点の漢文文書が復元されました。

関連年表
 紀元前540年頃 - キュロス2世がソグディアナを征服。
 紀元前480年 - クセルクセス1世のギリシア遠征にソグド人が従軍。
 紀元前329年 - アレクサンドロス3世の軍隊がサマルカンドを占領。
 紀元前140年〜紀元前130年 - グレコ・バクトリア王国がソグディアナを支配。
 386年〜534年 - 北魏の時代に粟特国(ソグド)が交易を行う。
 5世紀〜6世紀 - エフタルがソグディアナを支配。
 6世紀 - 突厥可汗国がソグディアナを支配。
 646年 - 玄奘の『大唐西域記』で、窣利人として記録される。
 705年〜715年 - ウマイヤ朝のクタイバ・イブン・ムスリムがソグディアナを占領。
   ソグディアナのイスラム化が進む。
 8世紀 - ウイグル(回鶻)が北方のステップ地域を支配。
 755年〜763年 - 安禄山や史思明による安史の乱。乱の失敗により、中国でソグド人が迫害される。
 840年 - ウイグル可汗国が滅亡。中国でソグド人の同化が進む。


春秋・歴史
つづく