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  シルクロードの今を征く

Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

ウイグル(Uyghur、歴史1)
(4世紀~13世紀)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次はウイグルの歴史1です。

ウイグル(歴史1)

 ウイグルは、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族とその国家、及びその後裔と称する民族あるいは現今の政治的必要性から自ら「ウイグル」と名乗る民族[2])を指します。

 現在は中国の新疆ウイグル自治区やカザフスタン・ウズベキスタン・キルギスなど中央アジアに居住しており、人口は約1千万人、テュルク諸語のウイグル語を話すムスリムです。

 なお、古代中国での呼称としては、中国史書で袁紇,烏護,烏紇,韋紇[,迴紇,回紇,迴鶻,回鶻などと表記されてきました。

 以下は、本ウイグルに頻繁に出てくるシルクロード西域、現在の中国新疆ウイグル自治区の地理、地形、、地名などを示しています。いわゆるウイグル族は、今なおこの地図の地域に分布しています。


タクラマカン砂漠、崑崙山脈、天山山脈の位置


民族・定義

 現在でこそ、ウイグル族は中国の新疆ウイグル自治区との関係で、その存在が問題視されていますが、もともとは、以下の地図にあるように、中央アジア一帯、さらにはバルカン半島、トルコから中国東部の満洲に至る広大な地域に分布していました。

 
テュルク系民族の分布
Source:Wikimedia Commons
Users Erdal, Danyalov, Boukephalos, Postmann Michael on de.wikipedia - Own work by wikipedians, パブリック・ドメイン, リンクによる


 ウイグル語はテュルク諸語であるため、ウイグル人はテュルク系民族に属します。なお、テュルク系民族(トルコ民族)とは、「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥、鉄勒、ウイグル、カルルク、バスミル、沙陀族などを一括りにした呼称」と定義されます。

創生伝承

 ウイグルの創生については、モンゴル帝国時代のペルシア語文献においていくつかの物語が記されています。アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(1260年編纂)とラシードゥッディーン『集史』(1314年編纂完成)があります。

 特に後者の『集史』ではテュルク・モンゴル系の諸部族をイスラーム的世界観の枠内で分類しており、これらを大洪水後に現在の人類の遠祖となったノア(ヌーフ)の3人の息子セム、ハム、ヤフェトのうちヤフェト(ヤーフィス)の子孫としています。テュルク系種族をヤフェトの子孫とするのは『集史』以外にも見られますが、『集史』はこれにオグズ・カガン伝説も絡めて述べているのが特徴であり、後世にもこの傾向は受け継がれています。

歴史

古代


 歴史上、ウイグルを含むモンゴル高原や中央アジアの遊牧民族はユーラシア大陸内陸部を拠点として遊牧国家を形成しつつ征服先にオアシス都市国家なども形成しました。

 その活動領域は北アジアのモンゴル高原から中央アジア,イラン高原,アゼルバイジャン,カフカス,キプチャク草原,アナトリアを経て東ヨーロッパのバルカン半島にまで及んでいました。

 匈奴,サカ,スキタイの時代から、パルティア,鮮卑,柔然,突厥,回鶻,セルジューク朝,モンゴル帝国などを経て近代に至るまでユーラシア大陸全域の歴史に関わり、騎兵に裏打ちされた軍事力と交易で歴史を動かしてきました。

 中国史料では狄(古音ティクまたは翟)と記される民族がテュルク系民族または遊牧民に関する最古の記録とされ、狄は赤狄,白狄などに分かれていました。狄は殷・周代に中国の北方(山西省・河北省)に割拠していましたが、度々農耕民との間で戦争を交えた。

 春秋時代には衛・鄭・晋などと折衝した。戦国時代に中山国を建てるが紀元前296年に趙によって滅亡すします。その後この遊牧民族は中原からは姿を消し、紀元前4世紀頃には北方の南モンゴルにいた匈奴が中国文献に登場します。

 他方、古代のタリム盆地地域には古インド・ヨーロッパ語族のトハラ人が居住し疏勒,亀茲,焉耆,高昌,楼蘭などの都市国家が交易により栄えましたが、しばしば遊牧国家の月氏や匈奴などの支配下に入りました。1世紀になると匈奴は分裂し、南匈奴は後漢に服属、北匈奴は後漢,烏桓,鮮卑によって滅ぼされました。

高車(袁紇部)



出典:中国雪花新聞

 丁零人は南北朝時代に北魏から高車と呼ばれるようになります。「高車」とは4~6世紀の中国北朝におけるテュルク系遊牧民の総称で、彼らが高大な車輪のついた轀車(おんしゃ:荷車)を用いたことに由来します。

柔然・北魏時代

 袁紇部は、モンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていましたが、後に台頭してきた柔然に4世紀末から5世紀初頭に柔然可汗国に従属しました。また北魏と数度戦い、390年、道武帝の北伐で大敗を喫し、429年に北魏が漠北へ遠征して柔然を打ち破ると、高車諸部族は北魏に服属し漠南へ移住させられました。

 一時期、高車諸部は孝文帝の南征に従軍することに反対し、袁紇樹者を主に推戴して北魏に対して反旗を翻しましたが、のちにまた北魏に降りました。

 487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たします(阿伏至羅国)。阿伏至羅国は柔然やエフタルと争いましたが、6世紀に柔然に敗れて滅亡しました。


ウイグル・歴史2つづく