シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説 宋(文化3)(Sòng、960年 - 1279年) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, リンクによる 注)牧谿『漁村夕照図』(もっけい筆 ぎょそんせきしょうず) 根津美術館Webサイトより 中国・南宋時代 13世紀 紙本墨画 1幅 縦33.0cm 横112.6cm 根津美術館収 蔵。国宝 夕闇迫る漁村の風景が、多彩な水墨技法を駆使してみごとに描きだされた一幅 である。湿潤な大気と明暗を宿す光の表出、ことに画面の右半分をつらぬく斜陽 の表現は劇的とさえいえる。中国江南地方、瀟水(しょうすい)と湘江(しょうこ う)周辺の8つの景勝を描いた「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)図」のうちの1 図。同様に足利義満の鑑蔵印「道有(どうゆう)」が捺され、法量も一致する作品 が他に3幅現存し、もとは八景を備えた画巻を、義満が座敷飾りのために切断し たものと考えられている。筆者の牧谿は南宋末の禅僧であるが、中国よりもむし ろ日本で高く評価され、わが国の水墨画に多大な影響をおよぼした。 その後、華北山水画を大成させたのが郭煕(かくぎ)です。郭煕は李成に私淑してその技法を受け継ぎ、范寛をも取り込んで二流派を統合しました。李成と郭煕の李郭派と董源と巨然の董巨派が山水画の二大潮流となります。 注)私淑(ししゅく:尊敬する人に直接には教えが受けられないが、 その人を模範として慕い、学ぶこと。) 花鳥画もまた南北の違いが如実に顕われていました。五代の頃、後蜀では「鉤勒填彩」画法が宮廷画家黄筌の一族を中心として行われ、その画風は「黄氏体」と呼ばれました。黄氏は開封で画院の指導的立場を担い、以後の画院では黄氏体が基本とされます。 注)鉤勒塡彩(こうろくてんさい) コトバンクより 中国画の技法の一。対象を輪郭線で縁取り、その内側を彩色するもの。特に、 花鳥画における黄氏体(こうしたい)の典型的な手法で、徐氏体の没骨(もっこつ) とともに、二大技法とされる。 一方、南唐には徐熙とその画風「徐氏体」がありました。徐氏も開封へ移住するが、黄氏が徐氏を排除したため、徐氏は在野となりました。以後、黄氏体では崔白、徐氏体では趙昌などが登場、北宋を通じて両派は発展を遂げ、北宋・南宋交代期の花鳥画の変へと繋がります。以上の専門画家と徽宗が院体画の代表です。 他方、文人画の代表としては蘇軾、その師文同、蘇軾の弟子黄庭堅。米芾とその息子米友仁が挙がります。米芾は江南山水を称揚し、米法山水の技法を生み出しました。 華北失陥の大変動の中で絵画様式にも大きな変化が生まれました。 画院は李唐などにより紹興の末年に再建されました。当時の院体画家には、李唐・馬遠・夏珪・劉松年がおり、南宋四大家と呼びます。 南宋の山水画で評価が高いのは、文人画および禅僧の作品です。画院の華北山水に対して江南山水および米法山水が受け継がれ、淡墨表現と連想による手法が特徴的です。宋迪・智融などの名が挙がります。 花鳥画は現存する数が極端に少ないと言えます。前述のように黄氏体と徐氏体がありましたが、南宋になって輪郭は鉤勒・色彩は没骨という風にこの二つは融合しました。 南宋代は禅僧が修行の合間に描いた絵が多く残っています。その代表が牧谿です。牧谿は淡墨と描線の簡略化が特徴で、同時代には毀誉褒貶が激しく、後の中国絵画に与えた影響はあまり大きくありませんが、日本では極めて高く評価されました。 書 蘇軾「寒食帖」部分 Source:Wikimedia Commons 蘇軾 (Q36020) - Cropped from the original file (direct link) located at:古畫動漫─寒食帖 (展覽). 臺北: 國立故宮博物院., パブリック・ドメイン, リンクによる 黄庭堅「伏波神祠詩巻」部分 Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンク 米芾「呉江舟中詩巻」部分 Source:Wikimedia Commons パブリック・ドメイン, リンク 唐代の「形」を尊ぶ書に対して北宋の書は「意」を尊ぶことに特徴があるとされます。「意」とは書の上で作者の個人としての性・精神性が表現されることを言います。 北宋を代表する書家としては蘇軾・米芾・黄庭堅・蔡襄の4人(宋の四大家)が挙げられます。但し蔡襄は元は悪名高い蔡京が挙げられていましたが宰相として評判が悪かったため忌避されて蔡襄に変わったとも言われます。蔡襄・蔡京共に唐以来の「形」を尊ぶ伝統的な書であり、北宋の「意」を尊ぶ書の代表としては前三者が適当と言えます。また、蔡京を重用した徽宗も書の達人として知られています。 #詩の節で述べたように蘇軾・黄庭堅は師弟関係にあり、書の上でも深い関係がありました。蘇軾の書はその詩と同じく自由闊達、黄庭堅もまたその詩と同じく技巧を凝らした点に特徴があります。 米芾は特に書の研究により後世に与えた影響が大きいと言えます。米芾は知人から書画を借り受け、その精密な複製を作り、知人に対して複製を返したという逸話を持ちます。この過程で書画の真贋を見分けるには作者が気を抜く細部を見ることが重要であると発見しました。 南宋では呉説・陸游などの名前が挙がります。 彫刻 菩薩坐像 Source:Wikimedia Commons Photo by Mountain - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる 宋政府が法律で、何ら意味の無い像や鐘の建造の為に銅・鉄を用いる事を禁止したため、この時代の彫像は基本的に木製です。 彫刻(主に仏教彫刻)は盛唐期を頂点とし、五代から宋代は衰退期にある。現存する数が少なく、その様式の変遷は解らない点も多くなっています。唐の彫刻が概ね豊満で華麗なのに対して宋の彫刻は概ねスレンダーで瀟洒です。唐と宋の美人の概念がそれぞれ顕われた物と考えられられます。 服飾 男性に最も多く着用された普段着は襴衫(らんさん)です。袖は手を覆うほど長さで、袖口が非常に広く、袖山がありません。襟は丸く、裾は襴が前で縫い合わされ帯で結びます。これに幞頭(帽子)を被り、皮製の履を履くのが官僚・胥吏の普段の服装で、素材は綿が多いと言えます。 幞頭は外側を布で作り、内側に革などを重ね合わせて硬くした頭巾で、宋代の特徴は両側に大きな角が付く点です。上層階級では真っ直ぐに長く伸びた「直脚」が多く、下層では曲がった角の「交脚」・「曲脚」が多い。幞頭が広く行き渡ると頭巾は廃れました。 働く者の服装については、一目で職業が判るよう乞食に至るまで職業ごとに服装が定められており、外れた者は相手にされなかったといいます。例えば香料屋の番頭は帽子を被り、背子を羽織り、質屋の番頭は黒い上着に牛角を張った革帯を締め、帽子は被らないといった具合です。 女性の服装に付いて。襦・襖・背子・半臂(ひじまでの袖)・背心(袖無し)・胸当て・腹当て・裙(スカート)・ズボンなどがあり、その中でも背子は上は皇后・皇太后から下は召使などまで好んで着ました。背子とは前が閉じられず、襟が平行なものを言います。背子は男性も着たが、特に女性の間で流行した。丈は様々なものがあります。 士大夫階級の妻は髪飾りとして花を飾ることが一般的であり、様々な趣向が凝らされていました。 直脚の幞頭を被り、襴衫を着た神宗。 Source:Wikimedia Commons Annonymous court painter - National Palace Museum, Taipei, パブリック・ドメイン, リンクによる 庶民の服装。 Source:Wikimedia Commons Zhang Zeduan (1085–1145) - http://depts.washington.edu/chinaciv/painting/4ptgqmsh.htm, Fu Xinian, ed. Zhongguo meishu quanji, Liang Song huihua, shang (Series Vol. 3), pl. 51, pp. 128-137 (This applies to all five sections). Collection of the National Palace Museum, Beijing., パブリック・ドメイン, リンクによる 庶民の服装。 Zhang Zeduan (1085–1145) - <a rel="nofollow" class="external free" href="http://depts.washington.edu/chinaciv/painting/4ptgqmsh.htm">http://depts.washington.edu/chinaciv/painting/4ptgqmsh.htm</a>, Fu Xinian, ed. Zhongguo meishu quanji, Liang Song huihua, shang (Series Vol. 3), pl. 51, pp. 128-137 (This applies to all five sections). Source:Wikimedia Commons Collection of the National Palace Museum, Beijing., パブリック・ドメイン, <a href="https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3507951">リンク</a>による 左の女性が来ているのが背子 Source:Wikimedia Commons Anonymous Song Chinese artist after the original by Gu Hongzhong - http://depts.washington.edu/chinaciv/painting/4literat.htm#hanxizai, Zhongguo lidai huihua: Gugong bowuyuan canghua ji, vol. 1 (Beijing: Renmin meishu chubanshe, 1978), p. 89., パブリック・ドメイン, リンクによる 髪に花飾りを施した皇后[注釈 Source:Wikimedia Commons Imperial Painter - 投稿者自身による作品 (My book), パブリック・ドメイン, リンクによる 宋・文化4へつづく |