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ビザンチン建築1

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日
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 次はトルコのイスタンブルのビザンチン建築です。

◆ビザンチン建築Istanbul、トルコ)


イスタンブールのハギア・ソフィア大聖堂 周囲の4本のミナレットはオスマン帝国時代
にモスクに転用された際に付け加えられたもの。
Jerzy Kociatkiewicz from Colchester, United Kingdom - Hagia Sophia, CC 表示-継承 2.0, リンクによる
Scource:Wikimedia Commons

 ビザンティン建築(ビザンティンけんちく、英語: Byzantine Architecture)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)の勢力下で興った建築様式です。

 日本語ではビザンツ建築と呼ばれる場合もあります。

 4世紀頃には帝国の特恵宗教であるキリスト教の儀礼空間を形成し、そのいくつかは大幅な補修を受けているものの今日においても正教会の聖堂、あるいはイスラム教のモスクとして利用されています。

 ローマ建築円熟期の優れた工学・技術を継承し、早い段階で技術的成熟に達しますが、その後、東ローマ帝国の国力の衰退と隆盛による影響はあるものの、発展することも急速に衰退することもなく存続しました。

 キリスト教の布教活動とともに、ブルガリアやセルビアなどの東欧の東ローマ帝国の勢力圏のみならずロシアあるいはアルメニアやジョージアなど西アジアにも浸透して行きました。

 その影響力は緩やかなもので、地域の工法・技術と融合しながら独自の様式を発展させました。また、初期のイスラーム建築にも影響を与えています。

概要


アギオス・ディミトリオス聖堂(テッサロニキ) 初期キリスト教建築におけるバシリカ式教会堂。
オリジナルのアップロード者は日本語版ウィキペディアHiro-oさん - ja.wikipedia からコモンズに RekishiEJCommonsHelper を用いて移動されました。, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
Scource:Wikimedia Commons

 ビザンティン建築を単に時代区分として捉えた場合、コンスタンティヌス大帝が330年に首都をビザンティウム(のちコンスタンティノポリス)に移転した時から、1453年のオスマン帝国によるローマ帝国滅亡までのほぼ1100年間にも及ぶ時代を指していますが、「東ローマ帝国」「ビザンツ(ビザンティン)帝国」といった呼称が、現代の歴史編集によって、東方世界に継承されたローマ帝国を便宜上区分しているだけであるのと同様に、ビザンティン建築についても、4世紀の時点でローマ建築との様式的、工学的な転換点が明確に存在するわけではありません。

 4世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国では国教となったキリスト教の礼拝空間が形成され、今日、これは特に初期キリスト教建築と呼ばれています。キリスト教徒は教会堂を建設するにあたって、ローマの世俗建築であるバシリカを採用しましたが、ユスティニアヌス帝の君臨した6世紀に、宗教空間としてより象徴性の高いドームを取り入れた儀礼空間を創造しました。

 ハギア・ソフィア大聖堂はその嚆矢であり、バシリカとドームを融合したキリスト教の礼拝空間はそれまでにない全く新しい形態でした。これは、ローマ帝国から受け継がれた高度な建築技術によって完成したものであり、初期ビザンティン建築の傑作であるとともに、ローマ建築の技術的な最終到達点であるといえます。


ハギア・ソフィア大聖堂 ローマの建築技術を結集した初期
ビザンティン建築の傑作。バシリカとドームの融合した教会堂。
Andreas Wahra - German Wikipedia, original upload 2004-10-15, パブリック・ドメイン, リンクによる
Scource:Wikimedia Commons

 しかし、イスラム帝国や異民族の侵入による国土の縮小、帝国の政治機構の転換に伴ってビザンティン建築も変容し、やがて初期ビザンティン建築とは異なった特有の建築形態を獲得するに至りました。

 初期のビザンティン建築が勢力下に張り巡らされた建築材料の流通経路や建設のための高度な施工技術から、ローマの建築(末期ローマ建築)でもあるといえるのに対し、7世紀から9世紀にかけての東ローマ帝国は、古代世界とは異なった状況を迎えているため、この暗黒時代をビザンティン建築の一つの分岐点とする指摘もあります。

 中期以降の東ローマ帝国は地中海貿易の優位性を失い、唯一の大都市コンスタンティノポリスを擁する農業国となったので、初期の建築とは必然的に異なる様相を見せます。

 11世紀初頭には皇帝バシレイオス2世の元で東ローマ帝国は最盛期を迎えるが、巨大な公共建築物は必要とされなくなり、建設の主流は貴族や有力者の個人礼拝のための施設に向けられました。これは9世紀まで続いた聖像破壊運動が修道院の独立を促し、修道院の建設、移転、譲渡が裕福な寄進者によって行われるカリスティキアと呼ばれる制度が形成されたことによのものです。

 多数の人員を収容する必要がなくなったため、教会堂は小型化し、その結果、それまでのバシリカは放逐されて、内接十字型とよばれるドームを頂く中小規模の教会堂建築が主流となったのです。

 9世紀から13世紀までの中期ビザンティン建築には、ほとんど変化が見られなかったのですが、十字軍の侵略による国家の分裂、西ヨーロッパの宮廷との繋がりなどにより、帝国末期の建築には多様性が見られるようになりました。

 帝国に在留する西欧人は自国の建築を移植したため、末期ビザンティン建築には、ロマネスク建築やゴシック建築の影響を受けたものも散見されますが、その発展は帝国の滅亡とともに途絶え、東欧諸国の建築にその影響を残すのみとなりました。

 東ローマ帝国では、住宅や宮殿、貯水槽、要塞、橋梁、慈善施設などの建造物が造られたことが豊富な文献より明らかですが、こうした中期以降の世俗建築はほとんど残っていません。また、東ローマ帝国の文書は細部の説明が不明瞭で、日常生活についての記述がほとんどないため、ビザンティン建築の実情をはっきりと説明できる建築物は残存する教会堂建築に限られます。しかし、東ローマ帝国の人々は教会建築しか造らなかったわけではありません。


ビザンティン建築2へつづく