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隠れたサクラの名所
池上本門寺

16.本門寺の概要と歴史

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
April 10, 2016  Independent Media E-wave Tokyo 
            隠れた桜の名所 池上本門寺 総目次
①はじめに  ②参道、総門  ③比経難持坂  ④寺の猫  ⑤全体配置
⑥仁王門 ⑦日朝堂  ⑧長栄堂 ⑨鐘楼、聖人像  ⑩五重塔、墓地
⑪大堂 ⑫経堂、泰宝殿 ⑬本殿 ⑭多宝塔 ⑮御廟所
⑯概要、歴史 ⑰伽藍、境内 ⑱所蔵文化財 ⑲朗峰堂、松濤園

 以下は以上みてきました池上本門寺の全体概要、縁起、歴史です。

◆池上本門寺の概要


出典:Wikipedia

 寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし、古くより池上本門寺と呼ばれてきました。また日蓮聖人入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつとされ、七大本山のひとつにも挙げられているます。

 なお、御入滅とは生死を超越した境地に入ること、高僧が死ぬことを意味します。


◆池上本門寺の概要

 日蓮宗大本山の一つであり、日蓮入滅の地。慶長年間(1596-1615)には徳川家康から寺領100石をうけるなど、徳川家や諸大名の信仰をあつめました。

 全国に旧末寺約200ヶ寺を持つ大寺院で境内には、加藤清正の供養塔や徳川家墓所、幸田露伴や力道山の墓などがあります。

 小堀遠州の築園と伝えられている松涛園は、西郷隆盛と勝海舟が会見した場所といわれ、都の指定旧跡となっています。また、国の重要文化財の五重塔は、慶長12年(1607)二代将軍秀忠が、乳母正心院の願いで建立したもので、高さは29.8m、関東では最古のものです。

出典:大田区教育委員会掲示


◆池上本門寺の縁起

 池上本門寺は、弘安5年(1282年)、日蓮聖人身延山から常陸へ向かう途中に当地へ立ち寄り、創建しました。

 日蓮聖人はその後入滅し、池上宗仲は69,384坪を寄進、日蓮六老僧の一人日朗上人が、現在の池上本門寺の礎を築きました。

 慶長年間には徳川家康から寺領100石をうけ、江戸時代初期には加藤清正、前田利家や紀伊徳川家等諸侯の祈願寺となり多くの保護を受けましたが、寛永7年(1630)に不受不施派の禁令により、不受不施派の中心的存在であった池上派の本門寺16世貫主日樹は飯田に流罪されました。

 幕末、慶応4年(1868)には、東征軍の東海道先鋒本営が置かれています。

 出典:猫のあしあと


◆池上本門寺による縁起

 池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百十数年前の弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。

 日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。

 長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。

 毎年10月11日・12日・13日の三日間に亘って、日蓮聖人の遺徳を偲ぶ「お会式法要」が行われ、殊にお逮夜に当たる12日の夜は、30万人に及ぶ参詣者で賑わいます。

 そして池上本門寺は「日蓮聖人ご入滅の霊場」として700年余り法灯を護り伝えるとともに、「布教の殿堂」として、さまざまな布教活動を展開しています。

 出典:池上本門寺公式Web


◆池上本門寺の歴史

 下は 池上本門寺絵図です。右端に96段の階段があります。それより少し左側に仁王門、さらに右、ほぼ真ん中に 大堂が見えます。


池上本門寺絵図   出典:池上本門寺公式Web

 弘安5年(1282年)9月8日、病身の日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かいます。

 9月18日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着します。生涯最後の20数日間を過ごすこととなります。同年同月に、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源といわれています。

 同年10月13日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれます。

 以来「池上本門寺」と呼びならわされています。その後は日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承しました。

 池上氏館の居館部分は本門寺西側の谷の一帯にあったと考えられており、現在は、1276年(建治2年)建立された池上氏館内の持仏堂(法華堂)を起源とする本門寺の子院・大坊本行寺の境内となっています。

 本門寺は、鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも加藤清正や紀伊徳川家等諸侯の祈願寺となり栄えました。

 江戸時代、不受不施派を奉ずる本門寺は、身池対論を経て久遠寺の傘下に収まりました。第二次世界大戦の空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失しましたが、戦後順次復興しています。


つづく