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初秋の肥前歴史短訪
K名護屋城と朝鮮唐津
〜窯業と茶の湯〜

青山貞一 
15 October 2010
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁

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J名護屋城博物館
K名護屋城と朝鮮唐津〜窯業と茶の湯〜
Lアナロジーとしての名護屋とドレスデン

■日本の陶芸、茶の湯文化の源流

 私は今回の福岡北部〜太宰府〜佐賀北部の探訪で、朝鮮と当該地域との関係を多面的に見てきた。

 それはひとつは13世紀から14世紀にかけて起きたいわゆる「文永・弘安の役」による2度に及ぶチンギス・ハーン率いる「元寇」との以下の関係である。

青山貞一:初秋の筑前歴史短訪 @西南学院大学に残る 「元寇防塁」
青山貞一:初秋の筑前歴史短訪 Aモンゴル帝国(大元)と日本の対応
青山貞一:初秋の筑前歴史短訪 B蒙古来襲・文永の役と「元寇防塁」
青山貞一:初秋の筑前歴史短訪 C蒙古来襲・弘安の役と今に残る「元寇防塁」
青山貞一:初秋の筑前歴史短訪 F道真と太宰府天満宮

 また元寇防塁の跡を探索するために偶然訪問した福岡市博多区に残る秀逸な寺中町と禅寺とりわけ聖福寺と栄西禅師による茶の湯の開祖である。

青山貞一:初秋の筑前歴史短訪 D博多区に残る秀逸な寺中町と禅寺

 私は以下のように綴っている。

 すなわち、聖福寺は今から815年以上前の建久6年(1195年)、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将、源頼朝によりこの地を賜り、栄西禅師を開山として創建された日本で最初の禅寺である。 山号を「安国山」、寺号を「聖福至仁禅寺」という。後鳥羽上皇より、日本で最初の禅寺である事を意味する「扶桑最初禅窟」の号も得ている。
....
 聖福寺の境内は、寺中町を形成しており、今に残る博多の地名で普賢堂、中小路、魚町、店屋、蓮池、西門などは当時からのものである。ちなみに寺中町は、寺の境内の中にまちがあることを意味する。
....
 聖福寺を開山した栄西禅師は、中国の宋より茶を日本に持ち帰り、聖福寺の境内などに植え、 各地に茶を広めている。同時に栄西禅師は宋の喫茶も伝えており、「喫茶養生記」という書も著し、 茶文化の先導的役割を果たている。

引用終わり

 聖福寺ができたのは、今から815年以上前、建久6年(1195年)、すなわち12世紀末であり、栄西禅師が生きたのは1141年5月27日 - 1215年8月1日、すなわち12世紀から13世紀である。栄西禅師が大陸(宋や朝鮮)から茶の湯の文化を日本に持ち帰ったのは、まさに「文永・弘安の役」の少し前であった。


聖福寺の山門
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.12


聖福寺境内にそったすばらしい土塀
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.12


聖福寺を開山した栄西禅師
出典:栄西頂相(聖福寺蔵)

■「文禄・慶長の役」と窯業

 このように、日本の和の文化の粋と言える、窯業や茶の湯の文化の源は、いずれも時間的には12〜13世紀にあり、源流は中国や朝鮮にある。

 いうまでもないことだが、日本の陶芸や茶の湯の文化の多くは、中国大陸や朝鮮半島からの影響を受けてきた。その源流は2〜3世紀にさかのぼるが、実質的に窯業として陶芸が日本で栄えるようになったのは、「文禄・慶長の役」以降であると思える。

 より具体的に見れば、私は仮説として日本の陶磁器の多くの技術は、「文禄・慶長の役」をひとつの大きな境界として朝鮮からの大きな影響を受けていると思う。

 私の「初秋の肥前歴史探訪」のI〜Kの論考で見てきたように、「文禄・慶長の役」では、天下を統一した豊臣秀吉が家臣らへの報償として朝鮮南部の土地を領地として接収(実際は収奪)しようという目的で、2度に渡り朝鮮に侵攻(侵略)している。

 これは南朝鮮の釜山の戦い、南原城における戦いのように根こそぎ朝鮮の人々を殺戮、収奪するなどして甚大な損害、悲惨な被害を与えるなど、その後も続く日本の朝鮮半島への植民統治の端緒を開く歴史的な大罪と言える行為である。

 しかし、皮肉にもこの「文禄・慶長の役」の後、多くの朝鮮人の陶工が強制連行を含め西日本各地、とくに九州北部から山口地方に連れてこられることにより、日本の窯業、さらには日本の茶の湯に大きな足跡を残すことになったと推測できる。

 とくに朝鮮唐津と呼ばれる陶芸技術は、その名のように朝鮮半島から名護屋、西唐津、唐津と伝わったものであり、酸素が欠乏した状態でいぶすように焼成する技術である。

 この朝鮮唐津という陶芸技術は、後(平安時代末)に酸化焔焼成に転換し、愛知県知多半島の常滑焼や愛知県渥美半島の渥美焼、さらには信楽、丹波、越前などの窯業へと展開されてゆく。他方、上述の朝鮮唐津の伝統技法は、今回訪問した各地、すなわち肥前、備前、珠洲に伝わって行くのである。


九州、山口地方の主な焼物産地
出典:http://item.rakuten.co.jp/kuramoto/c/0000000649/

 私見では、先に述べたように日本の窯業と茶の湯の文化の源は、聖福寺なる日本最初の禅寺と栄西禅師の存在にあるように、いずれも時間的な源流は12〜13世紀にあり、地理的な源流は中国や朝鮮にある。

 しかし、日本独特の茶の湯文化の開花はいうまでもなく、豊臣秀吉を中心とした桃山時代(16世紀)に起きる。

 千利休(1522年〜1591年)は中世末期から安土桃山時代の茶人であり今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられているが、その文化の神髄は、何も削るものがないところまで無駄を省き、緊張感を作り出すという、いわゆるわび茶(草庵の茶)の完成者として知られている。

 この桃山時代、千利休を端緒とし、日本国内に開花した日本独自の茶の湯の文化は、「文禄・慶長の役」の後、朝鮮からきた陶工職人の存在抜きには考えられないと思えるのである。

■名護屋城と朝鮮唐津

 ところで、「文禄・慶長の役」の日本側の拠点は、先に見てきたように名護屋、今の佐賀県唐津市鎮西にある。

 唐津に限らず、この肥前北部地方には、有田焼、伊万里焼など日本を代表する窯業の拠点がある。朝鮮唐津や茶の湯の世界でも有名だが、有田や伊万里の焼き物もそれに劣ることはなく秀逸である。

 なぜ、唐津焼、有田焼、伊万里焼がこの地に栄えたか? 

 これも私の仮説であるが、上記の日本を代表する窯業の地は、 「文禄・慶長の役」のために朝鮮に最も近い日本本土の拠点として豊臣秀吉が築いた名護屋城と家臣や大名が構築した陣屋の位置と無関係ではありえないのではないかと思える。 

 唐津やもとより有田、伊万里も名護屋に隣接する地域であり、地勢にある。ではなぜ、窯業の地理的拠点が名護屋ではなく、隣接する唐津、有田、伊万里となったのかだが、これも私が考える仮説だが、名護屋には秀吉の名護屋城及びその周辺には160人に及ぶ家臣、大名の陣屋があったからではないか。これらの城や陣は、まさに朝鮮と対峙する軍事拠点であり、そこには窯業を安定的、継続的に行う物理的な場所がなかったからではないかと思う。

 下図は、今回の探訪で探した西唐津から名護屋(唐津市鎮西町)にかけて現存する朝鮮唐津を中心とした唐津焼の窯元の位置を示す地図である。

 
唐津市ふるさと会館アルビノ2階朝鮮唐津展示場にあった地図より
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8 2010.9.12

 上の地図には唐津中心部の窯元は含まれていない。 

 上の地図を見ると、名護屋地区に現存する窯元は、いずれも名護屋城や陣屋を避け、海沿い及び西唐津に集中し存在していることが分かる。とくに臨海部と西唐津に集中していることが分かる。当然、唐津にはさらに多くの窯元が集中している。

 ※佐賀県唐津・伊万里・有田の現存する窯元一覧

■唐津焼の種類

・唐津焼とは
(出典:Wikipedia)

 唐津は古くから対外交易拠点であったため、安土桃山時代から陶器の技術が伝えられていたといわれ、現在も佐賀県の岸岳諸窯など至る所に窯場跡が点在する。

 唐津焼の名称は、唐津焼積み出しの際、唐津港からなされていたことによる。だが、唐津焼が本格的に始まったのは、
文禄・慶長の役の頃、大陸から技術が伝えられたのがきっかけとされる。

 草創期は食器や甕など日用雑器が中心であったが、この頃になると唐津焼の特徴であった質朴さと侘びの精神が相俟って茶の湯道具、皿、鉢、向付(むこうづけ)などが好まれるようになった。

 また、唐津の焼き物は京都、大坂などに販路を拡げたため、西日本では一般に「からつもの」と言えば、焼き物のことを指すまでになった。とりわけ桃山時代には茶の湯の名品として知られ、一井戸二楽三唐津(又は一楽二萩三唐津)などと格付けされた。

 だが江戸時代に入って窯場が林立したために、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となった。それ故に鍋島藩は藩内の窯場の整理、統合を断行、それによって窯場は有田に集約されたため、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊された。

 しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続した。その間の焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津と呼ばれる。 

 明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭もあって、多くの窯元が廃窯となった。

 だが後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興に成功させた。現在は約50の窯元があり、伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みたりと、時代の移り変わりの中で、着実な歩みを遂げている。


唐津市ふるさと会館アルビノ2階唐津展示場にて

・唐津焼の特徴(出典:Wikipedia)

 唐津焼の特徴は、李氏朝鮮(一説に、華南)から伝わったとされる伝統的な技法が今に根付いているところである。

 特に蹴轆轤、叩き作りといった技法は古唐津から伝わる技法で、現在もこの製法を行っている窯がある。

 窯は連房式登り窯という大がかりな窯を用い、そこで1300度の高温で一気に焼き締める。意匠は茶器として名声を馳せただけあって、非常に素朴で、それでいながら独特の渋みがある。

 以下は、唐津駅前にある「ふるさと会館アルビノ」の2階で行われていた唐津焼展示会で撮影したものである。


唐津市ふるさと会館アルビノ2階唐津展示場にて
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8 2010.9.12


唐津市ふるさと会館アルビノ2階唐津展示場にて
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8 2010.9.12


唐津市ふるさと会館アルビノ2階唐津展示場にて
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8 2010.9.12

 下は唐津焼は時代によって様々な焼き物が焼かれた。大きく分けて次のようなものがある。

絵唐津
器に鬼板と呼ばれる鉄溶液を使って花鳥、草木といった意匠を描き込んで、灰色釉など透明な釉薬を流し込み、焼成したもの。土色の器肌と単純でありながら伸びやかな意匠が相俟って、独特のわびしさを生み出す。

朝鮮唐津
李氏朝鮮の陶工から伝わった伝統的なスタイル。黒色を付ける鉄釉を上から流し、白色を付ける藁灰釉を下から掛けたもので、二つを交わらせて風景を表すもの。上下逆の物もある。


●斑唐津
長石に藁灰を混ぜて焼成する事で粘土に含まれる鉄分が青や黒などの斑になったもの。独特のざんぐりとした風合いは茶器に好まれる。

三島唐津
朝鮮の陶器、三島手の技法を受け継ぎ、日本風にアレンジしたもの。象嵌の一種で、器が生乾きのうちに雲鶴や印花紋などの紋様を施し、化粧土を塗って、仕上げ作業を施し、その上に長石釉、木炭釉を掛けて焼成したもの。

粉引(こびき)唐津
褐色の粘土を使用、生乾きのうちに化粧土を全面に掛け、乾燥させた後に釉薬を掛けたもの。

奥高麗(おくごうらい)
高麗茶碗の井戸、呉器、熊川風の造形の茶碗で、通常、無地である。和物茶碗として極めて評価が高い。


●瀬戸唐津

●青唐津

●黄唐津

●彫唐津

●刷毛目唐津

●櫛目唐津

●蛇蝎(じゃかつ)唐津

●二彩唐津

緑色銅釉と茶褐色の鉄飴釉で松文などが描かれた。産地としては武雄系唐津古窯などが知られている。現在はあまり作られていない。

出典:Wikipedia

つづく

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