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「元寇防塁」の歴史的背景について概括してみたい。 ◆歴史的経緯 13世紀初め、チンギス・ハーン(下の写真)はアジアから欧州に及ぶ史上最大の帝国を築いている。この帝国をモンゴル帝国と言っている。 チンギス・ハーン 出典:Wikipedia
モンゴルは1271年、国号を中国風に元あるいは大元と改めた。1279年、巨大化したモンゴル帝国は中国の南宋を滅ぼし、その支配は東アジア、東南アジア全域にまで達する。 チンギス・ハーンとその息子たちは、13世紀から14世紀にかけ、下図にあるように、アジアの大半そして欧州にいたる地域を支配する史上最大の帝国になった。 どの段階から本格的な「帝国」となったかは議論の余地があるところだが、1206年、クリルタイでチンギス・ハーンが「大ハーン」(国王)になった時とされている。ちなみに「ハーン」は王、国王を意味する。 モンゴル帝国の拡大 出典:Wikipedia
下はモンゴル帝国が欧州に攻め入ったときの『ワールシュタットの戦い』の絵画。左がモンゴル軍、右がポーランド・チュートン騎士団連合軍。 14世紀に書かれた聖人伝『シレジアの聖ヘドウィッヒの伝説』より ◆モンゴル帝国と日本との関係 1260年、チンギス・ハーンの孫、フビライ・ハーンがモンゴル帝国の王、ハーン(汗)に即位する。フビライは当初、中国大陸の征服(統一)に力を入れる。 フビライ・ハーン 出典:Wikipedia
大元時代の文物、菩薩像 出典:江戸東京博物館モンゴル至宝展 大元時代の文物、フビライが使った鞍 出典:江戸東京博物館モンゴル至宝展 以下は、元朝の系図である。@がチンギス・ハーン、Dがフビライである。 元朝系図 出典:Wikipedia モンゴル帝国は大都(今の北京)に都を移し、「金」と「南宋」を滅ぼし、当時、世界史上屈指のアジアから欧州さらにベトナムなど東南アジアに至る一大帝国を築く(下図を参照)。 モンゴル帝国の最盛期 出典:Wikipedia ※ 最盛期のモンゴル帝国全図 「金」、「南宋」のおおよその位置は以下。「大理」は現在の中国雲南省、「西夏」は中国の西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)を意味する。 当時の東アジア諸国 1268年、モンゴル帝国はすでに服属していた朝鮮半島の「高麗」を経由して日本に初めて使者を送った。 これに対し、日本側は京都の朝廷に代わり鎌倉幕府の北条氏が専制を行っていたが、モンゴル帝国の使者に返書も送らずフビライの要求を無視する。 その後、再度、モンゴル帝国のフビライの使節が筑前に上陸し、日本側の外交機関があった大宰府で交渉が行われる。 モンゴル帝国は、通常、中国の王朝が服属を求める場合の文書よりも丁寧な書式で親書を書いていた。そこでは日本を臣下として扱うような失礼なこと、すなわち日本に服属を求めたわけではなかったとされている。 しかし、これより前、朝鮮(高麗)の三別抄(下の解説を参照)がモンゴル帝国の猛攻を受けたとき、三別抄からの救援依頼を拒絶していた鎌倉幕府は、今回も、モンゴル帝国の国書を黙殺し、使者はモンゴル帝国に再度、帰国せざるを得なかった。
下はNHKの「蒙古襲来の衝撃 〜三別抄と鎌倉幕府」の一部。 NHKの「蒙古襲来の衝撃 〜三別抄と鎌倉幕府」の一部 鎌倉幕府の北条時宗は、モンゴル帝国は「征服民族」であると考え、また鎌倉幕府が武断政策をとっていたこともあり、モンゴル帝国フビライの申し出を無碍にはねつけたとされている。 北条時宗 武断政策とは、武力を背景にして行われる専制的な政治を意味する。後に豊臣政権で軍務を担い文禄・慶長の役で朝鮮侵略を進めた加藤清正、福島正則は武断派の典型的な武将である。 さらに3年後の1271年、またもモンゴル帝国の使者が太宰府に来る。そのとき使節はモンゴル帝国への服属を命じる国書を携えていた。幕府はこれを朝廷に進上するも、朝廷は急遽伊勢に勅使を派遣し神々に異国降伏を祈るだけであったという。 そして翌年の1272年、鎌倉幕府は「異国警護番役」を鎮西に設置し、少弐氏や大友氏を鎮西奉行の役目につけたのである。 つづく |