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超高層ビルの谷間の日本の美

東京芝の増上寺

19.狭山山不動寺

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda


November 10, 12, 15, 18, 24 2014
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超高層ビルの谷間の日本の美 東京芝の増上寺
@紅葉   E徳川家霊廟門   J三解脱門   O芝東照宮 
A増上寺概要   F徳川家霊廟   K方丈門   P絵はがき1
B伽藍・大殿   G四大菩薩   L御成門    Q絵はがき2
C伽藍・安国殿   H鐘楼堂・水盤舎   M有章院霊廟門   R狭山不動寺
D西向観音 I惣門 N大門 補遺
歴代徳川将軍家家系

◆狭山山不動寺

 増上寺の隣徳川秀忠公の台徳院霊廟の多くは、太平洋戦争、第二次世界大戦で焼失しましたが、その後、その国有地を買収し、プリンスホテル群を開発したコクドの堤義明氏は、西武ドームがある埼玉県所沢市に狭山山不動寺(尊)という寺院を建立し、そこに焼失を免れた勅額門、御成門、丁子門(重要文化財)、第一多宝塔(埼玉県指定有形文化財) の2つの霊廟と多宝塔を移築しています。

 本稿は、現地調査未了のため暫定稿としてかいています。2014年11月下旬に現地調査を行った上で執筆を完了する予定です。

 2014年11月24日(月)、青山貞一、池田こみちは、埼玉県所沢市にある狭山不動寺に現地調査を敢行しました。詳しくは狭山山不動寺ブログをご覧ください!

◆狭山山不動寺(尊)

本堂 所在地 埼玉県所沢市上山口2214
山号  狭山山
宗派  天台宗
寺格  別格本山
本尊  不動明王
創建年  昭和50年4月26日
開基  堤義明
正式名 不動寺
文化財 勅額門、御成門、丁子門(重要文化財)、第一多宝塔(埼玉県指定有形文化財)


狭山不動尊境内案内図

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-15

 私達は朝10時に練馬を出発し、関越自動車道の所沢インターで降りた後、浦和・所沢線で所沢市西部まで行き、その後、西武ドームがある所沢市上山口に向かいました。

 最初に狭山不動寺の隣にあります真言宗の山口寺を参拝視察した後、狭山不動寺の裏門(桜門)から境内に入りました。
 
 入ってすぐのところに、下の写真にあるように沢山の大きな石灯籠がありました。池田がひょっとしたらとひとつの石灯籠に刻まれている文字、年号などを見たところ、やっぱりです。ここにあった沢山の石灯籠はいずれも増上寺から運んできたもので、いずれも寛永年間のものであり、かつ増上寺と彫られていました。


増上寺からもってきた石灯籠    撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24

 石灯籠には、戒名「清揚院殿圓誉天安永和大居士」がたくさんありました。これは三代将軍家光の三男綱重のことです。


増上寺からもってきた石灯籠    撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24

 下が狭山山不動寺の本堂です。


狭山山不動寺(尊)    出典:Wikipdeia

 狭山山不動寺には、昭和50年に増上寺からコクド、西武プリンスによって移築された以下の文化財とともに多くの石道路なども移築されていました。

 台徳院霊廟は太平洋戦争前まで増上寺の一角にありましたが、台徳院霊廟の大部分の施設は焼失し、惣門を除いた三棟が徳川家墓所の改葬を機に、狭山山不動寺に移築されています。

1)勅額門 - 増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から移設した。
       後水尾天皇の筆により『勅額』門とされる。
2)御成門 - 増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から移設した。
3)丁子門 - 増上寺にあった崇源院(お江の方)霊廟から移設した。


◆勅額門

 下は、勅額門の解説板です。 増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から移設したもので後水尾天皇の筆により『勅額』門と書かれています。


勅額門の説明
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24

 現在、勅額門は狭山山不動寺の正規の正面玄関門となっています。


狭山山不動寺にある旧台徳院霊廟の門


◆御成門

 以下は御成門です。 増上寺にあった徳川秀忠(台徳院)の廟から移設したものです。


狭山山不動寺にある旧台徳院霊廟の御成門(重要文化財)


狭山山不動寺にある旧台徳院霊廟の御成門(重要文化財)  
出典:所沢市

◆徳川秀忠の 墓所・遺骸について

 法名は台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士。墓所は東京都港区の一角にあった台徳院霊廟であったが戦災で焼失し、昭和33年(1958年)に台徳院霊廟が増上寺本堂近くに移転改築された際、土葬されていた秀忠の遺骸も桐ヶ谷斎場で荼毘に付されて改葬されました。

 この際に秀忠の遺体の調査が行われたが、その遺体は、棺の蓋や地中の小石等の重みにより、座した姿勢のままその衣服等とともに縦に圧縮され、畳んだ提灯の如くつぶれていました。

 圧縮により変形が激しく、また骨が著しく分解され軟化していたため、詳細な調査は不可能であった。毛髪等の調査の結果、秀忠の血液型はO型で、四肢骨から推定した身長は157.6cmでした。

  また、かつての霊廟室内には宝塔が祀られていたが、こちらも戦災で焼失した。現在は内室崇源院(江)と共に合祀されています。

 出典:Wikipdeia

 下の写真は御成門から御成門を見たところです。


御成門から御成門を見たところ
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24

 下の写真は、勅額門より御成門を見たところです。


勅額門
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-24


◆丁子門

 以下は、丁子門の解説です。

 この 丁子門は増上寺にあった崇源院(お江の方)霊廟から移設したものです。


丁子門の解説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24


丁子門の前で
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-24


丁子門
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-24

崇源院(お河の方)
(すうげんいん、天正元年〈1573年〉 - 寛永3年9月15日〈1626年11月3日〉)

 安土桃山時代から江戸時代初期の女性。一般には江(ごう)、小督 (おごう)、江与(えよ)として知られています。位階は従一位です。

 浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉・常高院(初)は京極高次正室。猶女に鷹司孝子がいます。

 最初の婚姻相手は佐治一成でしたが、秀吉によって離縁させられています。2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、娘の完子が生まれましたが死別しています。3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠です。

名前について

 「崇源院」は諡号である。幼名(通称)は「督」で、『太閤素性記』では「小督御料人」と記しており、「小(お)」は「御料人」と対になる敬称であることから、読みは「おごう」であると考えられていますが、宮中の上級女房名として「こごう」と読める可能性も考えられています。

 また、『柳営婦女伝系』などでは「督」と音が通じる「江」(読みは同じく「ごう」)として記されており、これは生地の近江もしくは江戸に因んで宛てられたものと考えられており、徳川秀忠に嫁ぐ際に「江」に改名された可能性も考えられています。

 近世期の女性は、在所に由来する号や位階を得る際などに諱を用いています。江は将軍御台所時代に「江与」と呼ばれている他、江戸城北側の邸宅を表す「北方」、将軍家世嗣正室を意味する「御新造」、将軍正室を意味する「御台所」、大御所正室の「大御台所」と記した資料が見られます。

 近世期女性の諱は、幼名に「子」を付けるケースが多いです。江も諱として「江子」(読みは「ごうし」もしくは「えこ」「きみこ」か)を用いているほか、没後に従一位を追贈された際には「達子」(さとこ/みちこ)が用いられています。

 出典:Wikipdeia

 なお、本稿に関連し別途、以下の現地調査を実施し、19本の論考を執筆しています。ご関心がおありの方は、以下をご覧ください。

◆青山貞一・池田こみち:徳川将軍霊廟現地調査 狭山山不動寺(所沢市)
@調査の背景と目的 E第二多宝塔、康信寺 J桂昌院宝塔 O御成門
A狭山不動寺全体 F大黒天 K本殿、書院晴明閣 P台徳院霊廟詳細1
B桜井門・石灯籠 G羅漢堂 L徳川霊廟門 Q台徳院霊廟詳細2
C石灯籠の全国移築1 H鐘楼・総門 M丁子門 R崇源院霊廟詳細
D石灯籠の全国移築2 I第一多宝塔 N勅額門
出典:青山、池田:徳川将軍霊廟現地調査 狭山山不動寺(所沢市)、2014年11月


つづく