エントランスへはここをクリック   

超高層ビルの谷間の日本の美

東京芝の増上寺

7. 徳川将軍家霊廟

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda


November 10, 12, 15 2014
Alternative Media E-wave Tokyo
無断転載禁
超高層ビルの谷間の日本の美 東京芝の増上寺
@紅葉   E徳川家霊廟門   J三解脱門   O芝東照宮 
A増上寺概要   F徳川家霊廟   K方丈門   P絵はがき1
B伽藍・大殿   G四大菩薩   L御成門    Q絵はがき2
C伽藍・安国殿   H鐘楼堂・水盤舎   M有章院霊廟門   R狭山不動寺
D西向観音 I惣門 N大門 補遺
歴代徳川将軍家家系

◆徳川将軍家霊廟( Mausoleum of Tokugawa Family)


徳川将軍霊廟   出典:グーグルマップ


芝増上寺徳川家霊廟 鋳抜門 についている徳川家の紋章
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-12

 徳川歴代将軍の霊廟は、通常非公開です。土日あるいは団体に対して有料(500円、記念品あり)で公開しています。記念品は、旧有章院霊廟及び旧文昭院霊廟のモノクロ写真、旧霊廟の大番地図など大変貴重なものです。


徳川将軍家霊廟特別公開の看板
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-15


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-15


◆徳川家霊廟

 増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。

 第二次世界大戦前には台徳院(秀忠)霊廟、崇源院(秀忠夫人)霊牌所、文昭院(家宣)霊廟、有章院(家継)霊廟が旧国宝(建造物)に指定されており、その壮大さは日光東照宮に引けを取らないものだったが、昭和20年(1945年)に2度の空襲があり3月10日に北廟68棟が被災、続く5月25日に南廟28棟が被災し、その建造物群のほとんどを焼失した。

 現在は台徳院霊廟の門4棟と、有章院霊廟二天門、文昭院霊廟奥院中門(鋳抜門)を残すのみであり、それらも現在は私有であり管理もままならず保存状態の悪さが目立つ。焼け残った建築のうち以下のものが重要文化財に指定されている。

 台徳院霊廟 惣門(芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内)


増上寺の惣門  撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 台徳院霊廟 勅額門、丁字門、御成門(以上3棟はホテル建設に際し、埼玉県所沢市の狭山山不動寺(西武ドーム前)に移築されている)


狭山山不動寺にある旧台徳院霊廟

 有章院霊廟 二天門(芝公園・東京プリンスホテル内)柵で仕切られているが、塗装も随所に剥げ落ち老朽化が激しい。


有章院霊廟二天門  撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-12

 これらの霊廟に祀られていた遺体は、昭和33年(1958年)調査発掘され、その後桐ヶ谷斎場にて火葬された。墓所は安国殿裏手に移転している。

 現在の増上寺徳川家墓所の入口の門は、もと文昭院霊廟の奥院の宝塔前中門だったもの。霊廟跡地は、東京プリンスホテル(文昭院、有章院等)、ザ・プリンスパークタワー東京(台徳院、崇源院等)となっている。秀忠夫人の旧崇源院霊牌所の一部が1647年に鎌倉建長寺に建替えのため移築され現存する。


秀忠夫人旧崇源院霊牌所の一部 1647年に鎌倉建長寺に移築 出典:Wikipedia

建長寺
神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山である。山号を巨福山と称し、寺号は詳しくは建長興国禅寺といいます。鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。鎌倉五山の第一位です。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定されています。

 増上寺に隣接する芝東照宮は、元は家康を祀る増上寺安国殿であったが、神仏分離令の折に独立し神社化された。安国殿は増上寺の中で有力な支院で寺は反対したが、独立を阻止できなかった。


芝東照宮  撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-15
  

徳川歴代将軍の霊廟所在地





徳川歴代将軍の霊廟
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-15


徳川歴代将軍の霊廟
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-15

徳川家家系図


出典:増上寺公式Web



2代秀忠
秀忠は家康の第3子として、天正7年(1579)に生まれる。慶長10年(1605)ぶ第2代将軍の位に上った。将軍職にあること18年をかぞえ、寛永9年(1632)、54歳で逝去。台徳院廟に葬られた。


徳川秀忠公 お江の方 霊廟
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-15

 2代将軍秀忠夫妻(台徳院・崇源院):台徳院宝塔は戦災で焼失したため、崇源院宝塔(石塔)に合祀されている。門より向かって右最奥部にある。


徳川秀忠公 お江の方 霊廟
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-15

6代家宣
家宣は家光の三男綱重の子として寛文2年(1662)に生まれる。将軍職を継ぎ、新井白石等を重用し政治の刷新をはかり、生類憐みの令を廃止するなど、「正徳の治」をなしとげたが、将軍職わずか3年にして病に倒れ、正徳2年(1712)、51歳の生涯を閉じた。

6代家宣夫妻(文昭院・天英院):青銅製、入口より向かって左最奥部にある。


徳川家宣公 霊廟
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-15

7代家継
家継は家宣の第3子として、宝永6年(1709)に生まれる。父家宣の逝去とともにわずか3歳で将軍職についた。家継は元来病弱で、正徳6年(1716)、8歳で亡くなられた。


徳川家継公 霊廟
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-15

 7代家継(有章院):石塔、入口より向かって右・秀忠夫妻墓の手前。


徳川家継公 霊廟
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-15

9代家重
8代吉宗の長子として、正徳元年(1711)に生まれる。成長するにつれしだいに病気がちになり、将軍になっても政務は重臣にまかせた。調査によれば、重度の歯ぎしりにより発音障害ががあったようである。が、復元される容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁するだけの大名にとっては気高く見えたという。49歳で将軍職を譲り、宝暦11年(1761)、51歳で逝去。

 9代家重(惇徳院):石塔、家継墓の手前。


徳川家重公 霊廟
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-15

12代家慶
家斉の第2子として、寛政5年(1793)に生まれる。天保8年(1837)12代将軍となった。
家慶は「天保の改革」に着手するが、改革は失敗に終わり、幕府は没落の道を進むこととなる。家慶はあわただしい世情の中、嘉永6年(1853)、に亡くなった。行年61歳。

12代家慶(慎徳院):石塔、入口より向かって右最前部。


徳川家慶公 霊廟
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-15

14代家茂
家茂は11代家斉の子、斉順の長子として弘化3年に生まれる。安政5年、将軍家の養子となり14代将軍となった。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄がはじまったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は第1次長州征伐を指揮し、第2次長州征伐中、大阪城で病没した。慶長2年(1866)、享年21歳であった。

14代家茂(昭徳院):石塔、入口より向かって左・家宣夫妻墓の手前。家茂夫人和宮(静寛院):青銅製、家茂墓の手前。


徳川家茂公 霊廟
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-15


皇女和宮 霊廟  徳川家茂正室
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-15



合祀霊廟
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-15

合祀塔:石塔、入口より向かって左最前部。家宣の父・綱重(清揚院)、5代綱吉の生母・桂昌院、11代家斉の正室・広大院、13代家定の正室・天親院、家宣の側室・月光院、家斉の側室・契真院、家慶の側室である見光院・殊妙院。その他計35名の将軍家ゆかりの子女が合祀されている。合祀以前はそれぞれ宝塔・墓が独立していた。現在の合祀塔は、もとは月光院に在った。

 以下は徳川将軍の全霊廟です。

 徳川家康(1543年 - 1616年)
  久能山東照宮・日光東照宮

 徳川秀忠(1579年 - 1632年、家康の三男)
  増上寺 台徳院霊廟

 崇源院(1573年 - 1626年、秀忠正室で淀殿の妹)
  増上寺 崇源院霊牌所
  建長寺 旧崇源院霊屋

 
 崇源院の墓所

 
 崇源院の石塔

 徳川家光(1604年 - 1651年、秀忠の次男)
  輪王寺 大猷院霊廟
  ※法要を寛永寺で行い輪王寺に埋葬された。寛永寺の霊廟は、1720年(享保5年)
    に焼失し再建されず、霊牌は巌有院廟に合祀された。

 徳川家綱(1641年 - 1680年、家光の長男)
  寛永寺 厳有院霊廟

 徳川綱吉(1646年 - 1709年、家光の四男)
  寛永寺 常憲院霊廟
  桂昌院(1627年 - 1705年、綱吉母)
  増上寺 桂昌院霊廟

 徳川家宣(1662年 - 1712年、家光の三男甲府城主綱重の長男)
  増上寺 文昭院霊廟

 徳川家継(1709年 - 1716年、家宣の四男)
  増上寺 有章院霊廟

 徳川吉宗(1684年 - 1751年、御三家で、紀州家二代光貞の四男、家康の曾孫)
  墓所:寛永寺、常憲院霊廟に合祀。院号:有徳院
  ※吉宗は1720年(享保5年)御霊屋建立禁止令を出し以降大規模な霊廟は
    建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔か霊牌所
    が建立された。

 徳川家重(1711年 - 1761年、吉宗の長男)
  墓所:増上寺、有章院霊廟に合祀。(宝塔は建立せず。)院号:惇信院

 徳川家治(1737年 - 1786年、家重の長男)
  墓所:寛永寺、厳有院霊廟に合祀。院号:浚明院

 徳川家斉(1773年 - 1841年、御三卿で、一橋家二代治済の長男、吉宗の曾孫)
  墓所:寛永寺、厳有院霊廟に合祀。院号:文恭院

 徳川家慶(1793年 - 1853年、家斉の二男)
  墓所:増上寺、文昭院霊廟に合祀。(宝塔は建立せず。)院号:慎徳院

 徳川家定(1824年 - 1858年、家慶の四男)
  墓所:寛永寺、常憲院霊廟に合祀。院号:温恭院

 徳川家茂(1846年 - 1866年、家斉の七男で紀州家十一代斉順の長男)
  墓所:増上寺、文昭院霊廟に合祀。(宝塔は建立せず。)院号:昭徳院

 徳川慶喜(1837年 - 1913年、御三家で、水戸家九代斉昭の七男、一橋家九代当主)
  墓所:谷中寛永寺墓地(後継将軍がいないため合祀できず、谷中霊園内に
  神道形式で埋葬した。)

以上の出典:Wikipedia

 なお、以下は昭和20年の繊細以前の増上寺霊廟図です。北側に有章院霊廟が、南側には台徳院霊廟がありました。現在、これらのほぼすべてが東京プリンスホテルの敷地となっています。


昭和20年の繊細以前の増上寺霊廟図  出典:増上寺配付資料


徳川霊廟にて  ここでも背景に東京タワーが見えます
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-15

つづく