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寺社仏閣の「明治村」?

狭山山不動寺(所沢市)

19.崇源院霊廟 詳細


青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda


December 8 2014
Alternative Media E-wave Tokyo
無断転載
@調査の背景と目的 E第二多宝塔、康信寺 J桂昌院宝塔 O御成門
A狭山不動寺全体 F大黒天 K本殿、書院晴明閣 P台徳院霊廟詳細1
B桜井門・石灯籠 G羅漢堂 L徳川霊廟門 Q台徳院霊廟詳細2
C石灯籠の全国移築1 H鐘楼・総門 M丁子門 R崇源院霊廟詳細
D石灯籠の全国移築2 I第一多宝塔 N勅額門
歴代徳川将軍家家系 徳川歴代将軍の生誕・没年月日と将軍在位期間

撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-12

崇源院霊屋と宝塔(二代将軍徳川秀忠正室、お江の方霊廟)

 ここでは、主に二代将軍徳川秀忠正室、崇源院(お江の方霊廟)霊屋及び宝塔に関連した往事の写真を紹介します。
 
 以下は昭和20年以前の増上寺にあった徳川将軍家の霊廟及び石塔、宝塔の位置図です。


昭和20年の戦災以前の増上寺霊廟図  出典:増上寺配付資料

 
  崇源院霊廟(お江の方霊廟)の霊屋と宝塔は、増上寺の上側(北側の北御霊屋)に宝塔が、また下側(南側の南御霊屋)に霊屋あります。北側の宝塔は昭徳院(十四代家茂)宝塔及び静寛院(和宮様)宝塔の前にあります。

 他方、南側の霊屋は、台徳院霊廟のすぐ上側(北側)に、崇源院(二代目秀忠正室達子(於江与)としてあります。

 昭和20年に大戦災以前には、上記は増上寺の下図にあったのですが、大戦災により南北御霊屋の圧倒的多くの霊屋施設が焼失しました。そのな境内にあったのですが、、台徳院と崇源院に関連する木造建築物が幸いにも焼失を免れました。

 台徳院霊屋の御成門(南側霊屋)、勅額門(南側霊屋)、そして崇源院霊屋の唐門(南側霊屋)と丁子門(南側霊屋)です。
また宝塔や石灯籠は石材でできているため焼失を免れました。

 本来、戦後の増上寺及び南北霊屋の再建の中で、上記の焼失を免れた国宝級の重要文化財をもとにほぼ元の場所で再建を図るべきでした。
 
 堤康次郎
 戦後は皇籍剥奪や華族の特権廃止・財産税などの負担で困窮した旧宮家や華族が都心部に所有していた邸宅地を買い取り、華族やその関係者をグループで雇用して生活を保障するとともに、邸宅地を活用してプリンスホテルを開業した。

 しかし、上記の通り、国土計画(後にコクド)が南北霊屋の跡地を買収し、そこにプリンスホテルを開発することとなり、焼失を免れました国宝級の重要文化財であります台徳院霊屋の御成門(南側霊屋)、勅額門(南側霊屋)、そして崇源院霊屋の唐門(南側霊屋)と丁子門(南側霊屋)のうち、崇源院霊屋の唐門(南側霊屋)をのぞき、なぜか埼玉県所沢市の上山口の狭山山不動寺に移築したのです。

 また崇源院霊屋の唐門(南側霊屋)は、神奈川県鎌倉市にあります建長寺に移築し、近年大修復をして現在に至っています。

 他方、1000本を超すとされる増上寺の石灯籠は、国土計画により上記狭山山不動寺はじめ、群馬県の鬼押し出しはじめ、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県、長野県、新潟県、青森県などに移築していることが最近の調査で判明しています。


 戦国時代から江戸時代に及ぶ貴重な国宝級の重要有形文化財が一私企業の営利活動のために、増上寺から埼玉県、神奈川県はじめ各地に散逸していることはきわめて遺憾と言えます。

崇源院(お江の方)
(すうげんいん、天正元年〈1573年〉 - 寛永3年9月15日〈1626年11月3日〉)


崇源院(お江の方)

 安土桃山時代から江戸時代初期の女性。一般には江(ごう)、小督 (おごう)、江与(えよ)として知られています。位階は従一位です。

 浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉・常高院(初)は京極高次正室。猶女に鷹司孝子がいます。

 最初の婚姻相手は佐治一成でしたが、秀吉によって離縁させられています。2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、娘の完子が生まれましたが死別しています。3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠です。

◆名前について

 「崇源院」は諡号である。幼名(通称)は「督」で、『太閤素性記』では「小督御料人」と記しており、「小(お)」は「御料人」と対になる敬称であることから、読みは「おごう」であると考えられていますが、宮中の上級女房名として「こごう」と読める可能性も考えられています。

 また、『柳営婦女伝系』などでは「督」と音が通じる「江」(読みは同じく「ごう」)として記されており、これは生地の近江もしくは江戸に因んで宛てられたものと考えられており、徳川秀忠に嫁ぐ際に「江」に改名された可能性も考えられています。

 近世期の女性は、在所に由来する号や位階を得る際などに諱を用いています。江は将軍御台所時代に「江与」と呼ばれている他、江戸城北側の邸宅を表す「北方」、将軍家世嗣正室を意味する「御新造」、将軍正室を意味する「御台所」、大御所正室の「大御台所」と記した資料が見られます。

 近世期女性の諱は、幼名に「子」を付けるケースが多いです。江も諱として「江子」(読みは「ごうし」もしくは「えこ」「きみこ」か)を用いているほか、没後に従一位を追贈された際には「達子」(さとこ/みちこ)が用いられています。

◆人物

 淀殿(茶々)・常高院(初)・崇源院(江)のいわゆる「浅井三姉妹」は、「戦国一数奇な運命を辿った姉妹」として知られる。いずれも母・市の美貌を受け継いだ美女で、幼い頃から大変仲の良い姉妹だったと伝えられる。

 夫・秀忠は江と結婚して以降、浮気はあったが、正式な側室は1人も持たなかった。江が秀忠より年上で秀吉の養女という立場であったため、律義な性格であったといわれる秀忠は頭が上がらなかったとされる。

 身分が高く歴史的にも重要な人物でありながら、容貌・性格などを含めた人物像を伝える確たる史料は少ない。

 それ故か一部の小説・ドラマなどでは、市の娘・信長の姪・淀殿の妹・浅井三姉妹の末子というイメージや夫・秀忠が側室を持たなかった事等から類推して、美貌を備え誇り高いがヒステリックで嫉妬深い性格の人物として描かれることが多い。

 しかし、作家の永井路子は小説の中で、彼女を母や姉たちほど美人でもなく機転が利く訳でもないが、どんな運命に巻き込まれても平然と受け流し、その度に魅力を増していく女性という、全く別の解釈をした。

 江が嫉妬深いと書かれている史料は確かに存在する。しかしながら、それは静(浄光院)による幸松(後の保科正之)の為の安産祈願文(静本人が書いたは不明)と、その保科正之を主とする会津藩史である為、江との関係性を考えるとどちらも信憑性が高いとは言いきれない。

 また、そもそも静と保科正之の件は秀忠側近の老中土井利勝や井上正就他数名のみしか知らぬことであったという一説もある。

 徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは、後にも先にも崇源院だけである。

◆崇源院(お江の方)の方の系譜

 なお、以下は、崇源院(お江の方)の方の系譜です。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の母、第109代明正天皇の外祖母、第124代昭和天皇以降の皇室の先祖である。



◆お市の方(おいちのかた)
 (天文16年(1547年)? - 天正11年4月24日(1583年6月14日))

 戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。市姫とも小谷の方(おだにのかた)とも称される。また、『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている。

 尾張国出身。近江国の浅井長政、後に織田氏家臣の柴田勝家の妻。父は織田信秀、母は側室または正室(継室)の土田御前。兄に織田信広・織田信長・織田信行・織田信包・織田信興・織田長益、弟に織田長利、姉にお犬の方などがいる。

 子に茶々(豊臣秀吉側室)・初(京極高次正室)・江(徳川秀忠継室)がいる。孫にあたる人物は豊臣秀頼(茶々の息子)、豊臣完子・千姫・徳川家光・徳川和子(江の娘、息子)など。徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は明正天皇となった。なお、今上天皇の先祖に当たる人物でもある。

 出典:Wikipdeia


◆崇源院霊屋(第二将軍徳川秀忠正室、お江の方霊廟)

 以下は現在埼玉県所沢市上山口の狭山山不動寺にあります崇源院お江の方の霊廟門です。


丁子門の前で
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-12


丁子門 背面  今回の狭山山不動寺調査(所沢市)で撮影
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-12


丁子門の解説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24



丁子門
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-12


丁子門
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-12

 下は往事の崇源院霊屋です。多くの石灯籠もあります。

 崇源院霊屋
には、下記の写真にある唐門より前に、写真には写っていない位置に、丁子門があります。それらを含めると崇源院霊屋だけでかなり広大な敷地にあったことが分かります。現在は、この地に
ザ・プリンス・パークタワー東京があります。


焼失前の崇源院霊屋  徳川秀忠夫人崇源院霊屋  
出典:http://markystar.wordpress.com/2013/05/29/daitokuin/

 下は、崇源院霊屋の唐門の写真です。モノクロの写真に長崎大学が着色しています。


焼失前の崇源院霊屋  徳川秀忠夫人崇源院霊屋
出典:長崎大学

 下は、焼け残った崇源院霊屋の唐門を神奈川県鎌倉市の建長寺に移築後、大修理を行い2011年5月に終了した後の唐門です。ただし、唐門の両側にあります塀は上の写真のような透塀とはなっていません。


崇源院霊屋の唐門(これは鎌倉の建長寺にあります)
重要文化財で方丈入口の門。仏殿と同じく、芝の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築したもの。関東大震災以来の大修理が2011年5月に終了し、移築当時の姿が再現された。

 以下は増上寺の北側にあった有章院、文章院などの霊廟の一角にあった崇源院の宝塔です。


増上寺の北側にあった崇源院の宝塔
出典:昭和34年の増上寺北廟発掘調査報告書


増上寺の北側にあった崇源院の宝塔
出典:昭和34年の増上寺北廟発掘調査報告書

 下は増上寺の徳川将軍家霊廟にある現在の崇源院の石塔(宝塔)です。二代将軍秀忠夫妻(台徳院・崇源院)は、台徳院宝塔が戦災で焼失したため、崇源院宝塔(石塔)に合祀されています。門より入り向かって右最奥部にあります。

 上の写真にある宝塔


徳川秀忠公 お江の方 霊廟
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-15


 
本稿終了