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寺社仏閣の「明治村」?

狭山山不動寺(所沢市)

11.桂昌院宝塔

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda


December 8 2014
Alternative Media E-wave Tokyo
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@調査の背景と目的 E第二多宝塔、康信寺 J桂昌院宝塔 O御成門
A狭山不動寺全体 F大黒天 K本殿、書院晴明閣 P台徳院霊廟詳細1
B桜井門・石灯籠 G羅漢堂 L徳川霊廟門 Q台徳院霊廟詳細2
C石灯籠の全国移築1 H鐘楼・総門 M丁子門 R崇源院霊廟詳細
D石灯籠の全国移築2 I第一多宝塔 N勅額門
歴代徳川将軍家家系 徳川歴代将軍の生誕・没年月日と将軍在位期間

撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-12

◆桂昌院お玉の方の宝塔


桂昌院お玉の方の宝塔
  撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24


桂昌院お玉の方の宝塔
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-24

 下は宝塔の拡大写真です。何と、円筒形の宝塔には、何と下に再掲した芝増上寺徳川家霊廟 鋳抜門のデザインとマークにまったく同じになっていました。


桂昌院お玉の方の宝塔の拡大図
  撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-24


◆芝増上寺の徳川家霊廟 鋳抜門のデザインとマーク



芝増上寺徳川家霊廟 鋳抜門 にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-12


芝増上寺徳川家霊廟 鋳抜門 にて
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-12


桂昌院
(けいしょういん、寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))

 桂昌院は江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。

 通称はお玉の方。『徳川実紀』によれば、父は北小路(本庄)太郎兵衛宗正。母は鍋田氏。兄に北小路道芳(後に本庄姓を賜り本庄道芳)、弟に本庄宗資がいる。

 お玉の方は、京都の大徳寺付近で産まれる。『徳川実紀』によれば、父は関白・二条光平の家司である北小路(本庄)太郎兵衛宗正だが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂が生前からあった。

 桂昌院と同時代の人物の記録では、朝日重章の日記『鸚鵡籠中記』には、従一位の官位を賜ったときに西陣織屋の娘であるという落首があったことが記されており、また戸田茂睡の『御当代記』には、畳屋の娘という説が記されている。

 黒川道祐の『遠碧軒記』人倫部には二条家家司北小路宮内が「久しく使ふ高麗人の女」に産ませた娘とする。死後やや経ってからの『元正間記』には大根売りの妹、さらに後の時代の『玉輿記』には、父は八百屋の仁左衛門で養父が北小路太郎兵衛宗正という説が記されている。

 寛永16年(1639年)に御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、その際に春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側室となる。正保3年(1646年)1月に綱吉を産んだ。

 慶安4年(1651年)に家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。4代将軍・家綱の死後、延宝8年(1680年)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入った。

 貞享元年(1684年)11月に従三位を、元禄15年(1702年)2月には女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜る。宝永2年(1705年)6月に79歳で没。
 
 実家の本庄氏は桂昌院の威光により、その一族は高富藩、小諸藩、宮津藩、笠間藩、足利藩などの小藩ながら大名として立身出世を果たしている。

 墓所は東京都港区の増上寺。遺髪塚が寺の復興に貢献した京都府京都市西京区の善峯寺に「桂昌院廟」として存在する。


桂昌院廟(善峯寺)

 出典:Wikipdeia


つづく