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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所(概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
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コヴノ・ゲットー(カウナス・ゲットー) (Ghetto Kowno: リトアニア 地図
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概要

 コヴノ・ゲットー(Ghetto Kowno)は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがリトアニアのコヴノ(リトアニア名カウナス)に設置したゲットー(ユダヤ人隔離居住区)である。

※ 英  Kaunasu Ghetto
   独  Ghetto Kowno
   リトアニア  Ghetto Kowno
  ウクライナ  Гетто Кувано
  日  カウナス・ゲットー

解説

 ナチス・ドイツとソ連は1939年8月に独ソ不可侵条約の秘密協定を結んだ。この中で独ソは、ポーランドを共に侵略して分割占領し、さらにバルト諸国をソ連に割譲することを取り決めていた。

 これに基づき、ソ連は1940年6月にリトアニアに赤軍を侵攻させて全土を占領した。コヴノもソ連に占領された。しかし1941年6月に独ソ戦が開始されたため、リトアニアやコヴノからソ連軍は駆逐され、ドイツ軍によって占領されることとなった。

 コヴノには全人口の25%を占める4万人のユダヤ人が暮らしていた。ソ連に理不尽に侵略されたリトアニアでは反ソ・反ユダヤ主義感情が蔓延していた。リトアニア人の報復的な殺人行為にドイツ当局も協力し、ドイツ軍の占領からわずか1カ月の間でコヴノでは約1万人のユダヤ人が殺害されることとなった。

 並行してドイツ占領当局はゲットー創設を開始した。アインザッツグルッペンはコヴノのユダヤ人名士を招集し、ユダヤ人住民全員をヴィリアンポリ(リトアニア語: Vilijampol?、ヴィリヤンポレ)街区に移住させることを通達した。ユダヤ人側は中止してほしいと請願したが、アインザッツグルッペンは「これが現地民によるポグロムを防止する唯一の方法だ」などと返答した。

 1941年8月にはゲットーが封鎖されて、約3万人のユダヤ人が隔離された。しかし、それから数カ月のうちにゲットー住民のうち3,000人が殺された。さらに1941年10月28日には約9,000人(コヴノ・ゲットー全住民2万7,000人のうちの3分の1にあたる)が町はずれの第9要塞(砲塁)に連行されて殺害された。この結果、コヴノ・ゲットーは約18,000人ほどのゲットーとなった。

 コヴノ・ゲットーのユダヤ人評議会は他の東ヨーロッパのゲットーのユダヤ人評議会と異なり、住民の選挙によって選ばれていた。そのため、コヴノ・ゲットーのユダヤ人評議会はゲットー住民から比較的支持を集めており、ゲットー内の地下組織ともユダヤ人評議会は協力していた。ユダヤ人ゲットー警察さえもナチスに対するゲリラ活動を支援していた。

 1943年秋に親衛隊が直接のゲットー管理に乗り出して、コヴノ・ゲットーは強制収容所に転換された。以降、ユダヤ人評議会の権限は大幅に小さくなった。親衛隊はコヴノ付近に付属収容所を次々と創設して、ゲットー住民を分散させていった。

 1943年10月には基幹収容所の囚人から2,700人ほどを移送した。健康な者はエストニアの労働収容所へ、一方労働できそうにない者、老人、子供などはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へと移送した。

 ソ連軍の接近に伴い、1944年7月8日に親衛隊はコヴノ強制収容所の撤収を決定。残っていた囚人たちはダッハウ強制収容所かシュトゥットホーフ強制収容所へと移送された。ソ連軍がコヴノに到着する前にゲットーや収容所は徹底的に破壊された。その際に2,000人ほどのユダヤ人が殺された。

参照

1. "The Underground School in the Kovno Ghetto". Jewishhistoryaustralia.net. 1944-03-27. Retrieved 2013-01-21.

2. "The Underground School in the Kovno Ghetto". Jewishhistoryaustralia.net. 1944-03-27. Retrieved 2013-01-21.

文献
1. This article incorporates text from the United States Holocaust Memorial Museum, and has been released under the GFDL.

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3. Goldberg, Jacob. Bletlech fun Kovner Eltestnrat // Fun letztn Churbn, № 7, Munich, 1948.

4.Grinhoyz, Shmuel. Dos kultur-lebn in kovner geto // Lite (M. Sudarsky et al., eds.), vol. 1. ? New York 1951.

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10. Mishell, William W. Kaddish for Kovno: life and death in a Lithuanian ghetto 1941-1945. ? Chicago, 1988.

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12.Kowno // Enzyklopadie des Holocaust. Die Verfolgung und Ermordung der europaischen Juden, Band II. ? Berlin, 1993, p. 804?807.

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Levin, Dov. Fighting back: Lithuanian Jewry's armed resistance to the Nazis, 1941-1945. ? New York, 1997, p. 116?125, 157?160.

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24. Smuggled in potato sacks: fifty stories of the hidden children of the Kaunas Ghetto. ? London, 2011.

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26. The clandestine history of the Kovno Jewish ghetto police / by anonymous members of the Kovno Jewish ghetto police. ? Bloomington, 2014.

外部リンク
1.The exhibition “Hidden history of the Kovno ghetto” at the US Holocaust memorial museum

2. About music in Kovno ghetto at the site “Holocaust Music”

3. About Kovno ghetto at the site gutstein.net

4. About Kovno ghetto at the site “Holocaust Research Project”

5. Photographs of Kovno ghetto at the site “Holocaust Research Project”

6.Interview with Avraham Tory

7.Kaunas, Lithuania at JewishGen

出典:Wikipedia英語版より池田こみちが翻訳

Ghettos Reichskommissariat Ostland (marked with red-gold stars)
ナチス第三帝国東部のゲットー(赤色-金色の★で印をしている)
出典・Source:Wikimedia Commons
By I, Dennis Nilsson, CC BY 3.0, Link
Civilians looking at the massacre of 68 Jews in the Lietukis garage of Kaunas on June 25 or 27, 1941
1941年6月25日または27日にカウナスのLietukisガレージの68人のユダヤ人の
虐殺を見ている一般市民   出典・Source:Wikimedia Commons, Public Domain, Link
Utena 1944 ypatingoji komisija - Ra??s ?yd? kapaviet?
ウテナ1944特別委員会 - ユダヤ人墓地
出典・Source:Wikimedia Commons, Public Domain, Link
Monument of the Kaunas Ghetto
カウナス・ゲットーの記念碑
出典・Source:Wikimedia Commons By Creative, CC BY-SA 3.0, Link
Aharon Barak, a survivor of the Kovno Ghetto and later President of
the Supreme Court of Israel (1995-2006)   
アーロン・バラク氏:コヴェノ・ゲットーの生存者であり、後に
イスラエル最高裁判所長官(1995~2006年)
出典・Source:Wikimedia Commons  CC BY-SA 2.0, Link
Supplement to the second report of the leader of Einsatzgruppe A, Dr. Franz Stahlecker, about t
he actions of Einsatzgruppe A for the period 16 October 1941 to 31 January 1942. Russian State Military Archive (RSMA), Moscow   
1941年10月16日から1942年1月31日までのアインザッツグルッペAの行動に関してアインザッツグルッペAのリーダー、フランツ・シュターレッカー博士の第2報を補足する資料。
ロシア国家軍事アーカイブ(RSMA)、モスクワ
注)アインザッツグルッペンとは(Wikiより)
 アインザッツグルッペン(独:Einsatzgruppen)は、ドイツの保安警察(SiPo) と保安部 (SD) がドイツ国防軍の前線の後方で「敵性分子」(特にユダヤ人)を銃殺するために組織した部隊である。アインザッツグルッペンは複数表記で、単数形はアインザッツグルッペ(Einsatzgruppe)となり、直訳すると「出動集団」である。正式名称は「保安警察及び保安部のアインザッツグルッペン」Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des Sicherheitsdienstes)という。(中略)独ソ戦期にはアインザックグルッペA~Cがあり、Aはバルト海北方地域に展開していた。
出典・Source:Wikimedia Commons, Public Domain, Link

1942年1月31日にハイドリッヒへのシュターレッカーの報告を説明するために使用された
地図、米国のホロコースト博物館から:

シュターレッカー報告書「アインザックグルッペAによって実施されたユダヤ人の処刑」と「Secret Reich Matter(秘密の帝国に関する事項)」と刻印された地図 で、1941年にバルト諸国とベラルーシで処刑されたユダヤ人の数を示している。一番下にある凡例には、「今手に入っているユダヤ人の推定数は128,000だ」と述べている。
エストニアは "judenfrei(free of Jews=ユダヤ人無し)"と記されている。
出典はラトビア、リガの国家歴史資料館

注)ランツ・ヴァルター・シュターレッカー(Wikiより)
 フランツ・ヴァルター・シュターレッカー(Franz Walter Stahlecker、1900年10月10日‐1942年3月23日)はナチス・ドイツ親衛隊(SS)の将校。戦時中、殺人部隊アインザッツグルッペンの指揮官をしていた。最終階級は親衛隊少将(SS-Brigadefuhrer)および警察少将(Generalmajor der Polizei)。法学博士号を所持。

 1900年、シュテルネンフェルス生まれ。テュービンゲン大学で法学を学び、博士号を取得した。 1933年5月にナチス党に入党(党員番号3,219,015)。1934年にはヴュルテンベルク州のゲシュタポ長官となる。さらにラインハルト・ハイドリヒに抜擢され、SD本部に配属された。1938年にオーストリア併合があった後はアインザッツグルッペンウィーンの指揮官となり、ウィーンのSD司令官となる。同時に親衛隊大佐に昇進した。ベーメン・メーレン保護領の警察指導者カール・ヘルマン・フランクの下でプラハ保安警察及びSD司令官として働いた。さらに1940年5月にはノルウェーの保安警察及びSD司令官となり、親衛隊上級大佐に昇進。その後、ハイドリヒと意見の相違があり、SDを離れて外務省へ移った。

 1941年6月、親衛隊少将および警察少将となり、ハイドリヒからアインザッツグルッペンAの司令官を命じられた。シュターレッカーとしてはこの任命を通じて国家保安本部へ返り咲きたかったという。
アインザッツグルッペンAは北方軍集団に従って行動し、バルト三国からレニングラードへ向けて進んだ。
道中ユダヤ人やロマ・共産主義者、その他ナチスにとって「好ましくない者」を大量に虐殺した。
シュターレッカーはベルリンにアインザッツグルッペンAが24万9420人の
ユダヤ人を殺害したことを報告している。

 1941年9月、レニングラード地区のソ連のパルチザンを追撃して北部戦線へ移動し、11月8日に「オストラント」保安警察及びSD司令官に任命される。だがこの作戦中の1942年3月23日に、ガッチーナ近くでパルチザンから受けた攻撃により負傷し、リガの病院で治療を受けたが3月23日に死亡した。彼の葬儀はプラハで行われた。

出典・Source:Wikimedia Commons , Public Domain, Link