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2018年・東日本大震災・津波
復旧実態調査(宮城県中部編1)

松島町沿岸1

青山貞一・池田こみち 
環境総合研究所顧問
掲載月日:2019年5月20日 2020年3月11日第2次公開
 独立系メディア E-wave Tokyo
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◆松島町沿岸


出典:東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会配付資料

松島町
 
 この後、七ヶ浜町菖蒲田のマリーナから利府町に戻り、松島町に向かう。

 下のグーグルマップは走行ルートを示している。

 この辺りは、もともと宮城県有数の景勝地であり、観光地でもある。
 

出典:グーグルマップ・ストリートビュー


出典:グーグルマップ

 松島町は、利府町とともに、松島湾の宮戸島や塩釜市の多くの島々が天然の要害として機能し、3.11の巨大津波の沿岸域への直撃を阻止したため、人的な被害へ少ないものとなっている。ちなみに隣の東松島市の犠牲者が1,035人なのに対し、松島町の犠牲者は8名である。

 ※要害
 地勢、地形ががけわしく、敵(ここでは津波)を防ぐのに適している所。

 したがって、松島町の沿岸部には宮城県中南部のような、例えば、7.2m高の防波堤の構築はない。下の写真は松島町の沿岸部である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-30

 以下は円通院の入り口である。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-30

 以下の写真から分かるように、
松島町の瑞巌寺周辺の沿道には堤防が全く存在しない。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-6-30

 下は瑞巌寺の入口である。

 
出典:グーグルストリートビュー  2013年5月

 なお、瑞巌寺の地先の海には、先に紹介した島々とは別に、下図のように多数の小さな島々があり、津波の到来を防いでいたものと推察される。


出典:グーグルマップ

 以下は松島町出典の松島湾の島々の概要紹介である。

蓬莱島  桂島より切り離されている小さな島。中国の蓬莱山によく似ていることから。


仁王島  大自然が幾千物間に海波の浸蝕によって造り上げた傑作で、その形はあたかも仁王の如く、怪奇な様相を海上にあらわしている。


千貫島  昔、伊達政宗公が湾内を御遊覧なされたときに、この島の形の良さに感銘され、この島を代の館に運ぶものあらば銭千貫をつかわすともうされた島。


よろい島  戦国武将の武具、鎧の肩掛け「かたびら」に似ているところから。


かぶと島  見る角度により、戦国武将の武具の「兜」に似ているところから。


鐘島  洞門が4つあり波が洞門に打ち寄せると鐘に似た音が響き渡ることから。また、この穴が昔の小判のように見えるところから金の島とも呼ばれている。


双子島  静かな波間に浮かぶ可愛い二つの島、亀島と鯨島。この島を双子島といい、散策コースの雄島よりの眺めは実に美しく松島湾内随一をほこる。


以上出典:松島町


◆松島の名前の起源

 松島という名称の起こりには、昔から数多くの伝説があります。主なものとしては、次のような説があげられます。

 聖徳太子が仏教を信奉するあまり、達磨大師がわが国にこられることを信じて松島に来られ、現在の扇谷に庵を構えて、その到来を待たれました。待つと松とが国音が通ずるので、待島が松島と転化した、という説。

 見仏上人が雄島で修業されていたころ、時の帝だった鳥羽天皇が大蔵卿康光を勅使として松の苗木一千本を贈られ、これを慰められたので、初めは千本の松の島という意味で千松島と呼びましたが後に千を略して松島と呼ぶようになった、という説。

 源頼朝の夫人政子が、雄島で修行中の見仏上人を慰めるため姫小松千株を贈られました。それで初めは千松島と言いましたが、後に千を略して松島と呼ぶようになった、とする説。

 その他にも、これに似た伝承があり、このような伝説から見て、松島という名称は最初は雄島に名づけられたものでしたが、次第に範囲が広くなって、現在の松島勝景の総称となったのである、と説く人もいます。

 
それらの真偽は別として、300に近い島々のどの島にも緑の松が生えているので松島と呼んだのである、という説が一番正しいようです。

出典:松島町

 上記のように松島の名の由来は「松」にあるようだが、島々にあるその松が津波の勢力を干渉し和らげたとすれば、まさに、松さまさまである。


松島町2 つづく