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2010年2月18日(木) ハンザ同盟
リーガと言えばハンザ同盟のひとつの本拠地である。
旧市街地の視察に先立ち、ハンザ同盟について勉強しておこう。
■ハンザ同盟 「ハンザ」は古高ドイツ語。標準ドイツ語では 「ハンゼ」(Hanse)と呼ばれる。古高ドイツ語「ハンザ」は「団体」を意味し、もともと都市の間を交易してまわる商人の組合的団体のことを指した。 ハンザ同盟の中核を占める北ドイツの都市は神聖ローマ帝国の中で皇帝に直接忠誠を誓う帝国都市であり、相互に独立性と平等性を保つ緩やかな同盟だったが、経済的連合にとどまらず、時には政治的・軍事的連合として機能した。しかし同盟の中央機構は存在せず、同盟の決定に拘束力も弱かったので、政策においてはそれぞれの都市の利害が優先された。 リューベック、ハンブルク、ブレーメンなどかつてのハンザ同盟の中心都市は「自由ハンザ都市」を称して中世以来の都市の自由をうたっており、21世紀の現在もなおハンザ同盟の遺風を残している。 |
下の地図は1400年頃のハンザ同盟の勢力範囲(着色部分)である。右上のオレンジ部分がリーガを中心としたラトヴィアになる。
1400年頃のハンザ同盟の勢力範囲(着色部分)
出典:Wikipedia
1400年頃のハンザ同盟諸都市(●:加盟都市、■:外地ハンザ)
出典:Wikipedia
ところで、リーガ旧市街の川沿い中央にある市庁舎広場に面するのが下のブラックヘッド会館だ。
15世紀から、1941年にドイツ空軍の爆撃で破壊されるまで、数100年の時間をかけ建築、装飾したのが下のブラックヘッド会館である。
現在、その建築のほぼすべてが再現されており、旧市街でもひときわ目を引いている。
ハンザ同盟の一大拠点、ラトヴィア・リーガ旧市街のブラックヘッド会館
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 18 Feb. 2010
ブラックヘッド開館の正面にある丸い時計の下には、4大ハンザ都市、すなわちリーガ、ハンブルグ、リューベック、ブレーメンの紋章が浮き彫りにされている。
リーガ ハンブルグ リューベック ブレーメン
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 18 Feb. 2010
そしてそれぞれギリシャ神話にでてくる神々が置かれている。
ハンザ同盟の一大拠点、ラトヴィア・リーガ旧市街のブラックヘッド会館
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 18 Feb. 2010
往時、貿易商人の友愛会だったブラックヘッドのメンバーによりコンサートやダンスパーティーが盛大に行われていた大ホールは現在、ほぼすべて再現されている。
いずれにせよブラックヘッドの会館は、ハンザ同盟の四大都市のひとつとして発展してきたリーガを物語る上で必須の建築物だ。
・リーガ旧市街のブラックヘッド会館
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 18 Feb. 2010
下は1890年のブラックヘッド会館。
1890年のブラックヘッド会館。
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 18 Feb. 2010
■ハンザ同盟の歴史 ハンザ同盟の発祥は12世紀にまで遡ることができる。 リューベックはハンブルクと商業同盟を結び、またゴトランド島などバルト海沿岸に進出して東方植民によりこの方面の各都市に散らばっていたドイツ商人の組合の主導権を握った。 ドイツ商人の商業活動の広がりに応じてハンザ同盟の商館の置かれる範囲は拡大し、西はイングランド(イギリス)のロンドンから東はルーシ(ロシア)のノヴゴロドまで広がった。同盟はロンドンとノヴゴロドに加えてフランドルのブルッヘ(ブリュージュ)、ノルウェーのベルゲンの4都市を「外地ハンザ」と呼ばれる根拠地とし、その勢力はヨーロッパ大陸の内陸から地中海にまで及んだ。 ハンザ同盟の加盟各市は十数名程度の市参事会によって統治され、遠隔地交易で財をなしたハンザ商人が参事会を構成する都市貴族として寡頭支配を行った。同盟全体の重要な意志決定は年に1度、リューベックにおいて行われるハンザ会議において審議された。 |
■バルト海東岸のハンザ同盟参加都市
・ヴァルミエラ(ヴォルマール)
・ヴィリャンディ(フェリーン)
・ヴェンツピルス(ヴィンダウ)
・カウナス(カウエン) ●
・クライペダ(メーメルブルク)
・クルディーガ(ゴールディンゲン)
・タリン ●
・タルトゥ(ドルパート)
・ツェーシス(ヴェンデン)
・ナルヴァ
・ペルヌ(パルヌ、ペルナウ)
・リーガ ●
ただし●は、今回視察した都市。
■ハンザ同盟の主要交易路 ハンザ同盟の扱う交易品としては、ブリュッヘを通じて貿易されるフランドルの織物のほか、バルト海のニシンが重要である。毎年、夏から秋にかけてのニシン漁期になると北ドイツの各ハンザ都市から北欧に向けてニシン買い付けの商船隊が派遣され、年間数十万トンのニシンが塩漬けにされてヨーロッパ各地に輸出された。またドイツ騎士団領からは木材、琥珀、ポーランド王国からは穀物、ロシア方面からは黒貂、熊、リスなどの毛皮が輸出された。 政治的・軍事的連合としてのハンザ同盟は、1370年、1435年の2度にわたってデンマークとの戦争に勝利して諸特権を認めさせた。しかし15世紀にはカルマル同盟を結んで北欧諸国を統合したデンマークに敗れてバルト海の覇権を失った。 同じ15世紀には、ヤギェウォ朝ポーランド・リトアニア連合と、ポーランド王国が庇護したプロシア連合加盟諸都市の政治経済の繁栄が最盛期を迎え、これらに対するハプスブルク家と神聖ローマ帝国の支持による、それまでバルト海東岸と南岸を支配していたドイツ騎士団の弱体化、北ドイツで勢力を伸ばした領邦君主による自領内都市への圧迫などの外圧が重なって都市のハンザ脱退が続き、同盟は衰退していった。 16世紀には大航海時代によってヨーロッパの商圏の中心軸がバルト海・地中海から大西洋・北海に移ったことが大きく影響し、この世紀の終わりにはハンザ同盟は実質上ほとんど活動を停止していた。 そして、17世紀の三十年戦争による領邦国家の成立がハンザ同盟の存続に終止符を打った。わずか8都市が代表を送るのみに終わった1669年のハンザ会議を最期に同盟は機能を完全に失い、実質上終焉した。17世紀以降に入るとバルト海の貿易圏は、すでにスウェーデンとオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が主流となっており、三十年戦争によってドイツの国土が疲弊していたことも終焉に拍車をかける事となった。 ただし、ハンブルクとブレーメンだけは自立性を保ち、現在のドイツでも単独の州としてそれぞれ「自由ハンザ都市ハンブルク」「自由ハンザ都市ブレーメン」を正式名称として、かつてのハンザ同盟の名残を現在に伝えている。 また、文久年間(1862年)、幕府が開港延期交渉のために使節団を欧州に派遣した際、ハンザ同盟から外交を結ぶべく外交的接触を受けている。しかし、その後、北ドイツ連邦が設立されハンザ同盟がそれに属したため、ハンザ同盟からの直接の接触はその後行われていない。 1980年にオランダのズヴォレで「新」ハンザ同盟が結成され、311年ぶりにハンザ会議が開催された。この同盟は、ハンザ同盟本来の目的である加盟都市の貿易推進の他に、文化交流・観光誘致も目的とするまことに現代風の呑気なものとなった。 |
つづく
【参考資料】
・地球の歩き方、「バルト3国、エストニア・ラトヴィア・リトアニア」、ダイヤモンド社
・Wikipedeia English Edition