日航機事故から30年、 墓標、補遺 青山貞一 Teiichi Aoyama *1,*2 池田こみち Komichi Ikeda *2 *1 東京都市大学名誉教授 *2 環境総合研究所(東京都目黒区) August 18, 2015 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
「昇魂之碑」にお祈りした後、多くの事故の犠牲者が眠っている「昇魂之碑」の上側と「スゲノの沢」地区に行きました。 , 刑事事件捜査の原点は、いつも現場にありという格言があります。日航機事故は事件ではありせんが、事故であってもやはりこの格言は生きていると思います。 鷹取を含め私達は、出発前、事故から30年にあわせ、「日航機事故再解明の課題1〜5」を執筆し公開しました。公開翌日の8月10日、青山と池田は午前9時に東京の練馬を発って上野村の「慰霊の園」でご焼香を済ませた後、ここ御巣鷹の尾根に昇ってきました。 そして、翌日の8月11日、日航機が最後に上空を通過し「高天原山の尾根」(=通称、御巣鷹の尾根)に激突したのを目撃していたレタス農家の女性が住む長野県側の村、川上村への現地視察を予定しました(これについては別途報告を執筆し公表します)。 なお、「日航機事故再解明の課題1〜5」の公表以降、遺族やその関係者が読まれていることを知り、今後とも日航機事故問題の解明にがんばらねばという気持ちを強くしています。 ここでは、本特集の最後として「御巣鷹の尾根」にある墓標(一部)について紹介してみたいと思います。尾根には乗客、乗員あわせて520名の墓標があります。中には未だ位置が不明な方もいるようですが、「御巣鷹の尾根」のどこかに眠っていることは間違いないはずです。 以下の地図1の10Eとか2Jなどは御巣鷹の尾根にあります墓標の位置を示しています。それらは航空機事故後に遺体が発見された場所を指し示しています。 地図1 御巣鷹の尾根 案内図(全体) 出典:現地でいただいた「御巣鷹の尾根 案内図」
出典:Wikipedia 下は墓標の中を行く池田です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 以下はスゲノ沢地区の墓標です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 地図1 御巣鷹の尾根 案内図(全体) 出典:現地でいただいた「御巣鷹の尾根 案内図」 出典:日航機事故調査報告書 ただし、方位を上下、左右を回転しています 下は「スゲノ沢」に降りる途中の道です。ここには沢山の風車がありました。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 「スゲノ沢」地区にも下の写真にあるように「遭難者の遺品」を保存している場所がありました。このスゲノ沢周辺では、今でも土を掘ると日航機の破片などが見つかるそうですが、30年経った今、事故当時丸焼けとなった墜落(激突)現場には多くの樹木や雑草が生い茂っています。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 , 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 下は両側に沢山の風車がある小さな橋です。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 その橋を渡ると、下の写真のようにたくさんの墓標があります。もの凄い数です。 墓標の数からして、多くの日航機の乗客、乗員がこのスゲノ沢で亡くなったことが分かります。 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-10 以下はヤフーマップで見た「昇魂の碑」、スゲノ沢です。 ヤフーマップで見た「昇魂の碑」、スゲノ沢 本特集はこれで終わりです。 補遺 私達は、仮説として日航機JAL123便の機長は、事故発生後、スコーク77を発し機体を大月上空から2000m近くまで急降下させ、その後、米軍横田飛行場に緊急着陸、最悪でも胴体着陸させる腹づもりでいたと考えてきました。 ここでは詳しく述べませんが、JAL123便は大月上空から機体を降下した後、本来ならそこから40−50kmの近さにある横田飛行場に緊急着陸させるはずなのに、なぜか日航機は奥秩父と山梨県北部に向かい、長野県の扇平山と三国山の間を通り、高天原山の尾根(通称、御巣鷹の尾根)に墜落(激突)したとされています。 これについて、私達は山梨県大月ないし神奈川県相模湖あたりから自衛隊機2機によるスクランブルにより上記に誘導されたという仮説をもっています。本来なら横田飛行場に自力あるいは各種の誘導により向かうべきなのに、なぜか奥秩父から上野村と長野県の境界にある高天原山の尾根に向かうことになるのです。 以下は「日航機事故再解明の課題 2」に書いた内容の引用です。 スクランブル機を目視したのは角田四郎氏である。1985年8月12日の日航機事故当日、山梨県大月付近でキャンプをしていた角田氏は、そこで日航機とともに2機の自衛隊機スクランブルを目撃するのである。これは角田氏が後に執筆した『疑惑/JAL123便墜落事故』という本に書かれている。以下はその一説である。 "このとき私は日航123便を目撃していた。[山梨県大月市と神奈川県相模湖の 中間地点の]東から南へ、南から西へ旋回しようとする地点である。18時42分頃 になる。 そして、44分か45分頃、ループ飛行を終えて東へ向かったであろう頃 の日航機を追うように、東へ向かう2機の自衛隊機を私は見た。 その時また飛行機が見える。木の間に見え隠れしていたが、私は「エッ」と驚きの 思いで立ち止まって見つめた。しかし、今度はごく小さな機影で、北西に向かって 夕焼けの中をどんどん小さくなってゆく。「あれはさっきの飛行機[JAL123便] じゃないな」と思い、ふたたびバンガローへの坂道を登っていった。この間5〜6分 の出来事である。" 角田四郎著、 『疑惑/JAL123便墜落事故』より。早稲田出版刊 私達の仮説は、本来、横田なり羽田に緊急着陸するはずの日航機は、自力で高度を約2000mまで下げ、焼津上空から大月付近まで戻ってきたのに、その後、自衛隊機のスクランブルにより高天原山方面に誘導され、迫り来る三国山(群馬県上野村、長野県川上村、埼玉県秩父市の境界)や扇平山(長野県川上村)の間を抜けたものの、高度を上げようにもあがらず高天原山の尾根に衝突したのではないかというものでした。その背景にはどう見てもいわゆる<墜落>という言葉が気になっていたのです。上空から落ちるという意味での墜落ではなく、山や尾根に誘導され、尾根に激突したのではないかと。 ところで、 「日本航空123便墜落事故を検証する」なる論考では、下の地図を根拠として日航機は墜落ではなく不時着だった という仮説を展開してます。すなわち、1985年8月の日航機123便墜落事故の真実は、墜落ではなく不時着したと考える方が合理的だ、という仮説です。詳しくは 「日本航空123便墜落事故を検証する」の当該部分を読んでいただきたいのですが、確かに、私達の上記の仮説やさまざまな状況、観点、証拠から見て、日航機が御巣鷹の尾根に墜落したというのには疑義があります。 「日本航空123便墜落事故を検証する」では、日航機はC地区に墜落(激突)する前に、下に示した図にあるように経過(A→B→C)を辿っていることが分かっています。 1 Aの地点で胴体の底が接触、 2 Bの地点で胴体の後方部分が接触し、尾根をU字に削り 3 Cの地点(写真、今回昇った墜落現場)に右翼を下に墜落、 4 右エンジンの爆発で胴体が折れて、 5 写真の方向に胴体後方から斜面をずり上がり 6 機首部分は、写真の方向に斜面を上にずり上がっていった。 ちなみに私達が今回御巣鷹の尾根に昇って歩いた箇所は、墜落現場のC地区です。 この問題については、今後、「日航機事故再解明の課題1〜5」のなかでも仮説を立て解明して行きたいと思います。 |
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◆特集:日航機事故、最低半分は人災! 再解明の課題 | ||||||||||||
◆青山貞一・池田こみち・鷹取敦: 日航機事故再解明の課題 1 | ||||||||||||
◆青山貞一・池田こみち・鷹取敦: 日航機事故再解明の課題 2 | ||||||||||||
◆青山貞一・池田こみち・鷹取敦: 日航機事故再解明の課題 3 | ||||||||||||
◆青山貞一・池田こみち・鷹取敦: 日航機事故再解明の課題 4 | ||||||||||||
◆青山貞一・池田こみち・鷹取敦: 日航機事故再解明の課題 5 |
出典: 「日本航空123便墜落事故を検証する」