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真夏の群馬北西部短訪

D群馬満蒙拓魂之塔と浅間牧場
青山貞一
掲載月日:2012年8月23日
 独立系メディア E−wave Tokyo
無断転載禁

 ◆特集:真夏の群馬北西部短訪 2012.8.17-8.20
@浅間山大噴火と鎌原観音  H暮坂高原の「花楽の里」
A迷走つづける八ツ場ダムと工事現場  I上信越県境の野反湖
B八ッ場ダムは公費乱費の典型  J品木ダムと草津温泉
C江戸の中山間地の生活を今に伝承  K四阿山とバラギ湖
D群馬満蒙拓魂之塔  Lパノラマライン北ルート
E六合村の赤岩養蚕集落  M白根山をトレッキング
F六合村の赤岩神社  N「毛無峠」と小串硫黄鉱山跡
G六合村の上の観音堂  OGPSによる移動経路図

 18日の午後は、かやぶきの郷を視察した後、北軽井沢の別荘に戻る途中、群馬県から第二次世界大戦中に満蒙開拓団員として中国大陸に渡り帰らぬ人となった人々を奉る「群馬満蒙拓魂之塔」、その隣にある大きな牛舎、そして浅間牧場に立ち寄った。

●群馬県満蒙開拓団碑

 満蒙開拓団 ( まんもうかいたくだん)とは、満州国(中国東北区)の開拓を目的とした移民団のことであり、 試験移民 (自衛移民)の段階を経て集団移民 となる。ほかに 分村移民 、 満蒙開拓青少年義勇軍 などがある。



◆満蒙開拓移民とは

 満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)は、満州事変以降太平洋戦争までの期間に日本政府の国策によって推進された、中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称である。満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とも言われる。

 1931年の満州事変以降に日本からの満州国への移民が本格化。1936年、広田内閣は「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に500万人の日本人の移住を計画、推進した。同時に、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画も打ち出された。

 日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。加藤完治が移住責任者となり、満州拓殖公社が業務を担っていた。この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。

出典:Wikipedia

 以下は長野原町の長野原牧場近くにある群馬県満蒙開拓団碑である。


群馬県満蒙開拓団碑
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S10 2009.5.2


群馬県満蒙開拓団碑
出典:満蒙開拓団 殉難者拓魂 北関東

 以下は、2009年に来たときに撮影した写真。このときは、坂本博之弁護士が参加された。 坂本博之弁護士は中国の遼寧省に同僚の弁護士と行き日本軍が満州で中国人に炭坑の強制労働を行ったり、虐殺したことに関連し、この20年、賠償責任を日本政府に迫る活動をしており、その一環だそうだ。今回で20回目とか、すごい!


長野原町にある群馬県満毛開拓団祈念碑
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S10 2009.5.2

 群馬県からは、高崎、桐生、長野原など各地から満蒙開拓で大陸に渡っている。以下は長野原町にある満蒙開拓記念碑の碑文である。
 
 なお、■部分は読み取り不明カ所である(青山)。


                満州開拓記念碑

                      碑文

 満州開拓は当時の日本の将来を想定する一大国策として計画実施されたものである 開拓の為の移民は全国各地から募集され年々多くの日本人が海を渡って行った 支那事変が大東亜戦争に拡大しつつある中のことである。

 廿楽郡からもこうした時代の要請に呼応して 掛川金蔵を団長とする第九次廿楽郷開拓団が結成されて昭和十四年満州國北安省通北県九道溝に始めて先遣隊を入植させた。

 翌十五年には本隊が入り 更に続けて市川儀太郎を中心とする第十三次月形開拓団 並木実謙を主軸とする第十四次開拓団 内田愛一郎を場長とする報国農場隊員と次々に渡満入植してその数は百数十戸の多きに達し 異邦に廿楽郡分郷を形成するに至った。 

 私達団員は 気候  民情 言語の辺境の地で幾多の辛酸を嘗めつつ ひたすら開拓の業に励み 併せて北方守護の一翼も荷ってきたのであるた■たる昭和二十年八月 突如敗戦の悲運に遭遇してしまった。 

 既に武器類は持ち去られ丸腰のまま不安な日常を過すことになったのである集団で来襲する土匪との防戦に明け暮れして 或る者は傷つき或いは散っていった団員と筆舌に尽くしがたい惨苦の日々がここに始まった。

 ひどい寒気と飢えと 土匪の脅威に終始さらされ 殊に本国の保護を断ち切られた為 生活は日毎に窮迫して病人続出全く将来の見込みも立たない不安な状態が続いたが、翌二十一年九月二日ようやく引揚命令が下り 爾来五十三日間という長いつらい死生の境を彷徨する長旅が続き、辛うじて母国復帰ができ得たのである。

 内地引揚後は初心忘れることなく郷党の人々の支援による 大陸に散った拓友の遺志を継いで 他の開拓団引揚者や志を同じゅうする人達と共に北軽に入植し再び開拓の鍬を振る者、既に家財を整理渡満した為、各地に新天地を求めて去って行く者、或いは故郷忘れじがたく生まれた土地に帰る者とそれぞれの土地で再起のため奮闘を続けているが、然し共に苦しみ共に開拓に打ち込んできた私達が■中には 開拓の先駆者としての強い意志と同志的結合が脈々と流れ 横のつながりは無言のきずなとなり拡がりとなって、いつまでも離れることはないのである。

 茲に開拓に関係する全員とその他多数各位の協力を仰いで 往時を追憶しつつ犠牲者の冥福の祈りも籠めて記念の石碑を建立し これを永遠の証とするものである。

昭和四十三年十一月八日

                   建立の由来

 満蒙開拓とは 現在の中華人民共和国東北地区に五族協和の王道楽土創建を目途とし 満州国が生まれた際、ここ所謂満州蒙古の地に眠る広大な未墾の沃野を活用するための大量の移民送出が国策の名の下にされてなされた大規模農業開発の事である。

 昭和七年始まり 同二十年夏第二次世界大戦の終結に至るまでの十有余年間、日本全国から之に参する者三十二万余人 本県からも開拓民 義勇隊員併せ八千七百八十余名の入植を見たが昭和二十年八月十五日、祖国日本の無条件降伏 満州国の崩壊と 供に巳んだあたら血と汗と涙の成果は束の間に夢のまた夢前の道に挑み拓士を誇称して精進これ努めた同志とその一統は 痛ましや引揚げ難民となり非命に斃れる者約八万 本県人も一千六百八十余名に及び 実に世界開拓史最悪の事態に陥り 惨憺たる終末を迎えたものである 噫 (後略)

昭和四十九年九月二十三日  群馬満蒙拓魂之塔建立委員会

 実は私(青山貞一)が住んでいる東京都品川区小山(旧荏原村)、通称、武蔵小山地域からも多くの住民が満蒙開拓団として旧満州地域に渡り、その多くは帰らぬ人となっている。 これについてはNHKが青山の95歳になる母親に聞き取り調査をしている。

●長野原牧場と浅間牧場

 群馬県満蒙開拓団の碑にお参りした後、隣にある酪農家の牛舎でたくさんのホルスタイン(乳牛)を見学した。


撮影:鷹取敦 Digital Camera CASIO EX-H20G

 
群馬県満蒙開拓団碑や牛舎がある長野原牧場は、好天の時には浅間山系、白根山系が360度のパノラマ場に見える絶好のビスタポイントであるが、この日は夕方から雲と霧があり、まったく浅間山も白根山も見えなかった!

 この後、国道146号線を南下し、浅間牧場に行った。しかし、ここでも雲と霧で眼前の浅間山さえ、裾の稜線が見える程度でいつもの勇姿は見えなかった。


浅間牧場にて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


浅間牧場にて
撮影:奈須りえ Nikon CoolPix S8

◆四季折々の浅間山


浅間牧場:浅間山とコブシ
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10


浅間牧場からみた浅間山
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S10 2009.5.2


浅間牧場から見た浅間山。
この時期は水蒸気も少なく好天で頂上まですっきり見える。
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10  2008.11.2


8月の浅間山(浅間牧場にて)。右手のピークが黒斑山、蛇骨岳。
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10

つづく