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温故知新:秩父事件

映画「草の乱」について

青山貞一

26 Dec. 2009
6 Dec.2015 拡充
独立系メディア E-wave Tokyo

温故知新・秩父事件 2008.12.25-27
秩父というまち・秩父神社 事件の現場を歩くB半納・石間
秩父というまち・武甲山 事件の現場を歩くC龍勢会館資料
地場産業のちちぶ銘仙 映画「草の乱」について
事件の概要と背景・原因 当時の生糸の生産・流通
事件の現場を歩く@井上伝蔵 自由民権運動と農民蜂起
事件の現場を歩くA椋神社

 秩父事件を知らない日本人の多くに、その本質を語りかけたのは、神山征二郎監督、緒方直人主演の「草の乱」ではなかろうか。

 以下に概要を紹介する。詳しくは同名のDVDをご覧いただきたい!


●秩父事件に関する映画「草の乱」
  独立系メディア推薦映画

▼ 事件120周年記念作品、映画「草の乱」▼

 1884(明治17)年、埼玉県秩父郡で起きた農民らの武装蜂起は、時の政府を震撼させました。山間を揺るがした民の怒りは圧政への怒りであり、谷を吹きぬけた熱情は、自由と民権への熱情でした。政府は軍隊を派遣し徹底鎮圧。事件を「暴動」の名のもとに歴史の深部に封印しました。蜂起で発揮された民衆の楽天性や高揚したエネルギー、そしてより良い社会と未来をめざした志が、事件120年を迎える2004年に本格劇映画として甦りました。




◆あらすじ 

 1918年(大正7年)、北海道野付牛町。一人の老人が妻と長男を呼び寄せ、自らの秘密を告白する。老人の本当の名は井上伝蔵、“秩父事件”の首謀者の一人で逮捕を逃れ北海道に渡り、33年のあいだ身分を偽り生きてきたのだった――。1883年(明治16年)秋、秩父郡下吉田村。山間のこの一帯は蚕を育て生糸を売って暮らしていた。しかし、松方デフレや軍備拡張の増税、世界的不況が重なり、人々は借金に頼らざるを得ない状況に陥っていた。生糸商家“丸井”を営む井上伝蔵は、そんな人々の窮状に心を痛め、彼らの助けになりたいと行動に出るのだったが…。


出典:映画「草の乱」より


出典:映画「草の乱」より


出典:映画「草の乱」より


出典:映画「草の乱」より

 自由民権運動の演説を熱心に聞く聴衆。その中に秩父の農民らもいた。


出典:映画「草の乱」より

 自由民権運動の演説を暴力的弾圧する警察。


出典:映画「草の乱」より

 当時、秩父、群馬西部、長野東部、福島南西部などは明治政府が奨励する養蚕が盛んだった。その延長で明治政府は全国から華族、士族などの子供(女性)を集め、富岡製糸工場(世界遺産に登録)を開設した。


出典:映画「草の乱」より

 しかし、生糸の売り先となるフランスや米国での需要が急速に悪化、他方、高利貸しからの借金の返却が困難となる農家が続出した。 その後も収入が激減し、さらに高利の借金にあえぐ農民は、生活に困窮する。

 そんななか、自由民権運動の演説会にも参加した生糸商家“丸井”を営む井上伝蔵は、そんな人々の窮状に心を痛め、彼らの助けになりたいと行動に出る。


出典:映画「草の乱」より


映画「草の乱」より

 さらに秩父郡で有名だった博徒、加藤織平は農民救済を持ちかけられ、9月頃より困民党の活動に参加するようになった。

 秩父事件では加藤織平は副総理となり農民たちの先頭に立つものの、本陣解体後、加藤織平は川越を経由し東京の神田に逃亡するものの。のち逮捕され田代らとともに死刑となる。


出典:映画「草の乱」より

 信州(長野県北相木村)から駆けつけた自由民権運動の志士。


出典:映画「草の乱」より


出典:映画「草の乱」より


出典:映画「草の乱」より


出典:映画「草の乱」より


出典:映画「草の乱」より


出典:映画「草の乱」より

 荒川渡渉で先頭に立つ加藤織平。


出典:映画「草の乱」荒川渡渉の図より


出典:映画「草の乱」荒川渡渉の図より


出典:映画「草の乱」荒川渡渉の図より


出典:映画「草の乱」荒川渡渉の図より


出典:映画「草の乱」


出典:映画「草の乱」


出典:映画「草の乱」


出典:映画「草の乱」


出典:映画「草の乱」


出典:映画「草の乱」



映画「草の乱」より


映画「草の乱」より



◆監督

 神山征二郎監督

◆制作

 原 正敏・舟橋 一良・川嶋 博
 映画『草の乱』制作委員会 (2004年) 

◆主な出演者

 緒形直人 、 藤谷美紀 、 杉本哲太 、 田中好子

◆主な出演者

 田中実 並木史朗 尾美としのり 益岡徹 河原崎兼三 
 堀内正美 高橋元太郎 綿引勝彦 原田大二郎
 山本圭 佐々木愛ら多数

▼ 時代と対峙し、社会をみつめる神山監督のあらたな挑戦! ▼

 困窮にあえぐ民衆が悪政に立ち向かった歴史は、映画「郡上一揆」においてもいきいきと再現され、私たちの祖とする人々が命を懸けて立ち上がる姿は、見るものに勇気を与えました。これまでに全国で50万人近くの方が鑑賞、今なお各地で上映が進んでいます。

 そして今回「郡上一揆」から新たな一歩を踏み出すべく、神山征二郎監督がこの“秩父事件”に渾身の力をこめて挑みました。1884年という時代が現代の私たちになげかけるのは何か、監督のきびしい視線が注がれています。

▼ 「草の乱」の撮影が吉田をメインに行われました ▼

 吉田の椋神社はもちろんのこと、吉田元気村や市場広瀬にもオープンセットを組んで撮影に臨みました。何と言っても、主人公である井上伝蔵の実家を復元し、井上伝蔵邸(屋号・丸井商店)を現代に甦らせての撮影が圧巻。

 撮影後、井上伝蔵邸は、「秩父事件資料館」(道の駅龍勢会館地内)として一般に公開中です。


復元された井上伝蔵の丸井商店   下吉田の龍勢会館にて
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


撮影時のスナップ   下吉田の龍勢会館にて
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8



映画のワンシーン   下吉田の龍勢会館のDVD上映でも見れる


草の乱の宣伝ポスターより    撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 下は映画「草の乱」の撮影で使われたセットを秩父事件資料館の隣に移築・展示している。


下吉田の龍勢会館にて   撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


下吉田の龍勢会館にて   撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 以下は主なキャストとプロフ

(主人公・会計長)井上伝蔵→緒形 直人

下吉田村(現吉田町)出身。

 地域の名望家として広く養蚕農民を助け、絹布の問屋商人として「丸井の旦那」の愛称をもつ。人望が厚いばかりでなく、当時全国的に流行していた自由民権運動に触発されて自由党に入党し、東京の党本部と秩父の入党者とのパイプ役となる。

 明治17年に至ってデフレ政策が秩父の農民の生活を圧迫し、ついに蜂起するに至っては困民党軍の会計長として幹部に迎えられ活躍する。

 事件後、幹部が次々と捕縛・自首する中で伝蔵は実家の近所の土蔵に2年間隠れ住み、そののち北海道に移住。伊藤房次郎と名を変えて妻子をもうけ、1918(大正7)年のその死の直前、家族に自分の正体を明かし、来歴を隠さず語った事で世の中に衝撃が走った。


(総理)田代栄助→林 隆三 

大宮郷(現秩父市)出身。

 秩父郡じゅうにその名を知られた侠客。博徒であったというが金貸しをもしていたようで、事件直前には多くの農民に金を貸し付け、事あるごとに貧しい農民たちの世話を焼いていた。

 日野沢の村上泰治と行き違いがあって自由党には入党しなかったが、「強きを挫き弱きを扶け」る律儀な性格で、蜂起に至っては総理に推され、困民党軍を一手に指揮する。

 蜂起から3日後、本陣が解体して困民党軍の指揮がとれなくなったのちは武甲山々腹の洞窟に隠れ、のちに黒谷村に移ったところで捕縛される。翌年2月に裁判で死刑が確定し、刑場の露と消える。


(副総理)加藤織平→杉本 哲太

石間村(現吉田町)出身。

 田代栄助とともに秩父郡で有名だった博徒。もともと上層農家の家に生まれたが坂本宗作らに農民救済を持ちかけられ、9月頃より困民党の活動に参加するようになった。

 事件では副総理となって農民たちの先頭に立ち、本陣解体後は川越を経由して東京・神田に逃亡。そののち逮捕され田代らとともに死刑となる。


(甲大隊長)新井周三郎→比留間 由哲

男衾郡西之入村(現寄居町)出身。

 もともと教員だった新井はこの年の9月に石間村に教員の欠員があるという事で加藤織平宅を訪ね、それをきっかけとして困民党活動に参加する。

 彼自身に借金はなかったようだが、ただただ農民たちを助けたいという一心で参加していたようである。

 11月4日、大淵村の長楽寺で捕虜としていた青木与市巡査に背後から斬りつけられ重傷を負い、坂本宗作に指揮旗を渡して退く。のちに西之入村で逮捕され死刑となった。


(乙大隊長)飯塚森蔵→北村 有起哉

下吉田村出身。

 事件に至るまでは教員をしていたが、困民党が組織される段階でその活動に加わっていき、指導者層のひとりとして山林集会や田代・信州勢の参加要請などで活躍。

 事件に際しては乙大隊長として活躍するが、本陣解体後の彼の消息は一切わかっていない。伝蔵とともに北海道に逃れたという説もあったが、九州などで余生を過ごしたという伝説もある。


(参謀長)菊池貫平→岡野 進一郎

信州南佐久郡北相木村出身。

 村内屈指の養蚕農家で代言人。秩父の自由党員より「国会開設期間短縮請願のために秩父に来て欲しい」という依頼を受けて来秩するが、実際には蜂起という事を知って信州に帰ろうとする。

 ところが田代らの必死の説得によって参加を決意し、参謀長となって「軍律5か条」を起草。彼は全国で農民たちが一斉蜂起し、明治政府を転覆させるのが目的と明言する。

 本陣解体・田代脱落後は自らが困民党総理となって信州へ転戦。事件後欠席裁判で死刑判決を受けるが行方をくらまし、2年後になって甲州で逮捕された。憲法発布恩赦によって無期懲役となり北海道に送られるが、1905(明治38)年に出獄。1914(大正3)年まで生き延びる。


(乙副隊長)落合寅市→安藤 一夫

下吉田村出身。

 在地の名から「ハンネッコの寅市」の愛称を持ち、前年12月より郡役所に対して請願運動を展開するなど積極的な行動をする事で知られ、のちに秩父困民党を組織し、高岸善吉・坂本宗作とともに“困民党トリオ”と呼ばれるようになる。

 蜂起に至っては乙隊の副隊長として田代らとともに進軍。本陣解体後も粥仁田峠で警官隊と銃撃戦を展開。そののち板垣退助を頼って高知に向かっていくが途中で大井憲太郎らと大阪事件に参加。のちに下関で逮捕される。大阪の獄から出たのちは事件の顕彰運動に生涯をささげていく。


(上吉田村小隊長)高岸善吉→田中 実

上吉田村出身

 その小隊長を務める。いわゆる「困民党トリオ」のひとり。

 「紺屋の善吉」と呼ばれ、前年から負債軽減請願運動、郡役所や高利貸に対する合法的請願運動などに積極的にかかわっていき、蜂起に際しても落合寅市・坂本宗作らとともに水面下で重要な役割を果たしていく。

 蜂起する決意をした中心人物のひとりであり、秩父困民党組織に大きく貢献したうちのひとりである。事件ののちは加藤織平とともに東京・神田で逮捕され死刑判決を受け、絞首刑となった。


(伝令使)坂本宗作・・・・・神山 兼三

 通称「かじやの宗作」。蜂起に際しては高岸・落合とともに「困民党トリオ」のひとりとして積極的に動き回る。武装蜂起に際してはハチマキに「悟山道宗信士」と戒名を書き込んで参加。

 伝令使として活躍していたが、甲大隊隊長の新井周三郎が重傷を負ってのちはそれ変わって甲大隊を率い、信州まで転戦していく。12月に秩父郡藤倉村で農民の手によって捕縛され、翌年裁判で死刑が確定。絞首刑となる。


(甲副隊長)大野苗吉→藤田 哲也

風布村出身。

 井上伝蔵に招聘された大野福次郎とともに風布村をオルグした中心人物で、事件に際しては「甲」大隊の副隊長として各地の戦闘で勇敢に戦う。

 特に駆りだしの際に用いた「恐れながら天朝様に敵対するから加勢しろ」という言葉は既に秩父事件史においても伝説化されている。

 11月4日夜、児玉郡金屋における警官隊との戦闘で壮絶な戦死を遂げたと言われているが詳細は現在も不明。


 なお、秩父事件は、NHKの大河ドラマ「獅子の時代」のなかでも取り上げられている。




つづく