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温故知新:秩父事件

事件の概要と背景・原因

青山貞一
25 Dec. 2009
独立系メディア「今日のコラム」

温故知新・秩父事件 2008.12.25-27
秩父というまち・秩父神社 事件の現場を歩くB半納・石間
秩父というまち・武甲山 事件の現場を歩くC龍勢会館資料
地場産業のちちぶ銘仙 映画「草の乱」について
事件の概要と背景・原因 当時の生糸の生産・流通
事件の現場を歩く@井上伝蔵 自由民権運動と農民蜂起
事件の現場を歩くA椋神社

 秩父と言えば、秩父事件を想起する。

 秩父事件は明治17年に起きた「農民蜂起」である。

 その時代状況が今の状況と非常に酷似しているのである。


現在の秩父。舞台となったのは旧吉田町(現在は市町村合併で秩父市の一部)

 以下に秩父事件の概要を示そう。


◆秩父事件の概要

秩父事件の年表

 1884年、明治17年11月悪徳金貸や政府の悪政を批判し、貧民の救済を訴えておこした日本近代史上最大の農民蜂起。秩父困民党軍は西南戦争で西郷軍が押したてた「新政厚徳」の旗をかかげて行進したという。

 もともと秩父郡一帯は、養蚕製糸が盛んでゆたかな生活を楽しんでいたが、明治15年ごろから深刻な不況に直面し、多くの農家が高利の借金の返済不納におちいり、破産に瀕した。


当時の養蚕
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


往事の絹織物工場
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 明治17年2月、秩父に自由党が結成されると前年から運動していた上吉田村の高岸善吉・坂本宗作・落合寅市らがそれに加わって、解決の道をさぐった。

 彼らは、貧民を救うために借金の10年据置き、40年々賦、学校の一時休校、諸税の減免を嘆願して農民らと運動をつづけた。

 だが、官側はこれを受けつけず、金主らもこれらの要請を拒否して、いっそう苛酷な取立てを行った。そのため、高岸はじめ井上伝蔵ら吉田村の有志は明治17年8月、田代栄助を首領に仰いで盟約をかわし、ひそかに武装蜂起の準備をはじめた。

 この事件の主力は、「吉田」である。

 現吉田町の加藤織平が副総理、井上伝蔵が会計長、飯塚森蔵が大隊長、以下高岸ら多くの幹部を輩出した。


復元された井上伝蔵の丸井商店
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 組織は秩父の村々から上州にまで及んだ。

役割 出身 姓名
総理 大宮郷 田代栄助
副総理 石間村 加藤織平
会計長 下吉田村 井上伝蔵
上日野沢村 宮川津盛
同兼大宮郷小隊長 大宮郷 柴岡熊吉
参謀長 長野県北相木村 菊池貫平
甲大隊長 男衾郡西ノ入村 新井周三郎
同副 風布村 大野苗吉
乙大隊長 下吉田村 飯塚森蔵
同副 下吉田村 落合寅市 (後に丙大隊長)
秩父事件の主な役割分担表

 彼らは11月1日、椋神社で困民軍二大隊を編成、五ヵ条の軍律を定め、一般の住民に危害を加えることを厳しく戒めた。


農民が集結した椋神社
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


五ヵ条の軍律
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 明治11月2日、大宮郷(現在の秩父市)に入って郡役所を占拠、3日荒川河畔で憲兵隊と交戦して撃退、4日・5日上州金屋と粥仁田峠で鎮台兵と交戦したが破れ、本隊は解散した。だが、一隊は十石峠をこえて信州に転戦、9日の東馬流の戦闘を最後に潰走した。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 蜂起参加者は最盛時8,000人とも10,000人ともいわれるが、有罪判決を受けた者3,390余人(最高幹部は死刑ないし無期懲役〉官憲の調書に名を残した者4,200余人、その内の約4分の1が吉田町の人間だった。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 明治政府は、この戦闘で死亡したり負傷したりした軍人や警察官の処遇にあたって、これを西南の役に準ずる「戦争」として扱い、その戦況や結末の報告は大政大臣から明治天皇のもとにまで届けられている。

 この武装蜂起で発揮された秩父農民の楽天性や高揚したエネルギー、それと、より良い未来をめざした志は、今もなお多くの人ぴとに・感銘をあたえている。

 1984年、昭和59年秩父事件百周年を迎えるや、全国でさかんな記念行事や顕彰運動が行われた。(NHK大河ドラマ「獅子の時代」で秩父事件をとりあげている。)

 以下は椋神社境内にある秩父事件百年の碑。


椋神社境内にある秩父事件百年の碑。椋神社にて
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


秩父事件の足跡。椋神社にて
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


秩父事件関係略図。出典:椋神社境内の看板
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

◆秩父事件の背景  

 本稿の主な出典はWikipedia

 ところで、秩父事件の直接的な原因は、養蚕製糸の価格暴落に端を発したデフレーションにある。

 これについて、「蚕糸技術第106号 1979年2月」の「絹織物の産地−埼玉県秩父− 村野圭市 p51」に、「明治12年1斤4円63銭の生糸が、15年に7円92銭に値上がりし、16年には一気に3円88銭に暴落した。この年、松方デフレである。」とある。

 わずか1年で生糸の価格が明治15年に7円92銭に値上がりし、明治16年には一気に3円88銭に半分以下に暴落していることが分かる。

 上記にある価格が暴落だが、これは「松方デフレ」と呼ばれている。

 Wikipedeiaで「松方デフレ」を検索すると、次のことが分かる。

 すなわち・・・、1881年の「明治十四年の政変」で大隈が政府から追放されると、松方が大蔵卿に任命されてインフレーション対策の責任者となる。

 松方は不換紙幣を回収・焼却処分にし、1882年に日本銀行条例を公布して日本銀行を設立する。国内的に余裕があった銀貨に基づいた銀本位制を導入をめざして、「緊縮財政」を実施した。また、これに要する政府資金調達のために、政商への官営事業払い下げ、煙草税・酒造税などの増徴による歳入増加策、政府予算の縮小(軍事費を除く)行って、紙幣発行量を縮小していった。

 この結果、明治14年(1881年)度の紙幣発行高1.5億円に対し、正貨(銀)の準備高が0.1億円(準備率8%) だったのに対し、明治18年(1885年)度には、紙幣発行高1.2億円に対し、正貨(銀)準備高は0.45億円(準備率37%)まで恢復し、銀本位制導入への基礎が成った。

 同年には満を持して銀兌換紙幣(日本銀行初の発行紙幣、大黒図案)が発券され、銀本位制が導入された。また日清戦争の賠償金による金準備を元に、明治30年(1897年)には、松方念願の金本位制が導入されることになる。

 この松方財政の影響には計り知れないものがあった。

 松方財政による強硬なデフレーション政策は、繭価・米価などの農産価格の下落を招き、農村部の窮乏を招くこととなった。自由民権運動の担い手であった地主・豪農は没落するか、経営と資本の蓄積に専念せざるを得なくなり、同運動の衰退を招いた。

 また一方で、このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない一部の零細農民は、自由党(当時の自由党の基盤は農村である)の過激化事件(激化事件)を引き起こし、反政府的な暴動を引き起こした。

 窮乏した零細農は都市部に流入し工業労働力となった、官営工場の払い下げを受けた政商は財閥へと成長していった。

 さらにWikipediaで秩父事件が起きた背景について見てみると、秩父事件の原因について次のように書いてある。

 江戸時代末期以来、富国強兵の大義名分のもと年々増税等が行われる中、1881年(明治14年)10月に大蔵卿に就任した松方正義によるいわゆる松方財政の影響により、現在でいうデフレスパイラルが発生し(松方デフレ)、いまだ脆弱であった日本の経済、とりわけ農業部門には深刻な不況が発生した。

 農作物価格の下落が続き、元来決して裕福とはいえない農産地域の中には、さらなる困窮に陥る地域も多く見られるようになっていった。

 国内的には主として上記の松方財政の影響、さらには1873年から1896年ごろにかけて存続したヨーロッパ大不況のさなかに発生した1882年のリヨン生糸取引所(同取引所はフランスのみならず、当時欧州最大の生糸取引所のひとつであった)における生糸価格の大暴落の影響により、1882年から1883年にかけて生糸の日本国内価格の大暴落が発生した。

 埼玉県秩父地方は昔から養蚕が盛んであったが、当時の同地方の産業は生糸の生産にやや偏っており、さらには信州(長野県)など他の養蚕地域に比べてフランス市場との結びつきが強く(秩父郡内における最初の小学校はフランスの援助で設立され、そのために当時の在日フランス公使館の書記官が秩父を訪れたほどである)、上述の大暴落の影響をより強く受けることとなった。

 養蚕農家の多くは毎年の生糸の売上げをあてにして金を借り、食料の米麦その他の生活物資等を外部から購入していたため、生糸市場の暴落と増税等が重なるとたちまち困窮の度を深め、他の各地と同様、その窮状につけこんだ銀行や高利貸等が彼らの生活をさらに悲惨なものにしていた。

 上記をよく読むと、明治前期にある特定生産物(ここでは生糸)に特化したモノカルチャー的な地場産業を形成している地域にあっては、海外の取引価格の暴落が直ちに日本の特定地域の産業経済に甚大な影響を与え、かつその窮状につけこんだ銀行や高利貸等が彼らの生活をさらに悲惨なものにしていたことが分かる。

 これは平成の現代の状況とほとんど変わらないことを意味している。すなわち特定産業を生糸から自動車、特定地域を自動車部品を生産する中小企業が集中する地域と読み替えればよい。今でも銀行など金融機関は中小零細企業から貸し渋り、貸し剥がしが横行しているではないか。

 秩父事件は、 1884年(明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の農民が政府に対して起こした武装蜂起事件である。自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例ともされてきた。

●事件の政治的背景

 当時、明治政府は政府主導による憲法制定・国会開設を着々と準備する一方で、民権運動に対する弾圧政策を強化していた。民権派の一部にはそれに対抗する形で“「真に善美なる国会」を開設するには、圧制政府を実力で転覆することもやむなし”という考えから急進化する者も出始め、各地で対立が起きていた。

 1881年(明治14年)の秋田事件、1882年(明治15年)の福島事件、1883年(明治16年)の高田事件といったいわゆる「激化事件」は、明治政府が急進的民権家の政府転覆論を口実にして、地域の民権家や民権運動に対する弾圧を行ったものとされる。

 彼ら急進派の政府転覆計画は結局は具現化をみるには至らなかったが、その後発生した1884年(明治17年)6月の群馬事件は、群馬県の下部自由党員が、妙義山麓に困窮に苦しむ農民を結集し、圧制打倒の兵をあげようとしたものであり、さらに同年9月に発生した加波山事件は、茨城県の加波山に爆裂弾で武装した16人の急進的な民権運動家が挙兵し、警官隊と衝突するというものであった。

 とくに加波山事件は、「完全なる立憲政体を造出」するため「自由の公敵たる専制政府」を打倒すると公言した武装蜂起で、政府に大きな衝撃を与えた。規模はきわめて小規模で、当面の目標も栃木県庁落成式に出席する政府高官への襲撃程度のものであったが、自由党急進派は、前年の1883年(明治16年)後半以降、圧制打倒をめざして頻繁な交流を図り、同志的結合を強めていく傾向にあった。

 そんな中、従来からの路線対立や、加波山事件の処理をめぐる紛糾などから1884年10月29日(秩父事件発生の2日前)、自由党は解党決議を可決するに至っていた(その後同党は1890年に再結成されるが、以後も解散・再結成・再編等を繰り返す。詳細は自由党の項参照)。なお、秩父事件の指導部は蜂起時点ではこの自由党解党の情報を認知していなかったと考えられている。

●事件の詳細経過

 秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党(秩父困民党。秩父借金党・負債党とも)」を組織し、1884年(明治17年)8月には2度の山林集会を開催していた。

 そこでの決議をもとに、井上伝蔵をはじめとした請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙された。

 蜂起の目的は、暴力行為を行わず(下記「軍律」参照)、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。


 早くも翌11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄した(なお一部には、指導部の意に反して暴力行為や焼き討ち等を行った者もいた)。


出典:映画「草の乱」荒川渡渉の図より
映画、草の乱より
龍勢会館にて
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 しかし、当時既に開設されていた電信によりいち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、一部汽車をも利用して警察隊・憲兵隊等を送り込むが苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。

 一部の急進派は長野県北相木村出身の菊池貫平を筆頭とし、さらに農民を駆り出して十石峠経由で信州方面に進出したが、その一隊も11月9日には佐久郡東馬流(現小海町)で鎮台兵の攻撃を受け壊滅した。その後、おもだった指導者・参加者は各地で次々と捕縛された。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 事件後、約14000名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・菊池貫平・井上伝蔵の7名には死刑判決が下された。

 ただし、井上・菊池は欠席裁判での判決。井上は北海道に逃走し、1918年にそこで死去した。菊池はのち甲府で逮捕されたが、終身刑に減刑され、1905年出獄し、1914年に死去した。


つづく