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◆蜂起の激戦地、半納に行く 蜂起から4日目、山深い半納耕地からは神官を除いて全戸が参加した。警官隊とゲリラ戦を挑み激戦地「半納の戦いとして有名」である。 火の見と常夜灯常夜灯が今も残り、事件の痕跡をうかがわせているとあったので、行けるかどうか分からなかったが行ってみた。 行き方は37号線を龍勢会館から西に向かい、万年橋で北に向かう狭い県道363号線に入る。この道は大部分が片側車線分の幅員しかなく、対向車線から車がくると立ち往生となる厳しい道だ。 しかも、秩父盆地の北端にある下吉田から標高800mの半納まで急な山道を登ってゆくので、結構、運転技術も必要となる。そこは運転の超プロ、池田さんの出番で何とか、半納の横道の入り口まで車で行くことが出来た。 龍勢会館の辺の標高は200m程度だからおそらく標高差は600mはあったはずだ。狭い急坂の道を600m登るのは結構きつい。 通称、半納の横道へは県道363号線を使う 激戦の舞台となった半納は、石間を北上し城峯山の西にある。行ってみて分かったのだが、この半納の横道は、太田部峠のかなり険しい場所にある。 グーグルマップの等高線で判断すると、標高800m以上の山の頂にあるようだ。 車で途中まで行き、その後、徒歩で頂上まで登ったが、こんな厳しい場所に多くの農民(神官を除き全戸)が集合したと思うと胸が熱くなる。喘息の私は最後の急な登りに疲れ切ってしまった。 以下が火の見櫓に向かう唯一のサインである!これを見落とすと目的地に行けないので注意だ。 このサインを見逃さないように! 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 以下の写真の左端の急な小道を50mほど登ったところに半納の火の見櫓があった。 半納の風景。日本の平均的な中山間地の風景でもある。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 半納の横道にある火の見櫓 撮影:池田こみち Nikon Digital Camera Cool Pix S8 出典:秩父市教育委員会配布パンフレットより 一軒一軒よく観察すると半納近くにも、かなりの数の養蚕農家があることが分かった。昔の養蚕農家は群馬の赤岩でも長野の上田でも見るとすぐに分かる特殊な構造をしている。 堂の尾根 残存する常夜灯常夜灯。この辺の標高は800m以上ある 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 下の表は、秩父事件における困民党軍の動きである。半納横道の激戦は、11月4日の夜に起きたことが分かる。 秩父事件の流れ(困民党軍の動き)1884年(明治17年)11月
※ 秩父事件の年表 秩父事件では、旧吉田町や小鹿野町、大宮郷(秩父市)などが主な戦いの場になった。しかし、秩父は盆地、それらの周囲には山があり、そのすべての峠が戦の場となった。 本陣崩壊後の4日(上の表参照)、島崎嘉四郎が率いるゲリラ部隊が柱野警部率いる警官隊を撃破し、柱野警部の首を堂の尾根にサラしていたという。その後、島崎嘉四郎は信州佐久の東馬流まで転戦、その後、山梨の甲府に潜伏したとされる。 堂の尾根(約800mの尾根) 残存する常夜灯常夜灯を背景にした池田こみち氏 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 半納の横道にある火の見櫓。夕暮れが近づいている 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 山頂から見た半納の風景。何しろ山深い 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 下は下山する際に撮影した半納横道の火の見櫓である。今や明治17年の秩父事件を今に伝える非常に貴重な「生きた証人」でもある。 半納の横道にある火の見櫓 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 それにしても蜂起や革命がこんな山奥から起きていることに、驚嘆する!! 半納に登る途中にある秩父の石間(いさま)は、秩父事件発祥の地でもある。そこは城峯山の中腹につらなる家々が張り付いており、まさに「天空」のむらだ。 出典:秩父市吉田石間交流学習館 石間には、秩父市吉田石間交流学習館がある。学習館には、秩父事件に関する資料が展示されており、事件を詳しく学べる。その他、素朴な郷土料理や新鮮な農産物の販売が行われている。また、近くの諏訪神社では伝統の「漆木神楽」が上演される。今回は時間の都合で学習館に行けなかったが、ぜひ次回出かけてみたい。 ◆副総理加藤織平の墓 石間地区には、加藤織平はじめ多くの秩父事件の幹部が住んでいた。それらの墓を訪れお参りする。 加藤は石間村(現吉田町)出身。 田代栄助とともに秩父郡で有名だった博徒。もともと上層農家の家に生まれたが坂本宗作らに農民救済を持ちかけられ、9月頃より困民党の活動に参加するようになった。 事件では副総理となって農民たちの先頭に立ち、本陣解体後は川越を経由して東京・神田に逃亡。 そののち逮捕され田代らとともに死刑を求刑される。 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 石間でも加藤の生家がある辺は、石間川に沿って車一台がやっとの狭小な道しかなく、しかも傾斜も急である。家々は傾斜地にへばり付くようにして建っている、 出典:http://www.ryusei.biz/history/jiken05.html 困民党のモニュメントでもある加藤家の土蔵。ここでの秘密集会により困民党は結成された。現在は改築されている。 石間村からの蜂起 「草の乱」より 下は加藤の墓。 加藤織平は最終的に死刑判決を受けその3ヶ月後死刑が執行された。しかし、その墓には「志士」の文字が刻まれている。 「草の乱」における加藤織平(中央)。 加藤を石間村から送る妻(右)と息子(右から二人目) 秩父事件の困民党員がすべて暴徒と呼ばれた時代に、「志士」の文字を彫り込んだ加藤家の家族の気持ちが分かる。ただ、当時、明治政府の教育を受けた子供が加藤の墓に石を投げつけたという。 加藤織平の妻(中央) 「草の乱」より 半納の横道に登る途中にある加藤織平(石間村)の墓 撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8 ●政府(鎮台)による蜂起の鎮圧 当時既に開設されていた電信によりいち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、一部汽車をも利用して警察隊・憲兵隊等を送り込むが苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。
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