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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

誕生寺5
(千葉県鴨川市小湊)

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
Dec. 12, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


千葉視察総合目次

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◆誕生寺の伽藍 つづく

誕生堂


誕生堂
Source: Wikimedia Commons

 以下の解説の出典は、大本山 小湊 誕生寺公式Webです。

 日蓮聖人のご幼像といえば、まず祖師堂手前の左手に安置される銅像のお姿が思い浮かびますが、誕生寺には聖人誕生の霊跡にふさわしくご幼像をお祀りするお堂があります。

 総門を入って間もなく、参道左手の階段を登ったところにあるお堂がこれです。「誕生堂」と揮毫された大きな扁額が掲げられています。現在のお堂は、従来のお堂を昭和58年に大改修して面目を一新したものです。

 日蓮聖人が安房小湊の地に誕生されたのは、鎌倉時代も半ばの貞応元年(改元前の昇久4年、1222)のことです。誕生については、次のように伝えられています。この年の2月、小湊では、季節外れの蓮華が咲き、普段は海深くすむ鯛が海面近くに無数に集まり、人々はなにか良いことがおこる前触れであろうと話し合っていました。

 折しも16日の早朝、貫名(ぬきな)重忠の家では、妻梅菊が産気付いています。重忠は身を清め、昇る朝日に向かって一心に妻の安産を祈ったのです。すると産室には香気がただよい、昼ごろには玉のような男の子が産まれました。

 この時、貫名家の前庭からは清らかな泉が湧きだし、家人は早速産湯に使ったといいます。この泉は、今も「誕生水」の井戸に名残を止めています。

 これより先、梅菊は日輪が自分の懐に入る夢を見、その後、身ごもったのです。重忠は、この吉日にちなんで生まれた子に善日麿(または薬王丸とも伝える)と名付けました。この善日麿こそ、後の日蓮聖人です。

 善日麿は、両親の愛情に育まれ、また周囲の人々にも暖かく見守られながら、慈悲深い子供へと成長していきました。そして12歳になった時、勉学のため親元を離れ、房総随一の山にある清澄寺へと登られました。

 誕生寺にお祀りされる日蓮聖人のご幼像は、小型の座像で、袍に袴を着して右手に中啓(ちゅうけい・扇の一種)を持ち帯刀しています。現在は、お像の上から更に別製の衣を着せています。お顔の印象は、銅像よりも少し年長に見受けられます。

 誕生寺では、日蓮聖人誕生の聖日である2月16日に聖人の誕生を記念し、報恩感謝のため誕生会大法要を行います。この法要で中心となる行事がご幼像の徒御(とぎょ)です。普段は誕生堂にお祀りされているご幼像が、聖人のご両親のお墓がある妙連寺から、誕生の聖地である誕生寺まで輿に乗り大勢の僧侶や信徒を従えて行列するのです。誠に誕生寺にふさわしい法要であるといえましょう。

日蓮聖人のご両親

 日蓮聖人ご幼像をお祀りする誕生堂には、聖人のご両親もお祀りしています。正面向かって右側の厨子に安置されているのが父上、左側の厨子が母上です。お像の上から別製の衣を着せているため直接伺うことが出来ない部分もありますが、父上はおごひげを蓄え烏帽子(えぼし)を被り袍に袴を着して大刀を帯びた武士の姿、母上も武家の女房の姿をされ、共に合掌しています。

 日蓮聖人のご両親がどのような方であったかということについては、明確には分かっていません。父上は三国氏、あるいは藤原氏から出た貫名氏であるといわれ、遠江国に住んでいましたが訳があって安房国に流されたと伝えられています。

 聖人はご自身について「安房国長狭郡東条郷片海の海人が子」(「本尊問答抄」)などとのべられていましたから、父上が漁民であったことがわかります。幼い聖人を勉学のため清澄寺に登山させていることから見ても、地元で荘官あるいは名主(みょうしゅ)などを務める、ある程度地位のあった人でしょう。

 聖人は、清澄山1の、さらには地元の人々の期待を一身に担って比叡山へと留学します。そして、10年にも及ぶ研鑚から帰郷した聖人を迎えたご両親は、我が子が師とも頼むべき立派な僧侶となったことに涙したに違いありません。ところがその聖人が、法華経信仰のために、清澄寺そして故郷から追われようとは。

 しかし、大変な驚きの中で、ご両親は聖人の最初の信仰者となられたのです。聖人はご自身の名前からそれぞれ1字をとり、父上に妙日、母上に妙連と法名を授けられました。ご両親の入信に、聖人はどんなにか心強く、また安堵されたことでしょう。ご両親を、無間(むけん)地獄に堕ちることから救うことができたのです。

 文永元年(1264)、父上の墓参りを兼ねて帰郷した聖人は、危篤となった母上を法華経の祈りによって蘇生させました。病の癒えた母上は、その後4年間寿命を延ばされています。

 ご両親の像は、16世貫首の守玄院日領上人が、師範日祝上人への報恩謝徳のために造立しました。26世日孝上人の「小湊山24境」に「薬王殿」(聖人の幼名は薬王丸とも伝えられます。)とあり、また木版「小湊山絵図」には「たん生堂」が描かれていましたから、ご両親像は日蓮聖人ご幼像と共にこのお堂にお祀りされていたものでしょう。

 そして、元禄16年(1703)の大地震・大津波、宝暦8年(1758)の大火にも失われることなく、現在へと伝えられたのです。


・太田堂


太田堂
Source: Wikimedia Commons

 以下の解説の出典は、大本山 小湊 誕生寺公式Webです。

 総門から人王門へと参道をたどりながら左手を見ると、山になっています。この山へと石段で上った所に誕生堂がありますが、さらにその上方に見えるのが太田堂です。このお堂は、法華経の信仰者を守護する太田稲荷大明神をお祀りしています。

 神像は、顎髭をたくわえた老人の相貎で、冠をいただき、束帯を着して右手に笏をとり、太刀を帯します。袍の胸には、太田氏の家紋である五弁の桔梗紋(ききょう)を付けています。

 太田稲荷大明神とは、「太田家の守護神であるところの稲荷大明神」ということです。この太田家は、江戸城を初めて築いた、つまり現在の東京のルーツを開いたことで有名な太田道灌の出た家で、もとは丹波国太田郷(京都府亀岡市)から出た清和源氏の流れをくむ武家です。

 太田道灌の曾孫で膂力他に優れるといわれた新六郎康資は、房総の雄里見氏と関東に覇をとなえようとする小田原の北条氏の間に永禄七年(1564)正月戦われた国府台の合戦に里見氏方の武将として参戦しましたが、敗れて後に安房に移り、天正九年(1581)10月12日に51歳で無くなります。そして墓は縁あって誕生寺に営まれました。この康資が守護神としていたお稲荷さんが、太田稲荷大明神なのです。

 お稲荷さんというと稲作・農業の神とされるほか、漁業、商業・福の神として平安時代以降人々の厚い信仰を受けてきた京都の伏見大社が有名でしょう。仏教のお稲荷さんでは、愛知県の豊川稲荷(曹洞宗)や岡山県の最上稲荷(日蓮宗系)がよく知られています。

 誕生寺の太田稲荷大明神は、神道ではなく、日蓮宗のお稲荷さんとして法華経によってお祀りされています。特に海上安全守護に霊験があらたかであるといいます。毎年2月の初午(はつうま)の日に行われる大祭には、地元の漁業関係者をはじめとして近隣の市町村からも信徒の参詣があり、賑わいをみせます。参詣者は、各々にその年の大漁や商売繁盛などのご祈祷をうけるのです。

 太田堂への参道は誕生寺の左手、総門を入って少し行った辺りから山手へと登る道でしたが、現在の参道は、日蓮聖人ご幼少の銅像の後ろの辺りから坂道を総門の方向に登るようになりました。

 お堂は、55世貫首智現院日梼上人の代の文久3年(1863)10月に、信徒の浄財をもって建立されたものです。その後、昭和53年に改修されています。


・竜王堂


竜王堂
Source: Wikimedia Commons

 以下の解説の出典は、大本山 小湊 誕生寺公式Webです。

 祖師堂の左手の回縁に沿って墓地との間を進むと、左側に小さなお堂があります。これが龍王堂です。正面の参道からは直接にお堂が見えませんから、ご存じない方もいるでしょう。このお堂にお祀りしているのが、法華経の守護神八大龍王(はちだいりゅうおう)です。

 八大龍王は、仏教を守護する天龍八部衆の一つである龍族で、難蛇(なんだ)龍王・跋難蛇(ばつなんだ)龍王・沙竭羅(しゃから)龍王・和修吉(わしゅきつ)龍王・徳叉迦(とくしゃか)龍王・阿那婆達多(あなばだった)龍王・摩那斯(まなし)龍王・憂鉢羅(うはつら)龍王の八王をいいます。

 この八大龍王は、釈尊が霊鷲山(りょうじゅうせん)で法華経を説かれた時、その場に列なって教えを聞いています。また、沙竭羅龍王の八才の娘が、法華経の教えを聞いてたちどころに成仏したという話は、龍女成仏として有名です。日蓮聖人も、曼荼羅本尊の中に「龍神」「龍神王」「龍王」「大龍王」などと書き入れられています。龍王は大海に住んで、雲を呼び雨を降らせる神力をもっていると考えられましたから、一般には祈雨や止雨の祈願の神として信仰を集めています。

 誕生寺のお像は、八王をそのままに表したものではなく、一王の姿をとったものです。甲冑姿で、右手に宝剣、左手に宝珠をとります。そして、左方には宝珠を捧げ持つ天女姿の妙鶴弁才天、右方には法華経八巻を捧げ持つ老相の日昌尊者を従えるという、独特の形式です。

 ところで、龍王堂は以前には現在の場所よりも右斜め後方にありました。そして、お堂の右手には池が広がっていました。昭和のはじめ頃のことです。大雨の後に池の土手が崩れ、そこから大人の両手の握りこぶし程の石が現れました。この石はちょうど蛇がとぐろを巻いた中から首をもたげたような形をしており、発見した信者さんは「龍王さまの化身に相違ない」と早速に拾い上げたのです。以来、お堂正面の八大龍王のお厨子の左側に安置しています。大漁を祈願する漁師さんは、大祭の日には必ずこの石を撫でてお参りをしたそうです。

 現在、かつての池は防災上の必要性から地下式の防火用水となっています。その工事に伴って、お堂も今の場所に移転しました。

 龍王堂では、正月・5月・9月の年3回、各18日に八大龍王の縁日として大祭が行われています。御宝前で法楽加持(ほうらくかじ)が行われた後、参詣者は各々海上安全・大漁満足・家内安全などのご祈祷を受けてお札を頂くのです。熱心な檀信徒に、小さなお堂は毎回一杯になってしまいます。


・鐘楼堂


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-12-11

文化財(建造物以外)

 ・大壁画 散華霊鷲山(石川響作)
 ・富木殿女房御返事 (日蓮真蹟)
 ・薬王丸画像
 ・誕生寺古図

生身の日蓮像と願満の鯛

 1991年(平成3年)、祖師堂の日蓮像を修理するため解体したところ、胎内から4代日静筆の古文書と薬草が発見されました。古文書には「生身の祖師」の名と宗祖誕生の時と所が記されていました。日蓮が母を蘇生させた伝説から、当山の日蓮像は「蘇生願満の祖師」と呼ばれています。


誕生寺御影体内文書
出典:誕生寺

 この願満の祖師のお使いとして鯛が使われており、山内では鯛のお守り「願満の鯛」が売られています。また、日蓮宗信徒に限らず、周辺地域では鯛を食べる事を嫌う人が多いものの、願満の鯛は近所にある清澄寺の五角の合格枡と共に有名な縁起物となっています。

歴代

 6世日東、7世日耀、8世日堯、9世日詠、10世日蔵、11世日出、12世日威、13世日賑、14世日就。

その他

・山門と仁王門の柱には戦時中に張られたと思われる「震洋特攻」と書かれた千社札が貼られています。

・近隣には同じく日蓮宗大本山である千光山清澄寺、日蓮の両親を祀った妙日山妙蓮寺(妙日は父、妙蓮は母の法号)、日蓮誕生の際に集まった鯛が群生する鯛の浦(妙の浦)等がある。

・正月になると初日の出を見ようと、誕生寺の前に人々が集まるが誕生寺の前は山陰となり、初日の出が遮られる地形となっています。このため誕生寺から海岸線に沿って岬の先へ歩いていく必要がありますが、海岸線は照明が無いため、注意が必要です。一方、清澄寺は山の上方であり、関東では一番先に日の出が拝める場所とされています。

・夏目漱石の『こゝろ』で、先生とKがこの寺や鯛の浦に訪れるシーンがあります。その際、日蓮についての話を聞こうとしない先生に向かってKが言い放った「精神的に向上心のないものはばかだ」という台詞が知られています。

旧末寺

 日蓮宗では昭和16年(1941年)に本末を解体したため、現在は旧本山、旧末寺と呼びならわしています


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