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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

誕生寺2
(千葉県鴨川市小湊)

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
Dec. 12, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


千葉視察総合目次

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◆誕生寺の概要

 下はこの日(12月12日)の行程の確認です。誕生寺は12時過ぎからなので、予定通りです。




 誕生寺(たんじょうじ)は、千葉県鴨川市小湊にあります、日蓮宗の大本山で、山号は小湊山です。日蓮の誕生を記念して出身地に建立されました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-12-11


日蓮上人

 日蓮聖人は、貞応元年(1222)2月16日、小湊片海の地に降誕しました。その時、庭先から泉が湧き出し産湯に使った「誕生水」、時ならぬ時に浜辺に青蓮華が咲いた「蓮華ケ渕」、海面に大小の鯛の群れが集まった「妙の浦」という不思議な「三奇瑞」が伝えられています。

 聖人は幼名を善日麿といい12歳までこの地で暮らしました。文永元年(1264)聖人は母梅菊の病を祈願し蘇生させます。延命した母梅菊はそれを記念し、「菩薩荘厳堂」を創建します。その後、直弟子日家上人が建治2年(1276)10月、聖人生家跡に一宇を建立し高光山日蓮誕生寺と称したのが当山の始まりです。

 明応7年(1498)、元禄16年(1703)の2度の大地震、大津波の天災にあい、その後現在の地に移ります。26代日孝上人は水戸家の外護を得て七堂伽藍を再興し、小湊山誕生寺と改称します。しかし、宝暦8年(1758)の大火により仁王門を残し全山を焼失します。49代日闡上人が弘化3年(1846)に現在の祖師堂を再建し、当時関東随一と称されました。

 また、国守里見家、正木家より御朱印を賜ります。明治に入り大正天皇御幼少時、病弱の為病気平癒の御祈願を行っています。

 昭和から平成にかけて、50万人講を発願し諸堂を復興し、平成4年5月落慶式を行いました。現在、日蓮宗の大本山として全国信徒の参拝の地となっています。

出典:大本山小湊誕生時公式Web


安藤広重 浮世絵
Source :Wikimedia Commons

歴史

 1276年(建治2年)10月、日蓮の弟子の日家が日蓮の生家跡に高光山日蓮誕生寺として建立しました。しかし1498年(明応7年)の明応地震、1703年(元禄16年)の元禄地震と2度の大地震、大津波により現在地に移転されました。

 現在、生家跡伝承地は沖合いの海中にあります。

 その後、26代日孝が水戸光圀の外護を得て七堂伽藍を再興し、小湊山誕生寺と改称しましたが、1758年(宝暦8年)に、仁王門を残して焼失し、1842年(天保13年)に49代目闡が現存する祖師堂を再建しました。

 近代に入り、大正天皇の病気平癒の廟所が建立されました。その後、昭和から平成にかけて、50万人講を発願して諸堂を復興、1992年(平成4年)5月に落慶法要が行われました。

 2001年(平成13年)10月には『誕生寺の線香と磯風』がかおり風景100選に選定されています。

 江戸時代の不受不施派(悲田宗)禁政のため幕命により天台宗に改宗するところでしたが身延山が日蓮誕生地の由緒で貰いうけ一本山に格下げ(悲田宗張本寺の谷中感応寺、碑文谷法華寺は天台宗に改宗されました。現谷中天王寺、碑文谷円融寺)。昭和21年大本山に復帰しています。

 現住は84世石川日命貫首(本山水戸久昌寺より晋山)です。潮師法縁。

誕生寺と火災

 以下の解説の出典は、大本山 小湊 誕生寺公式Webです。

 誕生寺は様々な災害を被っています。その一つに、火災があります。なかでも元禄16年(1703)の大地震・津波から55年、諸堂も復興し大災害の記憶も薄れてきたであろう宝暦8年(1758)に起きた火災は、七堂伽藍が悉く灰燼に帰し、仁王門などが僅かに焼失を免れたという大きなものでした。

 この大火からの復興は並大抵のことではなく、代々の貫首上人をはじめ檀信徒の尽カにより、総門、鐘楼堂、誕生堂、釈迦堂、方丈等を経て、最後に現在の祖師堂が完成したのは弘化3年(1846)のことです。

 宝暦の大火を遡る火災については従来知られていませんでしたが、江戸時代はじめの十六世守玄院日領上人の代にも大火があったことが判明しました。千葉県夷隅(いすみ)郡大多喜(おおたき)町平沢の妙厳寺に所蔵される古文書の中に、日領上人の書状一通があり、その中に火災のことが記されていたのです。

 日領上人の書状は、仲秋廿冥(8月20日)付で、宛名に「諸山御中参御同宿中」とあり広く関係寺院に宛てられたものです。残念ながら、書状の常で年号は記されていませんが、十五世大妙院日然上人が亡くなった慶長18年(1613)10月以降、元和年間(〜1623)の頃のものではないかと思います。

 本文を見ると、「しかれば当寺旧冬炎上の間、一宇営葉の志をもって、去る月より大衆を召集すると雖も、元より謗地の儀、万緒不自由の間、修造もその便を失い候。希(ねがわく)は此の刻、御道徳の余光をもって信者方に勧進せられ、寸紙半銭を嫌わず一粒一穀を掠めず、御奉加資助においては、済々愚僧の大悦、梵閣成満も程あるまじく候」とあり、前年の冬に「当寺」が炎上したことが記されています。

 日領上人は署名に「誕生寺日領(花押)」、差し出しに「小湊」と記していましたから、本文中の「当寺」が誕生寺を指していることは明らかです。「炎上」という言葉や復興費用の奉加に苦心している様子から、主要なお堂が焼失するなど大きな火災であったことが窺われます。

 この火災からの復興事業であったと考えられるのが、十八世貰首の可観院日延上人の事跡として伝えられる祖師堂の建立です。誕生寺には日延上人筆の寛永5年(1628)8月吉日付棟札(むなふだ)が伝わっていますが、その大きさや、工匠・瓦大工の名前が記されていることなどから見て、祖師堂の棟札であろうと思われます。棟札の願文には、多くの檀信徒の助力によって建立されたことが記されています。

 二十五世日上人代の元禄13年(1700)『房州長狭(ながさ)郡内浦之内市川村と小湊諍論二付裁許絵図』には、境内中央に大きなお堂が一棟描かれていました。日延上人が復興に尽力した祖師堂の姿でしょう。


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