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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

日蓮寺2
(千葉県鴨川市小湊)

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
Dec. 12, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


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 下の写真はほぼ200段を上っったところで撮影した日蓮寺です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-12-12

 下の三枚は養庇屈です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900  2018-12-12



撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900  2018-12-12

 以下にあるように、日蓮上人が小松原法難の際、顔の眉の間に刀疵を負われた際、この岩高山の岩窟に逃れた場所とのことで、お疵(きず)の養生をした霊屈にして血止めの砂又お市老婆のお綿帽子奉献の由来の場所とのことです。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-12-12

 下の正面の堂は、本堂です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-12-12

 また、以下は粟島堂です。上記はいずれも2018年12月12日朝に撮影した写真です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-12-12

 私たちが本堂の軒下で雨宿りをしていると、中から若い住職が戸を開けられ、「おまいりですか?」と聞かれたので、「そうです」とこたえると、「どうぞ中にお入りください」と言われ、20分ほど、お話を伺いました。

 お話の半分は、先の日蓮上人が小松原法難の際、顔の眉の間に刀疵(かたなきず)をお負われた際、この岩高山の岩窟に逃れた場所であること、お疵の養生をした霊屈にして血止めの砂又お市老婆のお綿帽子奉献の由来でした。

 日蓮宗のお寺では、冬になると、日蓮像にお綿帽子をかぶせるところが多いということでした。このお寺でもお檀家の方が手作りされた御綿帽子が毎年冬には用いられているとのことでした。

 以下の日蓮寺のWebサイトに御綿帽子をかぶった日蓮像の写真を見ることができます。


出典:日蓮寺のWebサイト

 実際本堂にはそのお綿帽子をかぶった日蓮上人が鎮座しておられました。

 住職は奥様と子供さん(小さな女の子)の三人でこの日蓮寺におお住まいになっており、港近くにある大本山 誕生寺に通っているとのことでした。

ごあいさつ  出典:日蓮寺

 当山は、日蓮大聖人四大法難の一つ、小松原法難由縁の霊跡地です。

 文永元年(1264)11月11日、立教開宗より10年ぶりに房州にお戻りになられた日蓮聖人(聖寿43歳)は花房蓮華寺(鴨川市内)を拠点に故郷のご布教に務めておられました。

 時に天津の領主工藤吉隆公にお招きされ邸宅(日澄寺)に向かう途中、申酉の刻、松原の大路(鏡忍寺)で待ち伏せしていた法敵東条景信ら数百名の襲撃に遭い、弟子の鏡忍房と駆け付けた工藤吉隆公は討ち死にされます。日蓮聖人もお額に3寸の刃疵を負いますが、諸天のご加護があり死地を脱します。

 その後、北浦忠吾・忠内の案内により夜道を駆け上総方面に抜ける山道(旧道市ケ坂)へと入ります。

 この山道が現在は当山の参道になっております。

 境内にはお疵洗いの井戸があり、ここで額のお疵を洗われたと云われております、そのまま参道を進むとお疵の養生をされた岩屋があります、不思議なことにこの岩屋の岩砂には大量のヨードが含まれており、お疵に塗り込むとみるみる疵口が塞がったと云われております。

 明朝、お市なる老婆がお岩屋を通りかかります、日蓮聖人のお額のお疵を案じられたお市は、持っていた綿をお疵にお手当ご供養されます。この出来事が現在では、日蓮聖人のお像に冬の間お綿帽子をお冠せする慣わしとなり、全国的に行われております。

 日蓮聖人の小松原法難の足跡を残すために、 建治三年(1277)中老僧寂日房日家上人が開山され、往時は大本山小湊誕生寺の奥之院として鬼門を護っておりました。

 当山は日蓮聖人が歩まれた道、ご覧になった原風景を残す数少ないお寺です。

 お参りの際には、日蓮聖人のお姿に想いを馳せ、息吹を感じ取って頂ければ幸いに存じます。 

                合掌



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