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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

法華経寺1
(千葉県市原市)

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
Dec.11, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


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参考・法華経とは   法華経寺参道

 今回の千葉県の現地視察は、千葉県市川市中山にある法華経寺からはじまりました。千葉県は日蓮上人の生まれ故郷、法華経は大乗仏教の流れをくむ(原始)仏教です。日蓮宗を中心に日本の大乗仏教の多くは、この法華経を法理の源流としています。法華経寺は鎌倉時代の文応元年(1260年)に創立されています。

 2018年12月11日、私たちは東京都練馬区北口から車で市川市に向かいました。当日は曇天で気温は5℃前後と非常に寒く、法華経寺到着時、境内には私たち以外、ほとんど参拝者らはおりませんでした。


出典:グーグルマップ

 法華経寺は、京成中山駅から長い参道を歩き約9分のところにあります。


出典:グーグルマップ

法華経寺の概要

 法華経寺は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山の寺院で。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立されました。中山法華経寺とも呼ばれます。

 山号は正中山。日蓮の説法と安息の地であり、境内の鬼子母神も広く信仰を集めています。いわゆる中山三法類(親師法縁、達師法縁、堺法縁)の縁頭寺です。

法華経寺とは(縁起) 

 當山は、鎌倉時代に日蓮大聖人が最初に開かれた五勝具足の霊場です。大聖人のご生涯には四度の大きな法難があり、文応元年(1260)松葉ヶ谷の焼き討ちの折大檀越であった下総若宮の領主富木常忍公と、中山の領主太田乗明公が、当地に大聖人をお迎えして御弘通をお願いされました。

 大聖人自ら立像釈迦牟尼佛を安置され、法華堂開堂供養会を営み、百日百座の説法をなされたことに始まります。

 文永元年(1264)11月11日、大聖人は房州小松原において法難に遭われ、眉間に疵を負う危急の折、鬼子母神さまが出現され、大聖人の一命を救われました。中山に避難された大聖人は鬼子母神さまの霊験を深く感じ、その尊像を御親刻開眼されました。

 爾来、「中山の鬼子母神」は法華経行者擁護の守護神として、さらに天下泰平、万民快楽、所願成就、子育ての神様として全国のご信者の皆様によって篤く信仰されています。

 弘安五年(1282)に日蓮大聖人がご入滅されると、富木常忍公は出家して、名を日常と改め館を「法華寺」に改めて住持となり、大聖人の御真蹟遺文を恪護されました。

 その後、若宮法華寺と中山本妙寺を合わせて、現在の正中山法華経寺となりました。
         出典:日蓮宗 大本山 中山 法華経寺 公式Web

法華経寺の歴史

 日蓮はその布教活動の中で幾度と無く迫害を受けましたが、その際、千葉氏に仕えていた富木常忍や太田乗明は管轄していた八幡荘に日蓮を迎え入れ保護しました。

 特に千葉氏の被官であった富木常忍は、日蓮のために若宮の自邸に法華堂を造営し、安息の場を提供するとともに、文吏であったため紙筆を提供し、その執筆を助けました。当寺に多くの日蓮の遺文が遺されているのはその縁であると言われています。

 弘安5年(1282年)に日蓮が没した後、常忍は出家し自邸の法華堂を法花寺と改め初代住持・常修院日常となり、日蓮の有力な檀越であった太田乗明の子日高は、父の屋敷を本妙寺とし2代目住持となりました。そして八幡庄の領主であり旧主である千葉胤貞の帰依を受け俗別当に迎え、胤貞猶子の日祐を3代目住持としました。

 しかし、肥前国小城郡においては胤貞の弟胤泰が九州千葉氏として存続したものの、下総国では敵対関係にあった貞胤流千葉氏が台頭し、胤貞流の千田氏は衰退して当寺も危機を迎えました。そのようななか、日祐は室町幕府との関係を強めこれを乗り切り、ここを拠点とする中山門流が成立することになったのです。

 日高以来代々の住持は本妙寺と法花寺の両寺の兼務が慣わしとなっていましたが、天文14年(1545年)古河公方足利晴氏より「諸法華宗之頂上」という称号が贈られ「法華経寺」という寺名が誕生し、法花寺と本妙寺の両寺を合わせた一つの寺院になったのです。

沿革

 ・文応元年(1260年) 開基
 ・昭和21年(1946年) 126世宇都宮日綱上人代に一部末寺と共に
  日蓮宗を離脱し「中山妙宗」を立ち上げる。
 ・昭和47年(1972年) 132世武井日進上人代に日蓮宗に復帰


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