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ミュンヘン・オーストリア短訪

ザルツブルクの歴史・ミラベル宮殿

鷹取敦

掲載月日:2017年10月5日
 独立系メディア E−wave
無断転載禁


内容目次
  1 歴史的背景
ミュンヘン 8/12 2 ミュンヘン(1) | 3 ミュンヘン(2)
8/13 4 ノイシュヴァンシュタイン城 | 5 フュッセン| 6 ヴィース教会
ザルツブルク 8/14 7 歴史・ミラベル宮殿 | 8 教会・モーツァルト | 9 レジデンツ・大聖堂
10 ホーエンザルツブルク城 | 11 サウンド・オブ・ミュージック
ザルツカンマーグート 8/15, 16 12 ザルツカンマーグート | 13 ハルシュタット(1) | 14 ハルシュタット(2)
ウィーン  8/16 15 リングシュトラーセ
8/17 16 旧市街・シュテファン大聖堂 | 17 ホーフブルク王宮・美術史博物館
18 シェーンブルン宮殿

 8月14日(月)の朝、ドイツ・ミュンヘンを9時30出発しオーストリア・ザルツブルクに11時前に到着する列車で移動しました。下の地図はグーグルで経路検索したものですが、1時間28分と表示されている方の乗り換え無しの経路です。

 地図をみるとザルツブルクはドイツとの国境のすぐ東側にあり、地理的にも地形的にもミュンヘンとザルツブルクは近い関係にあることが分かります。


グーグルマップより作成

 ミュンヘン中央駅で列車に乗り込みます。


ミュンヘン駅 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 ヨーロッパを旅行すると自転車とともに列車に乗り込む乗客・旅行者をたびたび見かけます。日本でもようやく2018年1月からJR東日本の千葉支社が自転車を折り畳まずに持ち込める専用列車の運行を始めるようです(JR東日本千葉支社サイト)が、日本は自転車レーンの整備でも鉄道利用でも自転車はまだまだ利用しにくいですね。


ミュンヘン中央駅の自転車の旅行者 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 車窓からは緑豊な草原と木々、そして背景に山々ののどか風景が見えます。一昨年、昨年訪れたスペインの列車の車窓は乾いた赤い大地とは対照的なうるおいのある光景です。


ミュンヘンからザルツブルグへの列車の車窓 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 11時頃、ザルツブルク中央駅に到着しました。


ザルツブルク中央駅 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 駅舎はシンプルなデザインで、駅周辺もそれほど賑わっている様子はありません。駅はザルツブルクの賑わいの中心から離れた場所に位置しているのです。ザルツァッハ川両岸の新市街地、旧市街地がザルツブルクの賑わいの中心です。

 ホテルはこの駅から歩いて数分のところです。ザルツブルクがサウンド・オブ・ミュージックの舞台となっていることから、ホテルの廊下はサウンド・オブ・ミュージックのシーンの写真やデザインに彩られていました。


ザルツブルク中央駅 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

■ザルツブルクの歴史

 ザルツブルクは、ザルツブルク州の州都で人口約15万人の都市です。ザルツブルクはモーツァルトが生まれた街、映画サウンド・オブ・ミュージックの舞台となったことなどでも知られています。

 ザルツブルクという名前は「塩の城」、「塩の砦」という意味です。ミュンヘンのところで紹介したように、ミュンヘンも塩の交易路として栄えました。この後に行くハルシュタットが古代ローマ以前まで遡る古い時代から岩塩鉱で栄えたことから分かるように、今回訪れた地域は歴史的に塩で栄えました。

・新石器時代〜ケルト人の時代

 ザルツブルク盆地は新石器時代(紀元前4000〜1900年)から人が住むのに適していました。塩の採掘はザルツブルクの南側近郊のデュルンベルク山で紀元前700年頃に始まったと推測されています。ケルト人が移住してきた紀元前5世紀に最盛期を迎え、栄えました。紀元前4世紀にはケルト人によってノリクム王国が成立しました。

・ローマ帝国の時代

 ノリクム王国はローマとの通商が盛んでしたが、紀元前15年にローマ人はノリクム王国を征服し属州としました。ザルツブルクの原型となったケルト人の街はユヴァウム(ユリクム)と呼ばれ、イタリアとバイエルンを結ぶ街道とリンツに至る街道の分岐点として交通の要衝でした。

・ケルト人からゲルマン民族へ

 紀元2世紀に、ゲルマン系民族の1つであるマルコマンニがローマと敵対し、皇帝マルクス・アウレリウス率いる軍と戦ったのがマルコマンニ戦争で、ここからローマ帝国の衰退が始まったと言われています(参考)。その後、476年には侵入した別のゲルマン系民族である東ゴート族を前に撤退しノリクムを放棄し、ユヴァウムはゲルマン民族によって占領されました(参考)。

・大司教による統治

 696年、フランク人である聖ルーペルトがザンクト(聖)・ペーター教会を設立しました。798年にはフランク王国のカール大帝の推挙によりザルツブルクは大司教区に昇格しました。(カール大帝の死後、フランク王国は分裂し、のちの神聖ローマ帝国、フランス王国、イタリア等の国が誕生しています。そのためカール大帝は初代神聖ローマ皇帝とも見なされています。)大司教による統治はフランス革命の時代まで約1000年続きます。中世、近世の間、ザルツブルクは大司教が領主として統治する教会国家でした。

 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世の間の聖職叙任権闘争の際、教皇側についた大司教ゲープハルト1世は皇帝に対抗するために1077年、ホーエンザルツブルクとホーエンヴェルフェンに築城を始めました。

 1166年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭公)に焼き払われ、大司教は街を明け渡してしまいますが、1177年のベニス平和会議の後に自由を取り戻し、ヴィッテルスバッハ家(バイエルンの君主の家系として有名)出身のコンラッド3世の治世に再建されました。

 1525年、ドイツ農民戦争ではホーエンザルツブルク城が14日間、農民に包囲されましたが、農民は軍事力で排除されました。

 大司教ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウは、ザルツブルクの小ローマ化を目指し、独裁政治を進めて、火災にあった大聖堂や他の建物を取り壊させ、レジデンツ、アルテナウ小城(後のミラベル宮殿)を造らせました。その後、製塩権をめぐってバイエルン公マクシミリアンと争い失脚、ホーエンザルツブルク城に幽閉され5年後に死亡しました。ライテナウはザルツブルクの芸術史上、建築史上なくてはならない人物とも言われています。

 17世紀、ザルツブルクは巧みな外交政策と防衛設備の充実により、三十年戦争には巻き込まれず、南ドイツから多くの避難民を受け入れました。また、1623年に開校した総合大学の学生も加わり人口が増大しました。この頃にドームとレジデンツが完成しています。

 1727年には大司教フィルミアン司教が凄惨な新教徒迫害を行っており、ザルツブルクの歴史の中の汚点と言われています。1731〜1733年の間に二万人の新教徒が追放されています。1万人がアメリカのジョージア州に、他はプロイセン、リトアニア、ハノーファーに移住しました。その半数以上を受け入れたプロセンはその後、大国として飛躍することになります。

 1756年にザルツブルクでモーツァルトが誕生しました。

・フランス革命後

 フランス革命後、ザルツブルクはフランス軍の占領を経た後、1803年トスカーナ大公だったフェルディナント3世がザルツブルク選帝侯となり、ウィーンに亡命していたヒエロニュムス・フォン・コロレド大司教は君主権の放棄を宣言。大司教による支配が終焉を迎えました。

 その後、オーストリア帝国の支配下に入り、さらにバイエルン王国に編入され、最終的にはオーストリア帝国に併合されました。

 1860年、ウィーン−ザルツブルク間、ミュンヘン−ザルツブルク間の鉄道が開通、フランツ・ヨーゼフ皇帝が開通式に出席し、これ以降、街は経済的に繁栄します。

・ヒトラーによるオーストリア併合と再独立

 1938年にはアドルフ・ヒトラーによるオーストリア併合があり、1944年のアメリカ軍による爆撃で街は大きく破壊されました。戦後、オーストリアは独立を回復した経緯は「歴史的背景」に書いたとおりです。

 1996年にザルツブルク市街の歴史地区が世界遺産に登録されました。

参考1
 参考2:ザルツブルク、Colorama社、1999年初版発行、2014年第13版発行)

■ザルツブルク新市街の街並み

 ザルツブルク中央駅近くのホテルから旧市街に向かって歩きました。旧市街との間にザルツァッハ川があります。「ザルツァッハ」とは「ザルツ(塩)」が移動する「アッハ(川)」という意味で、塩の交易に用いられた川であったことが分かります。ミラベル宮殿はその手前(旧市街と反対側、川の北側)の新市街側にあります。

 下の写真には近代的な建物が並んでいますが、ミラベル宮殿周辺は歴史的な景観となります。


ザルツブルク中央駅から旧市街に向かう道 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900


ミラベル宮殿前の建物 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

■ミラベル宮殿

 ヴォルフ・ディートリッヒ・ライテナウ大司教は、聖職者であるにも関わらず、愛人ザロメ・アルトの間に10人以上の子供をもうけ、アルテナウ小城を建てさせました。カトリック教会ではこれを歓迎せず、ライテナウは失脚し、ザロメ・アルトは追放されて、アルテナウ小城はミラベル宮殿と改名されました。バロック様式の建物正面は1818年の大火で焼失し、新古典主義様式で簡素に再建されています。(参考:ザルツブルク、Colorama社、1999年初版発行、2014年第13版発行)

 ミラベル宮殿は現在はザルツブルク市長公邸として用いられています(参考)。ミラベル庭園のペガサスの噴水のまわりは映画「サウンド・オブ・ミュージック」でドレミの歌を歌って踊ったフィナーレとなったところです。

 ミラベル宮殿の敷地の北側は公園となっており、西側と南側の庭園もミラベル公園として一般に開放されています。

 公園内の道路は自転車用レーンと歩行者用レーンに分かれています。下の写真の左側が自転車レーン、右側が歩行者レーンです。公園内には沢山のテントが立っているのが分かります。


ミラベル宮殿北側の公園 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下の写真の左側がミラベル宮殿の建物で、西側(建物の裏手)から南側にきれいに手入れされた庭園が広がっています。写真の奥の山の上にホーエンザルツブルク城が小さく写っています。


ミラベル宮殿西側の庭園 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下は映画「サウンド・オブ・ミュージック」のドレミの歌のフィナーレの舞台となったペガサスの噴水です。(「サウンド・オブ・ミュージック」は説明が不要なほど有名な映画ではありますが、後ほど解説します。)


ミラベル宮殿西側のペガサスの噴水 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 下の写真から分かるようにミラベル宮殿の建物は、宮殿としてはそれほど巨大なものではありません。(写真中央は筆者)


ミラベル宮殿(南西側の角)と筆者 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 庭園はきれいに手入れされ、多くの人が庭園の中の散策を楽しんでいました。


ミラベル宮殿の南側の庭園 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 この日は比較的暑い日でした。涼しげな噴水の向こうにホーエンザルツブルク城が見えます。


ミラベル宮殿の南側の庭園からホーエンザルツブルク城を臨む
撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

 庭園から出て道路の向かいに渡ると、新古典主義様式で簡素に再建されたというミラベル宮殿正面が見えます。


ミラベル宮殿の正面 撮影:鷹取敦 Nikon COOLPIX S9900

つづく