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八重山諸島短訪

G船浮に残る悲惨な戦争の爪痕

青山貞一 Teiichi Aoyama
東京都市大学環境情報学部教授

April 2009 無断転載禁
初出:独立系メディア「今日のコラム」

青山貞一:八重山諸島探訪 
@東京から石垣島へ F白浜港から奥西表の船浮へ
Aすべてがゆったり竹富島 G船浮に残る悲惨な戦争の爪痕
B世界有数のサンゴ、石垣島の白保 Hイリオモテヤマネコと奥西表の自然
C新石垣空港の工事現場 I奥西表・内離島近くの干潟
D石垣島の自然と景勝地 J再び竹富島へ:シーサーたち
E石垣島から西表島へ K現地視察経費概要

■2009年3月27日 

 船浮地区は陸の孤島と言われるだけあって、居住者は今でも40人くらいしか住んでいない。しかも、民家は下の写真にあるように小さな桟橋の近く集中している。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27

 やっとのことで、奥西表の陸の孤島、「船浮」に上陸することができた。

 船に乗っていた10人の客は、@食事をする者(といっても船浮では1,2軒しか食事が出来るところはない)、Aイリオモテヤマネコ捕獲の碑を見に行く者、B「イダの浜」を見に行く者、C旧日本軍壕跡を見に行く者など、行き先は限られていて、あっという間に桟橋からいなくなった。

 周知のように、沖縄には今なお第2次世界大戦の爪痕、痕跡がはっきり残っているが、ここ西表島に戦争の爪痕、傷跡、悲惨を残す場所があることを知っている日本人はほとんどいないと思う。そういう私もそのひとりだった。

 西表島とくに、ここ奥西表の船浮地区は、何と今なお、戦争の爪痕、痕跡を残していたのである。これはこの地に来るまで、私はまったく知らなかった。

 具体的な話しとして、戦争の爪痕、痕跡のひとつ目は、今回は立ち寄らなかったが、外離島、内離島である。この島は船浮のすぐ隣にある島で、現在は無人島となっている。

 西表島といえば、とかく「南の楽園」、「イリオモテヤマネコ」、「大自然とあそぼう」など原生の自然がある楽園的なイメージを持つひとが多い。

 しかし、西表島、とくに奥西表には多くの炭鉱がある。


 炭坑夫は、本土各地から甘い言に騙され西表島に連れて来られた人々、朝鮮、台湾から強制的に連行されてきた人々などさまざまだった。

 彼らはいずれも過酷で劣悪な労働条件、さらに度重なる落盤事故、亜熱帯に多いマラリアの蔓延、暴力による支配などに苦しめられた。耐えきれず脱走した人々の多くは、ジャングルの中で屍となったと伝えられている。

 内離島の炭坑は、その後、旧日本軍が防空壕、地下の陣地などで利用し、現在、島は無人島となっており廃墟となった坑道や採炭の施設がジャングルの中に当時の名残をとどめている。

 ※内離島の炭坑・炭坑夫の悲惨な歴史の詳細

 ※浦内川添いある宇多良炭坑跡の写真集

 下の地図は、船浮にあった資料館「西表館」に展示されていた西表島における石炭埋蔵区域、採炭地区、廃村地区の位置である。外離島、内離島は石炭埋蔵区域であり採炭地区となっている。


西表島の石炭埋蔵区域と採炭地域
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27

 戦争の爪痕のもうひとつの場所はといえば今回訪問した「船浮」地区だ。

 船浮に来て私が最初に訪問したのは、旧日本軍が横穴を堀って弾薬庫、発電所、特攻艇格納庫、防空壕などをとして使った「壕」の跡地である。これらの「壕」は桟橋から目と鼻の先の位置にあった。

 なお、別途グループツアーで来た人たちにガイドが説明しているのを聞いていたら、下の穴は船浮要塞の一部中には、機関砲が設置されていたそうだ。この機関砲で船浮地区を襲撃に来たグラマンが一機撃墜されたそうだ。



撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27

 海岸側とは別に桟橋からすぐ近くに下のトンネルというか50mほどの長さの洞窟がある。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27

 下は上のトンネルの内部。出口(入り口)が見える。このトンネルは横穴トンネルもあり、海側から掘られた防空壕と合流するようになっているようだ。



撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27

 上の洞窟トンネルを抜けると山側に次々と壕が現れる。


特攻艇格納庫
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27


弾薬庫跡
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27

 船浮では、戦後、集落用の電気供給のために旧陸軍の防空壕の跡に自家発電機を設置し電気を集落に供給していたようだ。何しろ数10人の集落なので小規模な発電機でまかなえた模様。


発電所跡
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27

 中はこんな感じだ。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27

 旧陸軍が掘った洞窟、壕の先は下のように砂利道が続く。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27

その先はジャングルが展開し、到底通常の装備では入れない。しかも山が海に落ちているので、道もつくれそうにもなく、結局、このような地形、地質的な理由から船浮地区が陸の孤島となった意味が分かる。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27

 歴史的見ると、奥西表地域は、永年炭坑があった外離島、内離島の跡地を含め、旧日本軍に天然の軍港として利用されたという。

 たとえば、船浮の桟橋近くには「東條平八郎上陸の地」という記念碑がある。そこには次のように書いてある。

 「明治38年5月、ロシアのバルチック艦隊を全面させるという重任を負った東郷大将はは駆逐艦で台湾、八重山、宮古、大島、九州などの要港に立ち寄り、船浮港に密かに立ち寄った大将は、民家に立ち寄り次呂久のばあちゃんの出したらっきょうをお茶を召し上がり、後に御礼のはがきを寄せられました。大将の作戦は成功し、明治38年5月27日、バルチック艦隊は全面下。日露戦争秘史(次呂久しい校長談より)」


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27

 昭和年代でも以下にあるように、西表島の浮船地区は臨時要塞が置かれるなど旧日本軍に利用されてきたようだ。


白浜港と内離島、船浮港の位置関係
出典:グーグルマップ


白浜港と内離島、船浮港の位置関係
出典:グーグルアース

船浮臨時要塞

 沖縄県西表島船浮方面に設置された臨時要塞。昭和15年10月に要塞着工。西部軍戦闘序列に組入れられたという。要塞司令部の司令官は下永憲次 大佐(昭和16年10月5日 - 昭和19年3月、船浮要塞重砲兵連隊の連隊長は入野大二郎 中佐(昭和17年8月1日 - )、第65要塞歩兵隊、船浮陸軍病院などが臨時に設置されたようだ。 出典:Wikipedia

 東京に帰ってから詳しく調べてみると、西日本新聞が「船浮要塞」についていろいろ突っ込んだ調査、取材をしていることも分かった。以下の記事は短いものの、非常に興味深い内容である。

船浮要塞

 沖縄県竹富町史などによると、1941年10月、西表島西部に旧日本軍の船浮要塞重砲兵連隊が配備され、深い入り江の高台に高射砲や野砲など六門が据えられた。

 その後、石垣島防衛のため主力は移駐した。1945年初めには、貨物船「安東(あんとん)丸」が要塞内に漂着。朝鮮人乗組員を日本軍が強制労働に従事させて虐殺したり、廃村へ置き去りにするなどした「安東丸事件」が起きたとされるが、詳細は判明していない。

 要塞の大砲類は一発の砲も敵に発射せず敗戦を迎えた。

出典:西日本新聞

 船浮の要塞では、漂着した船に乗っていた朝鮮人乗組員を日本軍が強制労働させ虐殺したという話しもあるようだ。何しろ、現在でも陸の孤島で人里離れた秘境なので、何があっても外部からは分からなかったのだろうか。

 上記に関連し、西日本新聞(2005年06月13日)に興味深い記事があった。


要塞哀史語り継ぐ沖縄・西表島の池田さん
旧日本軍施設 観光客に案内
知られぬ実態「解明せねば」


 第2次大戦中、東南アジアと日本本土を結ぶ航路を守るため、沖縄県・西表島に建設された旧日本軍の要塞「船浮要塞」を後世に伝えようと、要塞の地域内に住んでいた男性が秘められた哀史を語り続けている。

 要塞は、今も船でしか渡れない「陸の孤島」船浮地区と周辺に建設されたが、中で何が行われたか、戦後60年がたった今も詳しい実態は明らかでない。

 男性は元中学校教諭、池田豊吉さん(65)=同県竹富町=。教師だった十三年前から要塞の調査を始め、自宅横に個人で資料館を開くなどして、観光客らに要塞の歴史を伝えている。

 日本軍は1941年、船浮要塞の建設用地を強制接収し、約30世帯あった住民を強制的に石垣島などに移住させた。残るのを許されたのは、池田さんの家族をはじめ地区役職者など数世帯だけだった。

 池田さんは、家近くの空き地で目にした惨状が忘れられない。「日本兵が、後ろ手に縛られた朝鮮人軍夫を並ばせ、木の棒で何度もなぐった。飢えた朝鮮人が、食料を盗んだというのが理由だった」。

 当時、西表炭鉱に徴用されるなどしていた朝鮮人が犠牲になっていたとみられ、うめき声や、撲殺され、遺体が運ばれる情景を、今も生々しく覚えているという。

 要塞の調査を始めたのは、石垣島の中学校から、実家がある船浮対岸の白浜地区に転勤したのがきっかけ。ジャングルに覆われた司令所や砲台、慰安所跡など分散配置された要塞施設約20カ所を歩いて調べ、その全容を資料館でパネル展示している。

 昨年4月には、2男克史さん(32)が船浮で観光船事業を始め、人口56人の集落に月600人ほどが訪れるようになり、池田さんは資料館を一般公開した。

 観光客の目的は、最果ての地の美しい自然を楽しむためだが、資料館や、集落のはずれにある特攻艇格納壕などの要塞跡を見学し、「こんなところにまで戦争が押し寄せていたとは思わなかった」と驚く人が多いという。

 池田さんは「1カ月ほど前にも、集落内の工事現場から朝鮮人のものとみられる骨つぼと遺骨が見つかった。まだまだ解明しなければならないことは多い」と話している。


西日本新聞(2005年06月13日)

 下はその池田さんがつくられた資料室「西表館」の入り口にある設立の目的、趣旨を書いたもの。


撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27


資料室「西表館」の入り口
撮影:青山貞一 Nikon Cool Pix S10 2009.3.27

 非常に遺憾なことだが、西表島の奥西表にも、旧陸軍が朝鮮半島や中国で行ったのと同じような強制労働、拷問、虐殺があったことは間違いない。 

 ここに私がソウル西大門刑務所やポーランドの北ワルシャワ要塞・大監獄、アウシュヴィッツ・ビルケナウ、マイダネクなどの強制収容所を視察してきたこととの共通点が見いだせた!!

 以下は「西表館」の資料などによる「
西表炭坑」の歴史概要である。

1885年(明治18年) 三井物産が西表で試掘開始

1886年(明治19年) 三井物産が本掘りに入る

1889年(明治22年) 鉱夫のマラリア被害が多発し採掘中止。

1907年(明治41年) 八重山炭坑汽船合名会社が採炭事業を開始

1914年(明治44年) 鉱夫が西表炭坑から那覇に脱走。
              鉱夫の扱いを暴露する。

1917年(大正6年)  第1次世界大戦勃発。内離炭坑の採炭本格化。

1922年(大正11年) 星岡炭坑開業。

1931年(昭和6年)  満州事変が勃発し石炭需要が急増する。

1936年(昭和11年) 南海炭坑・西表鉱業所が採炭。

1937年(昭和12年) 日華事変。西表の石炭産業活況。
              日本政府、朝鮮人労働者募集要項策定。
              朝鮮人強制労働開始く。

1941年(昭和16年) 船浮要塞設置。
              太平洋戦争開戦。
              日本政府、深夜労働の禁止緩和、幼年労働者、
              婦人労働者の坑内労働を容認。
              炭坑鉱夫は西表要塞の工事のため強制労働

1943年(昭和18年) 八重山空襲開始。鉱夫徴用、応召により、
              西表炭坑は事実上閉鎖。

1945年(昭和20年) 敗戦。
              西表炭坑の鉱夫解放。マラリアが流行。

             戦後も炭坑復活が試みられたが、

1958年(昭和33年) 西表炭坑の歴史は終わった。



西表炭坑

 南西諸島の西表島北西部から内離島にかけて分布していた炭鉱である。1936-1937年(昭和11-12年)の最盛期には各地から1400名の労働者が集まり、年間12-13万トンの石炭を産出していたが1960年に休止となった。

 西表島には古くから燃える石に関する言い伝えがあり、18世紀末に書かれた八重山の文書には地域の産物として「燃石」の記述がある。

 1853年(嘉永6年)、ペリー提督が沖縄を訪問した際に主任技師R.G.ジョーンズが周辺地域の地質を調査しShioya Bay付近に石炭が存在することを報告した。

 沖縄島北部にある塩屋湾には石炭を含む地層がないことから、これは西表島西部の石炭を指すものと考えられている。翌1854年には琉球王府が石炭のある土地に木を植えて石炭を隠すよう指示している。

 1871年(明治4年)、鹿児島の商人林太助がさまざまな鉱石のサンプルを石垣島の大浜加那に渡して資源探索を依頼した。加那はまず石垣島を調査したが資源は見つからず、西表島を調査したところ南西部の崎山村付近で石炭を発見し、このことを太助に伝えた。

 太助はすぐに鹿児島へ報告し、1872年1月から4月にかけて鹿児島県役人の伊地知小十郎が現地を調査した。加那は石炭の存在を国外へ漏らしたとして琉球王府によって捕らえられ1873年8月に波照間島へ流罪となった。

 琉球処分を経て1885年(明治18年)、政府による調査が行われ林太助もこれに同行した。翌1886年3月、内務大臣山縣有朋が三井物産の益田孝社長を伴って視察し、同年5月に炭坑で囚人を使役することを提案している。

 この時期に三井物産は西表島西部と内離島で石炭の採掘を開始した。囚人を含む100-200名の労働者が集められ採掘を進めたがマラリアに襲われ1889年(明治22年)9月21日に撤退した。ひどいときには90%以上の労働者がマラリアに感染する有様で、数10名が死亡している。

 西表島はもともと人口が少なかったため炭坑労働者の多くは島外から集められた。募集人の口上に乗せられて日本各地や台湾、中国などから実情を知らされないまま島にやってきた人々は、まず島までの運賃や斡旋料などの借金を負わされ、いわゆるタコ部屋労働を強いられることになる。

 炭坑で働くことによって借金を返済することになるが、給料は納屋頭と呼ばれる個々の炭坑責任者が管理しており、実際にはほとんど支払われることがなかったといわれる。給料の代わりに炭坑切符と呼ばれる私製貨幣が支給され、会社経営の売店で食料や日用品と交換することができた。

 炭坑切符はある程度集めれば通貨と交換できるとされていたが、実際には交換されないばかりか責任者が交代すると紙切れ同然となった。すなわち一度炭坑にやってくると二度と帰れないというのが実情であった。

 炭坑での労働は過酷なものであった。炭層が薄いため坑道が狭く地面を這うようにして作業しなければならなかった。しばしば落盤事故が発生し年間1-2名が死亡した。衛生状態が悪く寄生虫やマラリアが蔓延していた。

 多くの労働者は博打に興じ、治安も悪く暴力沙汰は日常茶飯事であった。島外へ逃亡するにも会社の連絡船しか交通手段が無く、運良く近隣の島まで逃げられたとしてもすぐ炭坑関係者に捕らえられ引き戻されるだけであった。

 1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まると多数の労働者が軍隊に召集され人手不足に陥った。さらには内離島の日本軍陣地設営への協力や炭坑所有船舶の徴用などが行われ、食糧供給もままならなくなったため1943年(昭和18年)頃までに休止状態に追い込まれた。

 終戦後はアメリカ軍に接収され、1949年にいくつかの炭坑を再開したがうまくいかず民間へ払い下げられた。1953年に琉球興発が事業を再開したものの採算が合わず1960年に休止状態となった。

 1959年に提案された西表開発構想に基づいて資源調査が行われたが、薄い炭層では採算が期待できないことなどから再開には至らなかった。

出典:Wikipedia


 なお、池田さん親子が開設した西表島の資料館については、琉球新報の以下の記事が参考になる。


 池田さん父子が「西表館」開設へ
 西表炭坑などの事実整理


【西表島=竹富】

 西表炭坑の悲惨な歴史を知っていますか?

 船浮(ふなうき)が軍事基地だったことを知っていますか?-。

 西表島の歴史や自然、文化について学ぶ私設の研究資料館「西表館」が西表島の船浮に間もなくオープンする。

 元教員で船浮公民館長の池田豊吉さん(60)が、6年前に自宅を新築した時に約60平方メートルの建物を研究資料室として建て、こつこつと準備を進めてきた。

 竹富町立白浜中学校の教頭時代に作った、西表炭坑や軍港だった船浮の歴史を解説したパネル、大きな年表、立体地図などのほか、動物の写真や標本、写真パネルも展示している。さらにビデオも上映し、ハブやイノシシも飼育して展示する予定だ。

 池田さんは戦争中、強制連行されてきた朝鮮人軍夫が虐待を受けたり餓死させられたりした様子を目撃した。過酷な労働を強いられた炭坑にも多くの悲劇があった。「島の資源を目当てに本土資本がひどいことをした。そういう事実をきちんと整理しておきたい。

 西表島は小さな島だが、日本や世界の歴史を知るには重要な場所だ」と強調する。「西表島に来て海、緑だけを見て帰ってほしくない。

 島の子どもたちも自分の位置が分かるようになると思う」と「西表館」への思いを語った。Uターンして漁業をしている二男の克史さん(28)も手伝っている。「遊びで来た人が気楽に寄って、分かりやすく知識が得られるようにしたい」と意気込む。

 西表島の最も西に位置する船浮は、白浜から船で渡るしか交通手段がない。池田さんは「みんな陸の孤島とか言うけどここも西表ですよという考えで『西表館』と名付けた」と説明。さらに島への理解を深め、新たな発見を試みる場所にしたいという思いも込めている。

 琉球新報 2000年9月23日

 資料室「西表館」には、次のような趣旨の情報もあった。

 「
西表島の白浜には慰安所があった。地元女性もいたが、強制的に朝鮮から連れてこられた女性もいた。慰安婦の数は80人前後(50人説あり)と推定されている」と。


つづく