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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所 (概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2


青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
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関連サイト> 日中戦争 太平洋戦争 731部隊
ダッハウ強制収容所(Dachau: ドイツ) 地図
 <ドイツ>  ブーヘンヴァルト  ベルゲン・ゲルゼン  ダッハウ  アラッハ  フロッセンビュルク  ラーフェンスブリュック
     ザクセンハウゼン  ミッテルバウ=ドーラ   ヒンツァート  ノイエンガイメ  オラニエンブルグ  レーベンボルン 個別収容所詳細ヘ
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概要  
 ダッハウ強制収容所(KZ Dachauは、ドイツ・バイエルン州・ミュンヘンの北西15キロほどのところにある都市ダッハウに存在したナチス・ドイツの強制収容所である。ナチスの強制収容所の中ではオラニエンブルク強制収容所と並んで最も古い強制収容所と言われ、後に創設された多くの強制収容所のモデルとなった「ダハウ強制収容所」と書かれる事もある。現在、別館については、難民をはじめとするホームレスの保護施設として使用されている。

※ 英  Allachn Concentration Camp
   独  KZ-Ausenlager Allachn、
   波  Oboz koncentracyjny Dachau
   日  アラッハ強制収容所
 
 全部で30以上の国々から20万人が送り込まれ、その内の3分の1近くがユダヤ人であった。32,099人が収容所内で死亡し、他に約1万人が主に疾病、栄養失調、自殺によりダッハウの支所で死亡した。1945年初頭にナチスの撤退後にチフスが流行し、体の弱っていた囚人の多くが死亡した。

 ダッハウより大きいアウシュヴィッツ同様、ダッハウは多くの人にとってナチス強制収容所の象徴になっている。ダッハウ強制収容所はイギリス軍やアメリカ軍に解放された2番目の収容所であったため、多くの人々にとって重要な場所となっている。従って、西側諸国がナチスの蛮行に直に接した最初の場所の一つであった。

 当初、解放したアメリカ軍はダッハウでガス室による大量虐殺が行なわれていたと発表した。実際に1942年7月末にナチスはガス室を設置するようダッハウに命令を下しており、ダッハウに偽装シャワー室のガス室がつくられている。だが、この収容所でガス室が実際に稼働した事実を証明する資料はない。ダッハウでは絞首刑や銃殺による処刑も他のナチ強制収容所と比べるとかなり少なかった。   

解説

 ダッハウ強制収容所は、第一次世界大戦の際に火薬工場として使われていたダッハウの町の廃工場を利用して建設された。この廃工場とその用地は親衛隊(SS)隊員の兵営にする予定で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権掌握直後に購入した物だった。

 1933年3月20日にバイエルン州警察長官ハインリヒ・ヒムラーは記者会見を行い、ダッハウ強制収容所の設置を発表した。3月22日にダッハウの運営は開始された。この収容所は当初からSSによって運営され、ヒルマール・ヴェケルレ(de:Hilmar Wackerle)SS中佐が初代所長に就任した。3月23日に最初の収容者として60人の政治犯が送られてきた。

 当初はかなり無法状態で、1933年5月には収容されていたドイツ共産党代議士が4名殺害されたため、ミュンヘン検察局が捜査に乗り出し、ダッハウ所長ヴェケルレSS中佐が殺人罪で告発された。これを受けてヒムラーは1933年6月末にヴェケルレSS中佐を解任し、新しい所長としてテオドール・アイケSS上級大佐を任じた。

アイケによる体系化
 アイケは収容者への罰則を体系化するために1933年10月1日に収容所規則を制定した。後にあらゆる強制収容所の罰則として導入された25回鞭打ちの刑、段階別の禁固刑、減食刑、死刑などの罰則が定められた。政治的扇動やデマ、破壊活動、反逆的行為、脱走、看守への暴行の際に死刑が執行されると定めた。

 また囚人管理を体系化するため、ダッハウの収容者はブロックごとに250人ずつに分けられた。各ブロックごとにSS軍曹のブロック指導者を設置し、ブロック指導者の上にSS曹長の連絡指導者を置き、管理にあたらせた。またならず者ばかりだった収容所警備隊の整理を行い、「親衛隊髑髏部隊」 (SS-TV) を編成させた。

 ダッハウでアイケによって築かれたこうした体系は、1934年7月にアイケが全強制収容所総監に任命されたことで全強制収容所に拡大されていく。

 アイケはユダヤ人を憎悪しており、初期の頃からユダヤ人に対する扱いは苛烈を極めた。国外の新聞にナチス強制収容所についての批判記事が載っているのを見つけるとアイケは「強制収容所の情報が漏れるのはドイツ系ユダヤ人が国外で吹聴しているのが原因」と喚き、収容されているユダヤ人(この段階ではユダヤ人という理由だけで収容されるケースはなく、政治犯の中にたまたまいたユダヤ人である)を真っ暗な抑留棟に閉じ込めたりしていた。

第二次世界大戦開戦前
 1938年11月、水晶の夜事件の影響で一時大量のユダヤ人がダッハウ強制収容所に収容されたが、彼らは国外へ移住することを条件にほとんどが数週間で釈放された。ユダヤ人の収容が本格化するのは戦時中になってからのことである。

1936年にザクセンハウゼン強制収容所、1937年にブーヘンヴァルト強制収容所が創設されたが、いずれもダッハウ強制収容所をモデルとしていた。

第二次世界大戦開戦後
 第二次世界大戦が開戦した初期に再建設のため一時ダッハウ強制収容所から収容者が追い出された。ダッハウの収容者たちはフロッセンビュルク強制収容所やマウトハウゼン強制収容所などへ移送された。

 南北に長い長方形の敷地、二重に張り巡らされた鉄条網、その随所に設置された監視塔という他の強制収容所と同じ形状に作り直された。理論収容数も大きく増やされて9,000人が収容可能となった(もっとも1944年秋にはそれよりはるかに多い3万5000人が押し込まれる事になるが)。1940年春にダッハウ強制収容所が再び稼働した。

 国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが1941年1月2日に定めた政令によると、ダッハウは庭仕事など軽い仕事に従事することのできる者を収容する「第一カテゴリー」の収容所に属していた。1943年のバチカンとの合意の後には聖職者はこのカテゴリーの収容所に限定して送られるようになった。

飢えとチフス
 戦争終結が近付くにつれ、ダッハウの状況はだんだんと悪化していった。連合軍がドイツに迫ると、ドイツは囚人の解放を防ぐことを意図し、前線近くの強制収容所の囚人を内地の収容所に移した。

 移送元の収容所からの移送者が続々とダッハウに到着した。食事や水が殆どあるいは全くない状況で移送が終わると、囚人は消耗して衰弱し半死半生となる者も珍しくなかった。過重収容、貧弱な衛生状態、乏しい食料そして囚人の衰弱を原因とするチフスの蔓延が深刻な問題となった。

 前線から続く新たな移送で、収容所はすぐに囚人で溢れかえり、衛生状態は人間の尊厳が守られる状況ではなくなっていた。1944年末から解放の日までに15,000人が死亡したが、その犠牲者の約半数がダッハウ強制収容所の囚人であった。ロシア人捕虜500人は銃撃隊により処刑された。

 1945年4月27日に、赤十字国際委員会代表のヴィクター・モーラーは収容所内に立ち入ることが許され、食料を配布した。同じ日の夕方、囚人がブーヘンヴァルト強制収容所から到着した。出発時は4,480人から4,800人いたものの移送中に多くが死亡し、到着まで生き延びることができたのは800人だけであった。2,300体を越える遺体は列車内やその周囲にそのまま放置された。

 収容所の最後の所長エドゥアルト・ヴァイター親衛隊中佐(彼は1942年9月から1943年11月まで収容所所長だったマルティン・ヴァイス親衛隊中佐の後任と考えられている)は既に4月26日に逃亡していた。

 降伏の前日1945年4月28日には収容所長官マルティン・ヴァイスを始めとして収容所の守備隊や職員の多くがダッハウ強制収容所を離れていた。同日、赤十字の代表ヴィクター・モーラーは、収容者の集団脱走とチフスの流行が周辺地域に広まることを懸念し、収容所に残ったヴァイスの副官ヨハネス・オットー中尉に対して、収容所を放棄せずアメリカ軍が到着するまで囚人を外に出さないために守備隊を配置しておくように説得したが、オットーはそれに応じず逃亡した。

ダッハウにおける解放後の復活祭
 解放の数日後は、正教会の復活大祭であった。カトリック司祭たちは通常の主日のミサを祝ったが、ギリシャ人やセルビア人、ロシア人などの正教の司祭数名はSSのタオルから作った間に合わせの祭服を纏って復活大祭を祝った。ギリシャ人やセルビア人、ロシア人数百人の信徒たちも集まって式が行われた。ラールという名前の囚人は、この時の様子をこう述べている。

 東方正教会の歴史で1945年のダッハウのような復活大祭は恐らくなかっただろう。セルビア人の輔祭と共にギリシャ人とセルビア人の司祭が、青色と鼠色の囚人服に間に合わせの祭服を纏ったのだ。その時ギリシャ語からスラヴ語に変えて聖歌を歌い、再びギリシャ語に戻した。復活大祭のカノンなど全ては記憶に基づいて歌った。「初めに光ありき」も同じだった。最後に聖ヨハネの説教も同じだった。聖なる山(アトス山の別称)から来た若い司祭が、我々の前に立ち、死ぬまで忘れそうもない熱狂が伝わる中で歌った。聖ヨハネ自身がこの司祭を通して我々にまた世界に語りかけたようだ!

 今日収容所には正教の聖堂があり、収容所の門を出る囚人を導くハリストス(キリスト)が画かれたイコンでよく知られている。


 なお、ダッハウ解放の際のアメリカ合衆国第7軍については、『アメリカ合衆国第7軍作戦報告』第3巻382ページを参照のこと。

解放後
 解放後、強制収容所はアメリカ軍の埋葬場に使用され、強制収容所のシンボルとしてヴァイスら同収容所関係者を裁いたダッハウ裁判の開催地ともなった。1948年、バイエルン州政府がこの場所に難民用の住居を建設し始め、長年使用された[26]。

収容所を記憶するために
 時が過ぎ、かつて囚われていた人々は、こうした状況で収容所に生きる人々(難民)が依然としていることが信じられない思いで収容所の跡地に記念しようと結束した。

 ディスプレイは2003年に再構築されたもので、収容所の見学順路に置かれており、著名な囚人が何名か紹介されている。記念碑建設の際には元の建屋の状況が酷かったために、建屋が二つ再建され、収容所の歴史が遍く見られるようになっている。残りの28棟は、コンクリートの土台で場所を示している。

 跡地には囚人が信仰した様々な宗教のために礼拝堂が4つある。地元政府は跡地の完全利用に抵抗した。かつて収容所に隣接していたSSの建屋は現在、機動隊 (Bereitschaftspolizei) が使用している。

組織
 収容所は収容区域と火葬場の2区間に分かれていた。収容区域は32棟あり、ナチスの統治に反対して収監された聖職者用の棟が一棟と医学実験用に確保された一棟があった。収容施設と中央の調理場を結ぶ中庭は、囚人の略式処刑に利用された。高電圧の鉄格子、排水溝、七箇所の監視所のついた壁が、収容所の周囲を囲んでいた。

 1937年前半に、囚人を働かせていたSSは元々収容所があった場所に大きな複合建造物の建設を開始した。古い焼却場の解体を手始めに劣悪な環境で囚人はこの作業に駆り出された。この建設作業は公式には1938年8月半ばに完了し、収容所は実態は変わりはなく1945年まで運用された。

 従ってダッハウは第三帝国最長の強制収容所であった。ダッハウのこの区域は、強制収容所の傍に経済・民事幹部学校やSSの医学校などのSSの施設があった。この時期の強制収容所は、「保護拘禁所」と呼ばれ、全体の半分も占めていなかった。

 ダッハウはキリスト教聖職者のための収容所という側面も持っていた。カトリック教会に残る記録によれば少なくとも3,000人におよぶ修道者、助祭、司祭、司教が収容されていたとされる。

 1944年8月に、女性用の収容所がダッハウ強制収容所内に開設された。最初の一団は、アウシュヴィッツ・ビルケナウから来た。19人の女性監視員だけがダッハウで監視を行い、ほとんどは解放まで勤めていた。

「制裁」
 反抗したり失態をした囚人には親衛隊員の「制裁」が加えられた。「制裁」には食事抜き、長時間の直立不動、殴打、鞭打ち、手を後ろ手に縛りあげて木の柱に吊るしあげ、懲戒部隊への編入、強制労働分隊への編入などが行われた。

その他関係人物
・ジクムント・ラッシャー:ダッハウ内で非道な人体実験を実施した親衛隊の医師。
・クラウス・シリング:熱帯医学博士。収容所内に研究所を設置し、マラリアの研究を進める為の人体実験を行っていた。

ダッハウに収監された著名人
ユダヤ人
・ブルーノ・ベッテルハイム 1938年に収監、1939年に釈放、ドイツを去る。
・ハンス・リッテン 反ナチスの弁護士。1933年に逮捕され、1938年に自殺。

・ヤーコプ・エールリッヒ ウィーン市議会議員 (Rat der Stadt Wien)、1938年5月17日ダッハウにて死去
・ヴィクトール・フランクル オーストリアウィーン出身の精神科医で心理学者
・ヴラデク・シュピーゲルマン アート・スピーゲルマン著「マウス」に描かれた

生還者
・アルフレッド・グルーネバウム アメリカ合衆国の有名な産婦人科医アモス・グルーネバウムの父
・ダヴィッド・ルートヴィヒ・ブロッホ 画家、水晶の夜に関係して1938年11月に逮捕される。
・レオン・ブルム フランスの元首相。1945年4月にブーヘンヴァルトから移され、まもなくチロルへ移される。翌5月に解放。

レジスタンス
・アルチュール・オロ
・フランク・カロ
・ゲオルク・エルザー - 1939年にヒトラーを暗殺に失敗、逮捕され1945年4月9日に処刑された。
・ジョルジュ・シャルパク - 1992年にノーベル物理学賞を受賞した。
・クルト・ネールリンク - 1943年に死去。
・ヌーア・イナヤット・カーン - パリのWAAFのために地下ラジオ放送を行ったインド出身のジョージ・クロス受章者。1944年殺害。

聖職者
・ダッハウには特別な「司祭区域」があった。ダッハウに捕らえられた2,720人の司祭の内(そのうち2,579人はカトリック)、1,034人は生き残れなかった。大半がポーランド人(1,780人)で、その内の868人が死亡した。
・Adam Koz?owiecki ポーランド人枢機卿。生還。
・Lawrence Wnuk ポーランド人司祭。
・Micha? Kozal 福者
・Aloys Scholze 1942年9月1日死去
・Anton Franznick 1942年からダッハウに収監され、1944年1月27日死去
・Stefan Grelewski 福者 カトリック司祭、囚人番号25281、1941年5月9日にダッハウで餓死。
・Stefan Wincenty Frelichowski 福者 カトリック司祭、1945年2月23日死去。
・Hermann Scheipers
・Hermanus Knoop カルヴァン派 (Gereformeerd) 牧師、「政治的な説教を行った」として1941年11月19日逮捕。
・Joseph Kentenich 信心活動であるシェーンシュタット運動 (Schoenstatt ・Movement) 創始者、3年半をダッハウで過ごした。
・Karl Leisner 1941年12月14日から収監され、1945年5月4日に解放されるが、収容所で罹患した結核により8月12日死去。
・マルティン・ニーメラー 1941年に収監され、1945年5月4日に解放される。
・Nanne Zwiep オランダカルヴァン派教会牧師、反ナチスとナチスのオランダ市民やユダヤ人に対する扱いに対する説教で1942年4月20日に逮捕され、・ダッハウで1942年11月24日に疲労と栄養失調で死去する。
・Norbert Capek(1870年 - 1942年) チェコ共和国のユニテリアン派教会の創立者。1942年に殺害される。
・リヒャルト・シュナイダー 1940年11月22日からダッハウに収監され、1945年3月29日に解放される。
・ティトゥス・ブランマ (Titus Brandsma) 福者 オランダのカルメル会修道士で哲学教授、1942年7月26日死去。
・ジャン・ベルナール(1907年 - 1994年) 1941年5月から1942年8月まで収監されたルクセンブルク出身のカトリック司祭。ベルナール神父はダッハウでの経験を著書『Pfarrerblock 25487』に書いた。フォルカー・シュレンドルフ監督のThe Ninth Dayは、ベルナールの日記を基にしている。
Nikolai Velimirovi?(1880年 - 1956年) セルビア正教会の主教で神学者。1944年11月14日にダッハウにセルビア正教会の総主教Gavriloと共に送られた。

政治家
・アロイス・フントハマー 1933年6月21日に逮捕、1933年7月6日に釈放。戦後バイエルン州首相。
・ヒャルマル・シャハト ヒトラー政権下の経済相・ライヒスバンク総裁。1944年逮捕、1945年4月に釈放。
・ヤン・ブゼク チェコスロバキアのポーランド人政治家。1940年11月に殺害。
・クルト・シューマッハー 1935年7月に収監。1939年にフロッセンビュルク強制収容所に移送されるものの、1940年に再度ダッハウに戻り、1943年3月16日に重病のため釈放。戦後ドイツ社会民主党党首。
・レオポルト・フィグル 1938年に逮捕、1943年5月8日に釈放。戦後オーストリア首相。
・ステファン・スタジンスキ ワルシャワ市長。1939年に逮捕、1943年頃にダッハウで殺害。

共産党員
・アルフレッド・アンデルシュ 1933年に6カ月間収監される。
・ハンス・バイムラー 1933年に収監されるが脱走。スペイン内戦で死去。
・Emil Carlebach(ユダヤ人) 1937年からダッハウ、1938年にブーヘンヴァルト強制収容所に移る。
・アドルフ・マイスリンガー
・Nikolaos Zachariadis(ギリシャ人)ギリシャ共産党書記長。1941年11月から1945年5月まで
・オスカル・ミューラー 1939年からダッハウ、1945年解放。
・Nando Gherghetta(イタリアイストリア半島出身) 1943年から

著作者
・フリッツ・ゲルリヒ
・Gustaw Morcinek ポーランドシレジアの作家
・ハインリヒ・エドゥアルト・ヤコブ ドイツ人作家、ダッハウに6ヶ月間いて、ブッヘンヴァルトに移送される。
・ユーラ・ゾイファー 著作者、1938年にダッハウに6ヶ月間いて、ブッヘンヴァルトに移送され、1939年に殺害される。
・Raoul Auernheimer 著作者、ダッハウにて4カ月間収容される。1938年に釈放。
・Stanis?aw Grzesiuk ポーランド人著作者、詩人、歌手。1940年4月4日からダッハウにいて、後にマウトハウゼン強制収容所に移送される。生還。
・Stefan Kieniewicz ポーランド人歴史学者
・Stevo ?igon(囚人番号:61185) セルビア人俳優、演出家、著作者、1943年12月から1945年5月までダッハウに囚えられる。
・Tadeusz Borowski 著作者、生還するが、1951年に自殺する。
・フランツ・ロー ドイツ人芸術家、芸術史学者、1933年に数カ月間収監される。
・ロベール・アンテルム フランス人著作者
・Boris Pahor スロヴェニア人著作者

王族
・アルブレヒト・フォン・バイエルン
・アントニア・ド・リュクサンブール - ループレヒト王太子妃
・マクシミリアン・ホーエンベルク - ホーエンベルク公爵
・エルンスト・ホーエンベルク - ホーエンベルク公爵の弟
・バイエルンのヴィッテルスバッハ家の一族はナチスの支配を嫌いハンガリーに移住していたが、1944年のナチスのハンガリー占領時に捕えられ、ザクセンハウゼン強制収容所に収容され、その後1945年初旬にダッハウへと移された(王太子ループレヒトは1939年にイタリアに亡命していたため、難を逃れた)。フランツ・フェルディナント大公の子女はウィーンのアーツテテン公邸に居住していたが、アンシュルス(大ドイツへのオーストリア併合)後に1944年 - 45年にダッハウに収監された。

その他
・フランツ・ハルダー 前参謀総長。
・ハンス・フォン・ザイサー ミュンヘン一揆時のバイエルン州警察長官。生還。
フリッツ・ティッセン 実業家で当初はヒトラーを支持したが後に反対派に回る。生還。
・ヨハン・ラング オーストリアの死刑執行人。収容された1938年に死去。

注釈
1・ ミュンヘン警察長官ヒムラーの記者会見は次の通り。「きたる水曜日に5,000人を収容できる最初の強制収容所がダッハウに開設される運びとなった。共産主義者の官吏・マルクス主義者の官吏・国旗団に所属する者など国家治安を危機に陥れる者がここに集められることになるだろう。こうした連中は釈放された途端に扇動と運動の組織化を図ろうとするから釈放するわけにはいかない。しかし長期にわたって刑務所の重荷にするわけにもいかない。したがって強制収容所へ収容することは当然の措置で

参考文献
1・長谷川公昭 『ナチ強制収容所:その誕生から解放まで』 草思社、1996年。ISBN 978-4794207401。
2・マルセル・リュビー 『ナチ強制・絶滅収容所:18施設内の生と死』 菅野賢治訳、筑摩書房、1998年。ISBN 978-4480857507。
3・高橋三郎 『強制収容所における「生」』 世界思想社(新装版)、2000年。ISBN 978-4790708285。
4・オイゲン・コーゴン(de) 『SS国家 ドイツ強制収容所のシステム』 林功三訳、ミネルヴァ書房、2001年。ISBN 4-623-03320-1。

出典
1.^ a b c d e 長谷川、63p
2.^ a b 高橋、35p
3.^ 長谷川、62p
4.^ 高橋、26p
5.^ http://www.fatherryan.org/holocaust/dachau/subindex.htm ダッハウ - 最初の強制収容所
6.^ That Was Dachau 1933 - 1945 by Stanislav Zame?nik Page 377 and 379
7.^ 最も有名な人にHans Litten、Fred Rabinowitz(別名 Fred Roberts)、Stefan Starzynski、作曲家Bla? Arni?、Alfred Gruenebaum(アメリカ合衆国の著名な産婦人科医の父)、Amos Grunebaumがいる。
8.^ リュビー、102p
9.^ a b リュビー、92p
10.^ リュビー、92-93p
11.^ http://www.mazal.org/archive/DACHPHO/Dach02.htm
12.^ a b c 長谷川、64p
13.^ a b 高橋、36p
14.^ a b c d e 長谷川、66p
15.^ 高橋、38p
16.^ 高橋、45p
17.^ 長谷川、81p
18.^ 高橋、39-40p
19.^ リュビー、94p
20.^ リュビー、95p
21.^ a b リュビー、69p
22.^ ヴァイターはドイツが降伏した同年5月2日、逃亡先のチロルで自殺している
23.^ http://www.scrapbookpages.com/Dachauscrapbook/DachauLiberation/Wicker.html
24.^ a b c Gleb Alexandrovitch Rahr - Prisoner R (Russian) -- Pascha (Easter) in Dachau
25.^ Dachau 1945: The Souls of All Are Aflame | Antiochian Orthodox Christian Archdiocese
26.^ Dachau Concentration Camp Memorial Site (pedagogical information) Archived
2012年1月18日, at the Wayback Machine. (ドイツ語)
27.^ Sven Felix Kellerhoff (2002年10月21日23:33). “Neue Museumskonzepte fur die Konzentrationslager” (German). WELT ONLINE (Axel Springer AG) 2007年3月
21日閲覧. ". . . die SS-Kasernen neben dem KZ Dachau wurden zuerst (bis 1974) von der US-Armee bezogen. Seither nutzt sie die VI. Bayerische Bereitschaftspolizei. (. . . the SS barracks adjacent to the Dachau concentration camp were at first occupied by the US Army (until 1974) . Since then they have been used by the Sixth Rapid Response Unit of the Bavarian Police.)"
28.^ アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館ホロコースト百科事典 http://www.ushmm.org/wlc/article.php?lang=en&ModuleId=10005214
29.^ 特に有名なのが、カール・ライスナー(収容中に司祭叙階を受け、1996年にヨハネ・パウロ2世から列福された)とマルティン・ニーメラー(プロテスタント神学者でナチスへの抵抗運動指導者)である。
30.^ ダニエル・パトリック・ブラウン著THE CAMP WOMEN, The Female Auxiliaries who Assisted the SS in Running the Nazi Concentration Camp System
31.^ 出典によると、19人中16人の名前は、ファニ・バウル、レオポルディン・ビッタマン、エルネスティン・ブレナ、アンナ・ブック、ロザ・ドラシコ、マリア・エダ、ロザ・グラスマン、ベティ・ハネシャレガ、ルート・エルフリーデ・ヒルドナ、ヨゼファ・ケラー、ベルタ・キンプリンガー、リーゼロッテ・クラウダット、テレジア・コップ、ロザリー・ラインベック、テア・ミースルである。女性監視員はアウスブルク・ミッヒェルヴェルケ支所、ブルガウ支所、カウフェリンク支所、ムールドルフ支所、ミュンヘン・アクファ・カメラ・ヴェルケ支所にも勤務していた。1945年4月半ばにカウフェリンク、アウクスブルク、ミュンヘンにあった多くの女性用支所が閉鎖され、SSの女性隊員は、ダッハウに配置された。SS女性隊員は解放前に戦後の身の安全のために囚人に銃を引き渡したという。
32.^ マルセル・リュビー著「ナチ強制・絶滅収容所」99ページ
33.^ マルセル・リュビー著「ナチ強制・絶滅収容所」102ページ、103ページ

参考文献
・長谷川公昭 『ナチ強制収容所:その誕生から解放まで』 草思社、1996年。ISBN 978-4794207401。
・マルセル・リュビー 『ナチ強制・絶滅収容所:18施設内の生と死』 菅野賢治訳、筑摩書房、1998年。ISBN 978-4480857507。
・高橋三郎 『強制収容所における「生」』 世界思想社(新装版)、2000年。ISBN 978-4790708285。
・オイゲン・コーゴン(de) 『SS国家 ドイツ強制収容所のシステム』 林功三訳、ミネルヴァ書房、2001年。ISBN 4-623-03320-1。

出典:Wikipedia

欧州におけるナチスドイツの強制収容所。ダッハウ強制収容所はドイツ南部(ミュンヘン近郊)、ウィーンの西にいある。
出典・Source:Wikimedia Commonss
I, Dennis Nilsson, CC 表示 3.0, リンクによる
ダッハウ強制収容所の位置。 出典:Google Map ダッハウはドイツ・ミュンヘン市の北にあり、ミュンヘンから直通の鉄道があります。
所要時間は13分。 出典:Google Map
Modell des KZ Dachau (links: SS-Gelande, rechts: Haftlings-Gelande)    
ダッハウ強制収容所の模型(左:SSサイト、右:Haftlingsgelande)
出典・Source:Wikimedia Commons, CC BY-SA 2.5, Link
ダッハウ強制収容所の航空写真
出典・Source:Wikimedia Commons Gemeinfrei, Link
ドイツ・ダッハウ収容所のガス室
ドイツ、ミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所につくられたガス室。この収容所はナチの強制収容所としてドイツ国内に最初に開設されたものであり、主に政治犯を収容した。その後収容所の藻k津駅は強制労働へと拡大され、最終的にユダヤ人の収容、ドイツ人やオーストリア人の犯罪者にも使用され、後にはドイツが占領し侵略した国々の囚人も収容した。1945年4月27日にダッハウの復習要所であったランズベルグに米軍が近づいたとき、ナチの親衛隊は4000人の囚人を殺すように命令した。窓という窓、戸という戸はすべて締め切られた。 建物はその後、ガソリンを撒いて火を付けられた。収容所には32,000人が死亡したと記録されているが、記録に残らない人々は数千人にのぼった。
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ラシャーが彼の実験の大半を行ったダッハウの強制収容所の航空写真。
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スラエルの大統領ルーベン・リヴリンのドイツ訪問。 大統領とその妻はドイツの大統領と彼の妻、バイエルン政府の首長と彼の妻を伴ってダッハウの強制収容所を訪れた。水曜日、9月6日、2017。1933年、ダッハウ強制収容所に到着した囚人。訓示している人物は所長テオドール・アイケと言われる。
出典・Source:Wikimedia Commons By Fullsizer / GPO Israel, CC BY-SA 3.0, Link
プロパガンダ写真:11月のポグロムの後、ユダヤ人の列は、いわゆる保護拘禁のための
強制収容所に連れて行かれます, バーデン・バーデン, 1938年11月の典

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ハルトハイム城のNSトゥトゥンサンシュタット・ハートハイムのピックアップバス
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1936年5月8日、ダッハウ強制収容所を視察するハインリヒ・ヒムラー
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1933年、ダッハウ強制収容所に到着した囚人。訓示している人物は所長テオドール・アイケと言われる。  
出典・Source:Wikimedia Commons CC-BY-SA, CC BY-SA 3.0 de, Link
Dachau, concentration camp, old entry (panorama)     
ダッハウ強制収容所 旧入口(パノラマ)
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2017年11月、ヴィルフランシュ=シュル=ソーヌ(フランス、ローヌ郡)の墓地。
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By © Benoît Prieur / Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0, Link
ダッハウ強制収容所(外屏)
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ドイツ・バイエルン州ダッハウに置かれたダッハウ強制収容所
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1933年、オラニエンブルク強制収容所。看守の突撃隊隊員に
尋問される囚人のドイツ社民党の政治家達。
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1945年4月30日の収容者の衣服
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収容者のカードはSSによって内容がチェックされた
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右側の建物は牢獄で、囚人を虐待するための場所だった。
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ダッハウ強制収容所-火葬場
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ダッハウ強制収容所遺跡のバラックのひとつで撮影されたの寝室。
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ダッハウ強制収容所 - <地下壕>元キャンプ刑務所
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写真57817:ダッハウで開放された囚人達が死体を荷車に積み上げる様子
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写真57815:死体を積んだ列車、ダッハウにて
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ダッハウ強制収容所、チクロン-Bを殺菌室に噴霧する機械
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KL Dachau Block X gas chamber  
ダッハウ収容所 第十ブロックのガス室
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ダッハウ強制収容所のガス死体焼却炉(パノラマ)
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 最初の焼却棟のダブル・マッフル炉
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第十兵舎の第2火葬場の火葬炉
出典・Source:Wikimedia Commons Von Diego Delso, CC BY-SA 4.0, Link
燃焼炉の前でペンチと死体を持つ強制労働者(おそらく強制収容所の
解放後に撮影された写真
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アウシュヴィッツへの555人の囚人の運送リスト、ナチスの実行コードでは「病弱者の輸送」として表示されている
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Der Prugelbock, auf dem die Prugelstrafe vollzogen wurde
鞭打ち罰が実行された殴打用の台
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Kennzeichnung fur Haftlinge; Ausbildungsmaterial fur SS-Wachmannschaften囚人のための標識板; 親衛隊警備員の訓練用教材
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ダッハウ強制収容所で解放された囚人たちが米兵を歓迎する様子
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1945年11月15日、ダッハウ裁判の主要手続きにおける主犯たち
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収容所別ナチスドイツの強制収容所の生存者(写真は一例)
ダッハウ強制収容所
Dachau concentration camp survivors

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Luitpold und Albrecht von Bayern
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Duchess Marie Gabrielle in Bavaria, Princess Rupprecht of Bavaria, with her three sons, Luitpold, Albrecht, and Rudolf.
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German politician Theodor Duesterberg (1875-1950) as presidential candidate in 1932.
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Robert Feix zum 75. Geburtstag, Firmengrunder der Opekta
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Vlasto Kopa? (1913 ~ 2006)
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Polish Roman Catholic bishop Ignacy Je? watching a charity football (soccer) match. 出典・Source:Wikimedia Commons
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Max August Bock (29. Oktober 1881 in Altona; 15. Marz 1946 in Heidelberg), deutscher Politiker (USPD/KPD), Abgeordneter des Landtags der Republik Baden, 1946 Arbeitsminister von Wurttemberg-Baden  
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Princess Mafalda of Savoy posing with Philip of Hesse on their wedding day. Racconigi, 23rd September 1925
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Jakob Rosenfeld and Liu Shaoqi(left) and Chen Yi(right) taken at the New Fourth Army Headquarters in Yancheng of Jiangsu, China    出典・Source:Wikimedia Commons Public Domain, Link Ljuba Tadi? i Stevo ?igon, tv drama.Foto:Stevan Kragujevi? (po odobrenju k?erke Tanje Kragujevi?)
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