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第二次世界大戦 国別ナチス・ドイツの強制収容所 (概要、写真)
Nazis Germany built Consentoration and Extermination Camps by Coutry in WW2

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda共編
Feb 25, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁
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ベルゲン・ベルゼン強制収容所(Bergen-Belsen: ドイツ) 地図
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概要
 ベルゲン・ベルゼン強制収容所(独: KZ Bergen-Belsen)は、ドイツ・プロイセン州・ハノーファー県(現在のニーダーザクセン州)・ベルゲンのベルゼンに存在したナチス・ドイツの強制収容所。ツェレから北16キロ、ハノーファーから北東65キロの場所に存在した。『アンネの日記』を書いたユダヤ人少女アンネ・フランクが命を落とした収容所として知られる。公式には「滞留収容所と名づけられていた。

 第一次世界大戦時、ベルゲンにはドイツ軍の戦争捕虜収容所が置かれていた。第二次世界大戦中の1941年にドイツ軍は再びここに戦争捕虜収容所を建設した。ここにはソ連兵捕虜が収容された。慰霊碑によると5万人ものソ連兵がここで拷問されて死亡したのだという。

 親衛隊経済管理本部長官オズヴァルト・ポールの要請で1943年4月以降この収容所はSSが監督することとなり、強制収容所に改築された。その改築工事は1943年3月から7月にかけて行われた。

   
 アンネ・フランク最期の地 1944年11月にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所から「回復可能な病人」として3000人の女囚が移送されてきた。その中にアンネ・フランクとその姉マルゴット・フランク(マルゴー)がいた。

 *アンネ・フランク

 彼女たちは数ヶ月間をこの収容所で過ごしたが、1945年2月末から3月下旬頃にまずマルゴット、その数日後にアンネもチフスによって死亡した。 敷地内にはアンネとマルゴットの墓碑が建てられている。ただし両者共にこの収容所で死亡したことはわかっているものの膨大な遺体、遺骨の中で特定することは難しかったため、墓碑の下に遺体が埋葬されてはいない。

 出典:Wikipedia
解説

 第一次世界大戦時、ベルゲンにはドイツ軍の戦争捕虜収容所が置かれていた。第二次世界大戦中の1941年にドイツ軍は再びここに戦争捕虜収容所を建設した[2]。ここにはソ連兵捕虜が収容された。慰霊碑によると5万人ものソ連兵がここで拷問されて死亡したのだという。

 親衛隊経済管理本部長官オズヴァルト・ポールの要請で1943年4月以降この収容所はSSが監督することとなり、強制収容所に改築された。その改築工事は1943年3月から7月にかけて行われた。

「交換ユダヤ人」
 SSは当初ここを「交換ユダヤ人」を集める収容所として想定していた。「交換ユダヤ人」とは外国で拘束されているドイツ人と交換するためのユダヤ人であり、イギリスやアメリカや中立国の国籍を有しているとか、あるいは何らかの理由でそうした取引に使えそうなユダヤ人のことである。

 1943年7月に2500人ほどの「交換ユダヤ人」を乗せた最初の輸送列車が到着した。このユダヤ人たちはワルシャワ・クラクフ・レンベルクで拘束されたユダヤ人のうち南米諸国のパスポートを所有している者たちであった[4]。しかし彼らは350人ほどを除いてほとんどがアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られ、そこで殺害されている。

 ついで8月半ばにギリシャのテッサロニキから440人ほどのスペイン国籍ユダヤ人が移送されてきた。彼らのうち367人は1944年2月にスペインに引き渡されている[4]。その後もスペイン、ギリシャ、ポルトガル、オランダのユダヤ人を乗せた輸送列車が続々と到着した。「交換ユダヤ人」の数は1944年7月31日には4100人に達した。

 しかし「交換ユダヤ人」がナチスにとって役に立つことはあまりなかった。連合国との間に「交換ユダヤ人」を使った取引が成立したのは、パレスチナで拘束されているドイツ人を220人のユダヤ人と引き換えにした時、アメリカで拘束されているドイツ人を800人のユダヤ人と引き換えにした時、またスイス政府に対して1700人のユダヤ人を一人1000ドルで売ったときなどに限られている。

「休養収容所」
 1944年3月27日以降、他の強制収容所の囚人のうち病人や高齢の者が「休養」としてここに送られてくるようになった。そのためベルゲン・ベルゼンは「休養収容所」と呼ばれるようになるが、だからといって特別な医療施設が設けられていたわけではなく、その実態は他の強制収容所とほとんど変わらなかった[7]。医薬品もそれほど多くなく、また収容所内の衛生状態が劣悪であったため、伝染病が流行した。1944年夏には200人ほどの病人囚人に対してフェノール注射を打って殺害している。

囚人の大量増加と大量死
 ベルゲン・ベルゼンは「休養収容所」などと呼ばれていながら、おびただしい数の死者を出した。死因として最も多かったのは与えられる食料の少なさによる衰弱死であった[9]。また病死も非常に多かった。1944年3月から10月ぐらいにかけて収容所では結核が流行していた。ついで10月から1945年2月ぐらいにかけて赤痢が流行した。その後収容所が解放されるまでの間チフスが流行していた[9]。最終的にはチフスに罹患していない囚人の方が少数派となっていたという[10]。他にも急性肺疾患、疥癬、丹毒、ジフテリア、ポリオ、脳炎、外科疾患、静脈炎などが流行していた。

 拘留者が急増したこともその原因である。1944年12月2日の時点でベルゲン=ベルゼンの囚人数は1万5227人だったのだが、1945年3月には5万人にも達している。これは戦争末期の他の強制収容所の撤収にともなう大量移送が原因であった。しかし本来ベルゲン=ベルゼンにこんな大量の囚人を置いておける余裕は無かった。

 限界を超えた人数が収容されたために管理がほとんど行われず、1944年以降は戦争末期のために食糧事情がまったく改善されないため、収容の実態は囚人を飢餓状態に置いて餓死や病死を誘う事しかしていない。

 1945年4月1日には死体焼却炉が止められた。毎日量産される死体に対してその処理能力をとうに超えていたからである。代わりに穴が次々と掘られ、まだ健康な囚人たちが収容所内に転がる死体を集めてその穴まで運んでいった。

アンネ・フランク最期の地
 1944年11月にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所から「回復可能な病人」として3000人の女囚が移送されてきた。その中にアンネ・フランクとその姉マルゴット・フランク(マルゴー)がいた。

 彼女たちは数ヶ月間をこの収容所で過ごしたが、1945年2月末から3月下旬頃にまずマルゴット、その数日後にアンネもチフスによって死亡した。 敷地内にはアンネとマルゴットの墓碑が建てられている。ただし両者共にこの収容所で死亡したことはわかっているものの膨大な遺体、遺骨の中で特定することは難しかったため、墓碑の下に遺体が埋葬されてはいない。


 英軍将校ピーター・クームズは収容所の状況を見て「誰もがこの場所に来て、彼らの顔を、歩き方を、弱りきった動きを見るべきだと思う。一日に300人ものユダヤ人が死んでいくが、彼らを救う手立ては何もない。もう手遅れだったのだ。小屋の側にはたくさんの死体が転がっている。囚人たちはせめて太陽の下で死のうと小屋から最後の力を振り絞って出てくる。私は最後の弱々しい「旅」をする彼らの姿を見ていることしかできなかった。」と書き送った。

 大多数の囚人はチフスを罹患していたため、解放後も隔離のため囚人たちは5月1日まで収容所に留め置かれた[20]。英軍は至急ベルゲンに看護組織を設置したものの、チフスの猛威は収まらず、英軍が収容所を解放した4月15日から6月20日の間にも1万5000人もの囚人が死亡している。5月1日から撤去が始まり、生存者たちは3キロ先の戦車部隊学校へ移された。

 5月20日に英軍は伝染病拡散を防ぐため、火炎放射器で収容所の建物を全て焼き払った。穴に埋められた囚人たちの遺体もブルドーザーで掘り返された。

戦後
 1945年9月にリューネブルクでベルゲン=ベルゼン強制収容所の運営に関与した者48名の裁判(通称ベルゼン裁判)が行われ、所長ヨーゼフ・クラーマー親衛隊大尉以下11名が処刑された。

 2007年10月28日、収容所跡地に収容者の遺品等を展示する記念館が開館した。

 収容所には複数の収容区があった。まず一般囚人用の収容区があった。その隣には二つのバラックからなる「中立収容区」があった[24]。ここは中立国の国籍を持つユダヤ人専用の収容区だった。仕立作業用バラックのある区域を挟んで、その隣には1944年7月から設置されたハンガリー・ユダヤ人1683人用の収容区があった。ここのユダヤ人たちが一番優遇されており、彼らは労働を課されなかった。

 しかも1944年12月6日にはスイスに引き渡されている[6]。その隣には「交換ユダヤ人」の収容区があった。ここはダビデの星にちなんで「星の収容区」と呼ばれた。「交換ユダヤ人」もはじめのうちは比較的優遇されていたのだが、労働ははじめから課されていた。また他の囚人と同様にしだいに食料を減らされ、「交換ユダヤ人」の死亡率は高くなっていった。

 更にその隣にはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所から移送されてきた者たちの収容区が存在していた[24]。ここが一番大きな収容区だった[24]。のちにこの収容区と「交換ユダヤ人」の収容区を厳重に隔離するために電流の流れた有刺鉄線が設置された[25]。囚人数が急増した後には女囚の一時収容先としてテント収容区も設けられるようになった。

 なおベルゲン=ベルゼンにガス室はなかった。

死亡者数
 SSが解放直前に関係書類などを焼却処分したため、ベルゲン=ベルゼンの正式な犠牲者数は現在でも不明である。エーベルハルト・コルベ(de)は解放直前の数カ月だけで5万人に達すると見積もっている。P.G.ファッシーナ(P.G.Fassina)は収容所開設から1944年12月31日までの間に12万469人が死亡、1945年分も含めると17万人以上が死亡したとしている。

関連人物
所長
アドルフ・ハース(de)親衛隊大尉(1943年4月-1944年12月2日)

ヨーゼフ・クラーマー親衛隊大尉(1944年12月2日-1945年4月15日)
看守

イルマ・グレーゼ
フランツ・ヘスラー - 副所長。
アンスカー・ピヒン - 収容所付料理長。
ヘルタ・ボーテ

医師
フリッツ・クライン親衛隊大尉

囚人
・アンネ・フランク
・マルゴット・フランク  *アンネ・フランク(詳細)
・ハンネリ・ホースラル
・エレーヌ・ベール
・アンドリュー・ラズロ

脚注
1.^ a b 高橋(2000)、p.74
2.^ a b リュビー(1998)、p.53
3.^ a b 長谷川(1996)、p.215
4.^ a b c d e リュビー(1998)、p.54
5.^ 長谷川(1996)、p.215-216
6.^ a b c d リュビー(1998)、p.56
7.^ a b c d リュビー(1998)、p.57
8.^ 長谷川(1996)、p.216
9.^ a b c リュビー(1998)、p.58
10.^ リー(2002)、p.389
11.^ 長谷川(1996)、p.217
12.^ リー(2002)、p.387
13.^ ミュラー(1999)、p.353
14.^ 『アンネの日記 研究版』(1994)、p.57-64
15.^ a b c リュビー(1998)、p.62
16.^ リー(2002)、p.393
17.^ a b ミュラー(1999)、p.365
18.^ リー(2002)、p.394
19.^ a b c ベーレンバウム(1996)、p.398
20.^ a b c d リュビー(1998)、p.63
21.^ ベーレンバウム(1996)、p.401
22.^ リュビー(1998)、p.64
23.^ “ベルゲン・ベルゼン強制収容所跡地に記念館が開館”. AFPBB News (2007年10月31日). 2009年3月30日閲覧。
24.^ a b c d リュビー(1998)、p.55
25.^ ミュラー(1999)、p.356
26.^ ミュラー(1999)、p.354
27.^ リュビー(1998)、p.59

参考文献
・高橋三郎著 『強制収容所における「生」』 世界思想社(新装版)、2000年。ISBN 978-4790708285。
・長谷川公昭著 『ナチ強制収容所 その誕生から解放まで』 草思社、1996年。ISBN 978-4794207401。
・マイケル・ベーレンバウム著 『ホロコースト全史』 芝健介訳、創元社、1996年。ISBN 978-4422300320。
・メリッサ・ミュラー著 『アンネの伝記』 畔上司訳、文藝春秋、1999年。ISBN 978-4163549705。
・キャロル・アン・リー著 『アンネ・フランクの生涯』 深町眞理子訳、DHC、2002年。ISBN 978-4887241923。
・マルセル・リュビー著 『ナチ強制・絶滅収容所 18施設内の生と死』 菅野賢治訳、筑摩書房、1998年。ISBN 978-4480857507。
・『アンネの日記―研究版』 オランダ国立戦時資料研究所編、深町真理子訳、文藝春秋、1998年。ISBN 978-4163495903。

出典:Wikipedia

欧州におけるナチスドイツの強制収容所。ベルゲン・ベルゼン強制収容所はベルリンの西、オランダの東にある。
出典・Source:Wikimedia Commonss
I, Dennis Nilsson, CC 表示 3.0, リンクによる
ベルゲン・ベルゼン強制収容所の位置  出典:Google Map  Lageplan von KZ-Gedenkstatte Bergen-Belsen, russ. und dt.
Friedhofen und Siebensteinhausern   
ベルゲン・ベルゼン収容所記念施設の地図、ロシア人と
ドイツ人の墓地とSiebensteinhausern
出典・Source:Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0 de, Link
訪問者の情報:「収容所全体の概要」、ブロンズプラーク、150x75cm、所在地:ベルゲンベルゼン記念碑
出典・Source:Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0, Link
  出典・Source:Wikimedia Commons
連合軍占領下のドイツ・ミンデンのドイツ人民間人は、ベルゼン強制収容所で行われた残虐行為を扱う映画を見るために列を並を作る。 映画を見る人々は、地元の連合軍当局の命令の下にあった。
1945年4月、ベルゼンの人間洗濯場の画像。木製のテーブルが並んでいる。手前の3つのテーブルの上には、やせ細った人物が座ったり横になったりしている。それぞれの人物は白い制服を着た男性または女性に洗われている。各テーブルの足元には金属製のバケツが置かれており、女性が両手にバケツを持って部屋から出てくるのが見える。
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ブルドーザーで死体を片付ける英軍兵士
出典・Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる
現在のベルゲン・ベルゼン強制収容所の入り口
出典・Source:Wikimedia Commons
CC 表示-継承 3.0, リンク
疲れきっていたたベルゲン・ベルセンの囚人たちは、兵舎から毛布で死者を運び、
屋外に運んで埋葬した。
出典・Source:Wikimedia Commons
The bodies of the dead lie awaiting burial in a mass grave at the camp.
死者の遺体は収容所の大墓穴に投げ込まれ埋葬を待っている。
出典・Source:Wikimedia Commons Public Domain, Link
衰弱しねじれて壊れた死体が、3つあった死体を処理する穴の1つに放り込まれた。1945年4月15日のベルゼン解放時には、英国軍は1万人以上の死者を目の当たりにし、彼らは直ちに埋葬し、突然の発疹チフスや他の病気の拡散を阻止する必要があった。元親衛隊の警備員は、死体を埋葬し、犠牲になった囚人に対する責任を負うための作業部隊に編成され。ドイツ第3帝国の多数のナチス強制収容所の1つであるベルセンは、ユダヤ人、他の国籍、その他の類型のために人々が虐殺される場所の一つとして用いられた。写真家であり、VX93880中尉(Lt)オーストラリアの公式戦争芸術家アラン・ムーアが、ベルゼンの解放の際に同盟国と一緒にいた。ベルゼンでは、ムーア中尉は、主にユダヤ人の受刑者に対して行われたナチスの残虐行為の記録として、いくつかの絵画、スケッチ、絵を描いた。私用のカメラは、キャンプの連合軍占領で目撃された出来事を記録するために使用された。これらの白黒画像はまた、オーストラリア人のホロコースト体験の証人でもある。
Lieutenant (Lt) Alan Moore - <a rel="nofollow" class="external free" href="http://cas.awm.gov.au/item/P03007.015">http://cas.awm.gov.au/item/
P03007.015</a> কর্তৃক, পাবলিক ডোমেইন, সংযোগ
収容所の医師であるフリッツ・クライン博士は、ベルゼンの大墓穴に立っている。ハンガリーで生まれたクラインはナチス党首の初期メンバーであり、1943年に親衛隊に加わった。1943年12月から1年間、アウシュヴィッツ・ビルケナウで働き、ガス室に送る囚人の選別作業を手伝った。 Neungammeでの短期間の後、クラインは1945年1月にベルゼンにに移住した。その後、クラインは2度裁判で戦争犯罪の有罪判決を受け、1945年12月に処刑された。
出典・Source:Wikimedia Commons
By Oakes, H (Sgt)No 5 Army Film &amp; Photographic Unit -
<a rel="nofollow" class="external text" href="http://www.iwmcollections.org.uk/">
IWMCollections</a> IWM Photo No.: BU 4260
(published closer crop of same photo), Public Domain, Link
1945年4月にキャンプが解放された後、英国の兵士が撮影したベルゲン・ベルセンの強制収容所の3つの大規模な墓穴の様子。キャンプのドイツの医師であるフリッツ・クライン博士は、死体の中の手前に立っているのが見える。背後の小火器(小型武器)をもった兵士から射程距離にいることが見て取れる。
出典・Source:Wikimedia Commons
解放後にイギリス軍が撮影した餓死した囚人の写真。
出典・Source:Wikimedia Commons
No 5 Army Film &amp; Photographic Unit, Wilson, M H (Lt) -
<a rel="nofollow" class="external free" , パブリック・ドメイン, リンクによる
英軍に逮捕される所長クラーマー  
出典・Source:Wikimedia Commons
パブリック・ドメイン, リンクによる
看守らの裁判 前列中央・9番のワッペンをつけているのがイルマ・グレーゼ   
出典・Source:Wikimedia Commons Gemeinfrei, Link