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中山道、信州 宿場探訪

諏諏神社とは

  青山貞一 Teiichi Aoyama   池田こみち Komichi Ikeda
8 October, 2015
独立系メディア
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信州 宿場探訪 (下諏訪宿・諏訪大社編)
1)下諏訪探訪 2)下諏訪の概要 3)下諏訪宿本陣(岩波家) 4)下諏訪宿と温泉
5)下諏訪宿本陣(かめや) 6)歴史民俗資料館概要 7)資料館 宿場と生活1 8)資料館 宿場の浮世絵
9)資料館 宿場と生活2  10)資料館 皇女和宮行列 11)昼食・山猫亭
12)諏訪大社とは 13)諏訪大社下社秋宮 14)下社秋宮 御柱(祭)  15)諏訪大社上社本宮1
16)諏訪大社上社本宮2 17)上社本宮 御柱(祭)  18)諏訪大社上社前宮 19)上社前宮 御柱(祭)
20)諏訪大社下社春宮 21)下社春宮 御柱(祭) 22)旧和田峠

諏訪神社とは

 山猫亭で昼食を頂いた後、四つあります諏訪大社の宮を次々に参拝しました。

 諏訪大社には下に示すように上社、下社それぞれに二宮つづ、合計4つの神宮があります。最初に到着した下諏訪には秋宮、春宮がありますが、下諏訪宿のすぐ隣にある秋宮を最初に参拝、視察しました。

上社 (かみしゃ)
  本宮 (ほんみや)(長野県諏訪市中洲宮山)      2番目訪問
 前宮 (まえみや)(長野県茅野市宮川)         3番目訪問

下社 (しもしゃ)

 秋宮 (あきみや)(長野県諏訪郡下諏訪町武居)   1番目訪問
 春宮 (はるみや)(長野県諏訪郡下諏訪町下ノ原)   4番目訪問

 なお、上社が川の上流、下社が下流に位置しています。

 上社と下社は車で25分ほどの距離にあります。下のグーグルマップは、下社の秋宮から上社の本宮へのルートを示しています。距離は約11km、時間は渋滞がなければ20〜25分です。


出典:グーグルマップ


諏訪大社とは

 諏訪大社は、長野県の諏訪湖周辺4ヶ所にある神社です。式内社(名神大社)、信濃国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社てす。神紋は「梶の葉」です。

 全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社であもあります。旧称は諏訪神社。通称として「お諏訪さま」・「諏大明神」等とも呼ばれています。

 諏訪神社は、諏訪湖の湖の左下(南東)に上社、右上(北)に下社が鎮座します。長野県中央の諏訪湖を挟んで、以下の二社四宮の境内が鎮座しています。

 上社 (かみしゃ)
  本宮 (ほんみや)(長野県諏訪市中洲宮山)
  前宮 (まえみや)(長野県茅野市宮川)

 下社 (しもしゃ)
  秋宮 (あきみや)(長野県諏訪郡下諏訪町武居)
  春宮 (はるみや)(長野県諏訪郡下諏訪町下ノ原)

 上社は諏訪湖南岸、下社は北岸に位置し遠く離れているため、実質的には別の神社となっています。なお「上社・下社」とあるが社格に序列はありません。

 創建の年代は不明ですが、日本最古の神社の1つといわれるほど古くから存在しています。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬されました。また中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られています。

 社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木柱が立っているほか、社殿の配置にも独特の形を備えています。社殿は多数が重要文化財に指定されているほか、6年に一度(7年目に一度)催される御柱祭で知られています。

 ※ 下はおそらく江戸時代の諏訪大社下社の春宮(左)と秋宮(右)です。


下諏訪宿本陣岩波家所蔵の諏訪神社下社絵図
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16


グーグルアースで見た諏訪大社下社の春宮と秋宮

祭神

 当社全体で祀る主祭神は以下の2柱(各宮の祭神については各項参照)です。両神とも上社・下社で祀られています。

 建御名方神 (たけみなかたのかみ)

 上社本宮祭神。『古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主命の御子神として登場する。母は沼河比売(奴奈川姫)とされる。

 『先代旧事本紀』には建御名方神が信濃国諏方郡の諏方神社に鎮座すると明示されている[2]。
八坂刀売神 (やさかとめのかみ)

 なお、本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるという説もあります。

 現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われる事が多く、区別されることは非常に稀である[要出典]。神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされています。

 八幡神や住吉三神など他の信仰にも見られるように個々の祭神が意識される事は少なく、まとめて「諏訪大明神」・「諏訪神」として扱われる事が多いようです。

出典・参考:Wikiepdia

 諏訪大社と言えば、上社、下社を問わず全国的に有名なのは、御柱祭です。

 まずは諏訪大社の御柱祭について紹介します。

◆御柱祭

建御柱
 御柱(おんばしら、みはしら)または御柱祭(-さい、-まつり)は、長野県諏訪地方で行われる祭であり、諏訪大社における最大の行事です。

 正式には「式年造営御柱大祭」といい、七年に一度、寅と申の年に行なわれる式年祭です。御柱祭は長野県指定無形民俗文化財そして日本三大奇祭のひとつとされています。

 大社での開催年を中心に、全国の諏訪神社や関連神社(通称:小宮)でも同様の祭(小宮祭)が実施されています。

歴史
 起源は、平安時代以前とされています。

 諏訪大社は五穀豊穣、狩猟・風・水・農耕の神として古くから信仰されておりそれらを祈願するものであったと推測されます。江戸時代以降は、宝殿の造営と御柱の曳き建てが行われています。

神話伝説
 『古事記』に記述があるもので出雲のオオクニヌシが高天原から降ったニニギに国譲りを承諾したとき、ただ一柱反対したタケミナカタは武神タケミカヅチに追われることとなったとあります。結局諏訪湖畔まで逃げてきて降伏し、その際この地から出ないことを誓って許されることになります。

 その時、結界として神社の四隅を仕切った、という話が残っています。地鎮祭の神話的表現とも考えられています。


諏訪大社下社の木落とし  出典:Wikipedia

 実際には記紀神話以前からの諏訪地方の信仰との関係が深いといわれていおり、神長官守矢氏の伝えるところによると、この御柱はミシャグジの依り代であるとされています。

担当地区
 御柱の担当地区に関しては古来の記録によると鎌倉時代などでは信濃国全体からの奉仕があったようですが、江戸時代には諏訪藩の支配のもとに領民だけで曳行が行われる現在に近い形が出来上がっていたと推定されています。

 明治12年に諏訪郡が発足すると当時の村別に上社、下社の担当地区割の枠組みが定められた。その後御柱担当の抽籤制度の導入を経て、明治35年の御柱祭協議に於いて上社、下社担当地区の再編が行われ現在に至っている。この協議の際に下社の御柱抽籤は廃止されている。 第二次大戦後の昭和の大合併により同じ枠組みでも違う市町村となった地区もあるが地区割はそのまま維持されている。



上社の木落とし  出典:Wikipedia


上社の川越し  出典:Wikipedia

 今回、下諏訪に来た目的は中山道の宿場町調査ですが、下諏訪宿だけでなく、諏訪大社もすべて訪問することになりました。


つづく