エントランスへはここをクリック   

中山道、信州 宿場探訪

下諏訪歴史民俗資料館

皇女和宮下向行列資料

青山貞一 Teiichi Aoyama   池田こみち Komichi Ikeda
8 October, 2015
独立系メディア
E-wave Tokyo
無断転載禁
信州 宿場探訪 (下諏訪宿・諏訪大社編)
1)下諏訪探訪 2)下諏訪の概要 3)下諏訪宿本陣(岩波家) 4)下諏訪宿と温泉
5)下諏訪宿本陣(かめや) 6)歴史民俗資料館概要 7)資料館 宿場と生活1 8)資料館 宿場の浮世絵
9)資料館 宿場と生活2  10)資料館 皇女和宮行列 11)昼食・山猫亭
12)諏訪大社とは 13)諏訪大社下社秋宮 14)下社秋宮 御柱(祭)  15)諏訪大社上社本宮1
16)諏訪大社上社本宮2 17)上社本宮 御柱(祭)  18)諏訪大社上社前宮 19)上社前宮 御柱(祭)
20)諏訪大社下社春宮 21)下社春宮 御柱(祭) 22)旧和田峠

◆皇女和宮宿泊関連


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16


 下は下諏訪町立 歴史民俗資料館に展示されている皇女和宮が徳川家茂との婚姻のため京都から江戸に下向する際の関連絵図、資料です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16

 以下は皇女和宮の京都から江戸への下向行列の絵図です。京都からのお供が1万人、江戸からのお迎えが1万5千人、今日から江戸間での通し忍則4千人と言われる大行列だったそうです。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-8-16

 以下は皇女和宮が徳川将軍家に下降するまでの経緯です。以下はWikipediaの原文のままです。

皇女和宮が徳川将軍家に下降するまでの経緯

 万延元年(1860年)4月12日、幕命を受けた酒井所司代は九条関白へ和宮の将軍家降嫁を奏請しまし。孝明天皇は議奏・武家伝奏に諮った上で、和宮には既に熾仁親王との婚約が成立している。先帝の娘であり異腹の妹である和宮の進退は、天皇の意志のままにはできない。年少の和宮が異人のいる関東へ行くのを嫌がっている。ことを理由に内願を却下した。

 5月11日、酒井忠義は九条尚忠へ宛てて再考を願い出ている。すなわち和宮と熾仁親王はまだ結納を済ませていないため内約であり、破約しても天皇の信用を損なうものではない。皇妹の縁組は先例もあり、遠い関東へ移るなら尚更のこと大事に扱う。朝廷から人数を送り、また関東は武士が参勤する地でもあれば異人より警護もできる。とした上で、孝明天皇が国内の安定を願っている点を押さえて一昨年より幕府と朝廷の齟齬をきたした点について、我々は理解している。

 しかし世間には明らかとなってはいない。そのうえで断ったのでは幕府閣僚が孝明天皇の思し召しについて、心配になってしまうのも仕方ない。京都と関東で書信の往復が繰り返されると立たない角でも端々に立ってしまう。それでは今までなしてきた公武一和にも影響がでかねないのは私としては心配です。と公武合体に沿った決断を求めた。

 幕府は、5月26日に重ねて和宮の降嫁を奏請した。同時に生母・観行院と伯父の橋本実麗、さらに両名にとっては叔母に当たる元大奥上臈年寄の勝光院を通じての説得工作を行った。橋本実麗は説得に折れ、何事も天皇の思召しに従うと言上した。孝明天皇は、侍従・岩倉具視に意見を求めた。

 岩倉は「幕府に通商条約の引き戻し(破約攘夷)を確約させ、幕府がこれを承知したら、御国の為と和宮を説得し、納得させた上で降嫁を勅許するべき」と回答した。

 6月12日、天皇は「攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、和宮の降嫁を認める」旨の勅書を出し、幕府が7月18日に「10ヵ年以内の鎖国体制への復帰」を奉答したことで天皇は和宮の降嫁を決断した。

 8月7日、和宮は宮中へ上がり、縁組を硬く辞退した。既に幕府に攘夷を約させた上で降嫁が成らなければ、朝廷の信義が疑われると苦慮した天皇は、久我建通の言を容れ、和宮があくまで辞退するなら、前年に生まれた皇女・寿万宮を代わりに降嫁させる。幕府がこれを承知しなければ、自分は責任をとって譲位し、和宮も林丘寺に入れて尼とする。と決意した。

 また、同13日の九条尚忠に宛てた書翰には、「(降嫁に反対する)橋本実麗・観行院の両名を罰するよう幕府に依頼し、和宮も降嫁の話を断って有栖川宮と縁組しようとしても自分は認めないから、尼になるしか道はない」という旨の文言がある[2]。天皇の譲位の決意、親族への圧力を示唆された和宮はここに降嫁を承諾するに至る。

 8月15日、観行院から和宮が降嫁を内諾する旨が奏上される。

○降嫁にあたって和宮は、父・仁孝天皇の十七回忌の後に関東に下向し、以後も回忌ごとに上洛させること。
○大奥に入っても、万事は御所の流儀を守ること。
○御所の女官をお側付きとすること。
○御用の際には伯父・橋本実麗を下向させること。
○御用の際には上臈か御年寄を上洛させること。


の5か条を条件とした。また孝明天皇は別に、

○和宮の提示した条件を遵守すること。
○老中が交代しても攘夷の誓約は変わらないこと。
○和宮の降嫁は公武の熟慮の上で決定されたことを天下に周知させること。
○外国との貿易によって国民生活が窮乏しないよう対策を講じること。
○降嫁前に和宮の内親王宣下を行うこと。

などの条件を幕府に提示している。だが、早期の婚儀を望む幕府は年内の降嫁を要請した。和宮はこれを拒むが、10月5日に孝明天皇の説得を受けて明春の下向を承諾する。

出典:Wikipediaの


 下は資料館に掲載されていた皇女和宮江戸下降行列の絵図です。


皇女和宮江戸下降行列の絵図
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2015-8-16


 下は池田が皇女和宮下向の絵図を見ているところです。下に行列の絵図があります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16

 下も行列ですが、かなり元の絵図の質が悪く色もくすんでいましたが、デジタル処理で可能な範囲で修正しています。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16

 以下には、「仁孝天皇皇女、御功名和宮 御歳16  親子内親王様」などとあります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16

 下は皇女和宮がお泊まりした下諏訪宿本陣(現在、かめや)の写真です。

 これについては本特集の下諏訪宿かめやを参照頂ください。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16

 以下は皇女和宮の宝塔(墓)が祀られている東京芝、増上寺における像と墓です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-8-16

◆参考:増上寺の徳川家茂と正室皇女和宮の宝塔視察時の写真

 以下は2014年11月に青山、池田、山形で増上寺の徳川将軍家墓を訪問した際に撮影した徳川家茂と正室皇女和宮の宝塔です。

14代家茂
家茂は11代家斉の子、斉順の長子として弘化3年に生まれる。安政5年、将軍家の養子となり14代将軍となった。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄がはじまったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は第1次長州征伐を指揮し、第2次長州征伐中、大阪城で病没した。慶長2年(1866)、享年21歳であった。

14代家茂(昭徳院):石塔、入口より向かって左・家宣夫妻墓の手前。家茂夫人和宮(静寛院):青銅製、家茂墓の手前。


徳川家茂公 霊廟
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-15


皇女和宮 霊廟  徳川家茂正室
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400 2014-11-15



つづく