◆ジョグジャカルタの概要
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南はインド洋に面し、陸は中部ジャワ州に囲まれています。活火山のメラピ山の保水能力と肥沃な土壌により、ジャワ島でも屈指の肥沃な地域です。
ジョグジャカルタ特別州は第1級地方自治体であり、他の州と同等な特別行政地域となっています。ジョグジャ市のほか、農村部のスレマン県、 バントゥル県、 クロンプロゴ県、 グヌンキドゥル県に分かれる。ジョグジャカルタの都市部の人口は約60万人となっています。
ジョグジャカルタ市にはハイヤットホテルやシェラトンホテルなど外国資本の有名ホテルが立ち並ぶような観光都市と、ガジャマダ大学を中心とし多くの私立大学を有する教育学研都市がジョグジャカルタの表の顔であります。
しかし、ジョグジャカルタ市ではインドネシア中最低の最低労働賃金が設定されており、アジア屈指の人口密度と貧困率の高さから、他島や都市部への移住者や出稼ぎまたは海外への出稼ぎ者が非常に多くなっています。
保守派イスラムによる2008年のポルノ禁止法にスルタン家が反対活動の前面に立ち、州民共々絶対的なアラブ至上主義イスラムを文化破壊としてとらえるなど、住民は独自の文化と歴史を尊敬する穏健なイスラム教徒が大多数を占めています。 |
歴史
中部ジャワのジョグジャカルタ地域は古来、マタラムと呼ばれ、8世紀にヒンズー系の古マタラム王国が勃興しましたが、10世紀に東部ジャワのプランタス川流域に東遷しました。
16世紀後半、イスラム系のマタラム王国が再び勃興し強勢となりましたが、バタヴィアに植民したオランダ東インド会社により次第に制圧されて行きました。
18世紀には三次にわたるジャワ継承戦争が続き、オランダの保護下に入ったマタラム王国は1755年に分割されてジョグジャカルタ王国とスラカルタ王国が成立しました。後にパク・アラム家がマンクヌゴロの領有を認められた。
初代ジョグジャカルタ国王はハメンクブウォノ1世である。20万人の死者を出したジャワ戦争で中部ジャワは荒廃し、土着支配層に依拠しこれに余禄を与える強制栽培制度が導入されて王国はオランダの下僕となり、オランダの植民地時代を通じて植民地支配を支える土着支配官吏として土侯国として存続した。
イスラム近代改革組織ムハマディアの発祥地区であり現在でもその活動組織の中心である。オランダ植民地公教育に抵抗する民族教育を目的にし多くの民族主義者を生み出したタマンシスワ発祥の地でもあります。
インドネシア独立戦争の時期、ジョグジャカルタはオランダの支配に抵抗するインドネシア共和国の臨時首都となっています。
インドネシア建国後、他の土侯国はオランダに協力的でありオランダ政庁の教育機関を卒業しその官吏となるなどしたために廃止されましたが、ジョグジャカルタのスルタン・ハメンクブウォノ9世は国際情勢を読んで独立に協力したため、特別行政地域としてスルタン領の存続を認められました。
土侯国の存続は共和制または近代民主主義の観点からは反することでありますが、誕生したばかりで非常に不安定で多くの問題を抱えていた当時のインドネシアにとって、国際社会に対して早急な内政安定の面から封建制を受け入れなければならなかったという歴史上の側面もあったようです。
ジョグジャカルタ出身のスハルトとはスハルトが軍人時代より盟友であり、ハメンクブウォノ9世はゴルカル党の中心人物としてスハルト政権を支え、副大統領や財務相、国防相も務めていました。
主な出典:Wikipedia
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