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「731部隊」今までの記録(6)

・証拠隠滅とマルタの処理

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
2017年9月30日公開
独立系メディア 
E-Wave Tokyo 
無断転載禁

1) ・731部隊の概要 ・石井四郎 ・731部隊の沿革 ・防疫活動 
2)・生物兵器開発と実戦的使用 ・元部員尋問 ・金子順一論文
3)・ペスト菌攻撃事例(寧波, 満州新京,常徳他) ・被害者の証言
4)・人体実験  ・実験材料マルタ ・細菌学的実験 ・生理学的実験
5)・細菌爆弾の効果測定 ・性病実験と女性マルタ
6)・証拠隠滅とマルタの処理
7)・戦後  ・朝鮮戦争における細菌戦
8)・ハバロフスク裁判   ・日本国への賠償請求
9)・旧陸軍軍医学校跡地で発見された人骨との関連
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証拠隠滅とマルタの処理

 1945年8月9日のソ連軍の満州への侵攻直後、731部隊の施設建物が大量の爆薬によって破壊された。常石敬一は、この破壊は証拠隠滅であったとする[61]。秦郁彦は、終戦時には、生存していた40〜50人のマルタが証拠隠滅のために殺害されたと推測している[62]。

常石 敬一(つねいし けいいち、1943年10月26日 - )
 常石 敬一は、日本の科学史・科学論研究者。神奈川大学経営学部非常勤講師・名誉教授。主な専門は科学史、科学社会学、STS(科学技術と社会)、生物化学兵器軍縮。
東京都出身。1966年に東京都立大学理学部物理学科を卒業、東京大学大学院工学研究科を修了後、1973年に長崎大学講師となり同校教養部教授を経て、1989年より神奈川大学教授。2004年定年、名誉教授。731部隊や旧日本軍の化学兵器製造について研究を行ってきたことから、NHKをはじめとするメディアにおいては「毒ガスの専門家」とされて登場することが多い。ただし、実際の研究内容は戦史的・科学史的な分野が中心である。 著書の内容は取材などによるものが多く、戦争責任に関する講演会に積極的に参加する事でも知られている。
出典:Wikipedia

  元隊員の越定男によれば、これらのマルタは青酸ガスを噴出させて殺害するか、銃で脅しながらマルタ2人を互いに向かい合わせ、首にロープを巻き、その中央に棒を差し込んで、2人にねじらせることで殺害したという[48]。作家の森村誠一は、マルタの毒ガスによる集団殺戮を目撃したとする以下の元隊員の証言を聞き出している[63]。

 「マルタの中の数人は毒ガスで死にきれず、鋼鉄製のドアをたたき、苦悶のうなり声をあげのどをかきむしって苦しんでいた。特別班員がゆっくりと近づき苦悶するマルタを胸に向けてモーゼル拳銃の引き金を引いた。殺したマルタの足を引っ張って、7棟横にあった大きな穴の中に、次々と死体を放り込み、ガソリンと重油をかけ、火をつけた(中略)

 11日の午後だったと記憶している。731の焼却炉は、生首の標本や細菌培養の寒天、膨大な書類や器具を焼却するためふさがっていた(中略)

 マルタの死体はなかなか燃えなかった。しかし撤収は一刻を争う。浮き足立った特別班員らは死体焼却作業の半ばで土を掛け、逃亡してしまった(中略)そのため土の中から手足が突き出ており、とても証拠隠滅の役を果たしていない。部隊幹部がこの状況を見て『もう一度死体を掘り出し、完全に焼いてしまえ』と命令した(中略)

 目をむいて硬直しているマルタの死体(中略)掘り出す役目に当たった隊員らは、吐き気をこらえながら作業を続けた。」

  また、撤退時の証拠隠滅とマルタの処理に関わったという元隊員の篠原鶴男は、ソ連軍の侵攻翌日の1945年8月10日にマルタの処理に関わった時のことを次のように証言している[30]。

 明けて10日、これまで入れなかったロ号棟の監獄の部屋に、私を含め3人で入りました。マルタが3人ほど転がっていましたが、ほとんどがロ号棟の外に運ばれていて、穴を掘って薪の上にマルタを、そのまた上に薪を載せてマルタを、というように積み上げ、火をつけるばかりになっていました。(中略)

 私たちは、12号まである監獄の爆破作業にとりかかりました。12号室の壁に爆薬をしかけるために入ると、白っぽい壁に血書を見ました。新しい血で「日本帝国主義打倒!必勝?総統万歳!」と書いてありました。字を書いた人の顔を一目見たいと、手で血で汚れているマルタを捜しましたが、薪と一緒に積み上げられてわかりませんでした。

 731部隊が証拠隠滅を急いだのはマルタだけではなかった。1棟2階の「陳列室」をはじめ第一部各課研究班には、ホルマリン容器に入った生首、腕、胴体、脚部、各種内臓の標本が、伝染病の種類や病状ごとに計1000個ほど保存されており、これらは夜陰に乗じて松花江に投げ捨てられたという。

  さらに、増産を重ねてきた各種細菌のストック、夥しい数のネズミ、数億匹のノミ、解剖記録、病理記録、細菌培養記録などは掘った穴に集められ、重油で焼却されている。その後、施設建物が大量の爆薬によって破壊された。

  この時の爆破の煙はハルビン市内からも見えたと言われている[64]。篠原鶴男は、証拠隠滅と爆破に関わった時の様子を、「13日夜から14日明け方にかけて何回もトラックで初花江という河に研究機材、薬品、標本を入れた容器などを運んで流しました。

 爆破の時には30人しか残っていませんでした。18時、爆破スイッチを入れ、爆破音が轟く中を列車に乗り込み、出発しました。」と証言している[30]。

  731部隊付き看護婦であった赤間まさ子によれば、石井四郎は日本への帰路において731部隊員と家族に対し、「戦争は負けた。俺は、君たちみなを故郷に送り返す。帰郷したお前たちが731部隊の秘密を漏らすようなことがあったら、この石井はどこまでも、草の根をわけても捜すぞ。」と悪魔のような形相で叫んだという[15]。

 この時の爆破の煙はハルビン市内からも見えたと言われている。篠原鶴男は、証拠隠滅と爆破に関わった時の様子を、「13日夜から14日明け方にかけて何回もトラックで初花江という河に研究機材、薬品、標本を入れた容器などを運んで流しました。


つづく

脚注

61. ^ 常石(1995年)、166頁

62. ^ 秦、1999年、578-579頁。

63. ^ 森村、1983年、280-281頁

64. ^ 常石(1995年)、166頁