エントランスへはここをクリック   

「731部隊」 今までの記録(2)

・生物兵器開発と実戦的使用 ・元部員尋問 ・金子順一論文


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
2017年9月30日公開
独立系メディア 
E-Wave Tokyo 
無断転載禁


) ・731部隊の概要 ・石井四郎 ・731部隊の沿革 ・防疫活動 
2)・生物兵器開発と実戦的使用 ・元部員尋問 ・金子順一論文
3)・ペスト菌攻撃事例(寧波, 満州新京,常徳他) ・被害者の証言
4)・人体実験  ・実験材料マルタ ・細菌学的実験 ・生理学的実験
5)・細菌爆弾の効果測定 ・性病実験と女性マルタ
6)・証拠隠滅とマルタの処理
7)・戦後  ・朝鮮戦争における細菌戦
8)・ハバロフスク裁判   ・日本国への賠償請求
9)・旧陸軍軍医学校跡地で発見された人骨との関連
        総合目次へ

◆生物兵器の開発と実戦的使用

 第一次世界大戦での化学兵器使用をうけ、1925年のジュネーヴ議定書では化学兵器や生物兵器の使用が禁止された。しかし、日本は批准していなかった(1970年批准)。

 常石敬一や秦郁彦によれば、731部隊は、単に生物兵器の研究を行っていただけではなく、これを実戦で使用していた[12][13]。

 731部隊ではペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われ、寧波、常徳、浙?(ズイガン)などで実際にペスト菌が散布されたと常石は主張している。

 731部隊の傭人として3年間勤務した鶴田兼敏は、ノモンハンでの生物戦での実体験について次のように語っている。「8月下旬の夜、急に集められ、トラックに乗せられ真っ暗な道を現場のホルステイン河に向かった。別に血判などはつかなかった。トラックは3台で、2台にそれぞれ兵隊が10人ほど乗り、残りの1台に細菌の培養液を入れたガソリン缶を積んだ。」さらに、中身を河に流す際、鶴田の内務班の班長だった軍曹が培養液を頭から浴び、腸チフスで死亡している[14]。

 また、元関東軍の大尉であった小島隆男は、731部隊と協力し、中国大陸にコレラ菌を拡大させる作戦に従事したとして次のように語っている。「コレラ菌は対象地域に撒きました。まず病気が発生したことを確認し、対象地域に入ります。日本軍が侵入すると中国人たちは逃げて、新しい人たちに次々に感染させ、我々の計画通りに病気を蔓延させます。

 死者の死体や動けない人々が、あたりに横たわっていました。夏になると蝿がたかり、ぞっとする風景でした。私たちは2週間これらの作戦を続け、任務成果報告書に中国人およそ2万人がコレラで死亡したとしました[15]。」

◆元部隊員への尋問・関連論文

 1947年に米軍の細菌戦研究機関フォート・デトリック(en)のノーバート・フェル博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、日中戦争において、浙?作戦(1942年)などで12回の生物兵器の使用があったとする。

  また、ペスト菌汚染された蚤を空中散布した、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者も複数存在する[16]。部隊長石井四郎軍医は、フェル博士による尋問で炭疽菌の効果について次のように語っている。

 「炭疽菌についていえば、もっとも有効な菌であると確信しました。量産できるし、抵抗力があって猛毒を保持し、致死率は80%?90%にのぼる。最も有効な伝染病はペスト、媒介節足動物による最も有効な病気は流行性脳炎であると考えました」[17]。

 一方、田中淳雄少佐は尋問で、1943年に防疫研究の余暇を使ってペストノミの増殖の研究を命ぜられたものの、ペストノミの増殖に不可欠な白ネズミが不足していたことから、ペストノミの大量増殖は不可能であったと供述している[18]。

◆金子順一論文

 1940年の新京や農安でのペストの大流行が、731部隊の細菌散布により起きたとする元731部隊所属の金子順一軍医の「論文集(昭和19年)」が、2011年に日本の国立国会図書館関西部で発見された[19][20][21][22]。。

 論文では、1940年6月4日に日本軍が農安(吉林省)でノミ5グラムをまき、1次感染8人、2次感染607人の患者が発生し、同年10月27日には寧波で2キロ軍機から投下し、1次・2次感染合計1554人、41年11月4日には常徳に1.6キロ投下し、2810人を感染させ、6つケースの細菌戦では感染者は計2万5946人に上ったと報告している。また、投下した年月日はこれまで判明していたものと一致している[19]。

 また金子論文は、太平洋や東南アジアでペスト菌を撒くことを想定し、地域や季節による効果を試算した研究内容を記述している[19]。これらの計画は初歩的な検討段階で中止されたと見られるが、731部隊から抽出された実戦要員がマリアナ諸島に派遣されたとする秦郁彦の説もある[23]。

 2012年6月15日衆議院外務委員会で社民党の服部良一議員は金子論文について質問すると、玄葉大臣は時間経過などを考えれば政府調査で事実関係が断定できるか難しく、今後の歴史学者の研究を踏まえていきたいと答弁した[21]。

 参考:金子順一論文集(昭和19年)』紹介
 参考:細菌戦、これだけの根拠 二つの公的資料 −金子論文、井本日誌−


つづく

脚注

12. ^ 秦(1999)、561頁。

13. ^ a b 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年、135-163頁 ISBN 978-4061492653

14. ^ 常石(1995年)、139頁

15. ^ a b c d ハル・ゴールド、2002年、278頁

16. ^ 秦(1999)、565-566頁。

17. ^ 青木冨貴子 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社 2008年、414頁 ISBN 978-4101337517

18. ^ 「田中淳雄少佐尋問録」1945年10月30日

19. ^ a b c 細菌戦の新発見資料について

20. ^ 朝日新聞2011.10.15. 東京新聞2011.10.16.

21. ^ a b 松村高夫「旧日本軍による細菌兵器攻撃の事実」月刊保団連2012.8.No.1102,全国保険医団体連合会,

22. ^ a b 渡辺、731部隊 埋もれていた細菌戦の研究報告―石井機関の枢要金子軍医の論文集発見 (PDF) 、『世界』830号岩波書店、2012年。

23. ^ 秦(1999)、571-576頁。

24. ^ 常石(1995年)、143-144頁

25. ^ シェルダン・H・ハリス(en) 『死の工場―隠蔽された731部隊』 柏書房、1999年。ISBN 978-4760117826

26. ^ 解学詩 「新京ペスト謀略・1940年」『戦争と疫病―731部隊のもたらしたもの』 本の友社、1997年。

27. ^ 常石敬一 『戦場の疫学』 海鳴社、2005年、157-158頁。

28. ^ 常石(1995年)、148頁

29. ^ 常石(1995年)、149頁

30. ^ a b c d e ハル・ゴールド、2002年、272頁


つづく

脚注

12. ^ 秦(1999)、561頁。

13. ^ a b 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年、135-163頁 ISBN 978-4061492653

14. ^ 常石(1995年)、139頁

15. ^ a b c d ハル・ゴールド、2002年、278頁

16. ^ 秦(1999)、565-566頁。

17. ^ 青木冨貴子 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社 2008年、414頁 ISBN 978-4101337517

18. ^ 「田中淳雄少佐尋問録」1945年10月30日

19. ^ a b c 細菌戦の新発見資料について

20. ^ 朝日新聞2011.10.15. 東京新聞2011.10.16.

21. ^ a b 松村高夫「旧日本軍による細菌兵器攻撃の事実」月刊保団連2012.8.No.1102,全国保険医団体連合会,

22. ^ a b 渡辺、731部隊 埋もれていた細菌戦の研究報告―石井機関の枢要金子軍医の論文集発見 (PDF) 、『世界』830号岩波書店、2012年。

23. ^ 秦(1999)、571-576頁。

24. ^ 常石(1995年)、143-144頁

25. ^ シェルダン・H・ハリス(en) 『死の工場―隠蔽された731部隊』 柏書房、1999年。ISBN 978-4760117826

26. ^ 解学詩 「新京ペスト謀略・1940年」『戦争と疫病―731部隊のもたらしたもの』 本の友社、1997年。

27. ^ 常石敬一 『戦場の疫学』 海鳴社、2005年、157-158頁。

28. ^ 常石(1995年)、148頁

29. ^ 常石(1995年)、149頁

30. ^ a b c d e ハル・ゴールド、2002年、272頁


つづく