ザクセン王国の栄華を今に ドイツ・ザクセン州短訪 ヘンデル3 JGeorg Friedrich Handel 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2021年4月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
総合メニューに戻る ヘンデル1 ヘンデル2 ヘンデル3 作品リスト ギャラリー アート ◆ヘンデル4 1720年には貴族たちによってオペラ運営会社「王室音楽アカデミー」が設立され、ヘンデルはその芸術部門の中心人物となりました。ヘンデルはアカデミーのために歌手と契約を結ぶために1719年にドイツを訪れました。 バッハがヘンデルに会おうとしたと伝えるのはこの時のことですが、結局会うことはありませんでした。またアカデミーのための音楽の大部分はヘンデルが作曲し、『ラダミスト』『ジューリオ・チェーザレ』『タメルラーノ』『ロデリンダ』をはじめとするオペラが上演されました。 アカデミーにおけるヘンデルのライバルはボノンチーニでした。しかしアカデミーの経営はずさんであり、歌手同士の争いもあってロンドンのイタリア・オペラは再び衰退して行きました。さらに1728年に上演された『乞食オペラ』は、すでに没落していたアカデミーに最後のとどめをさし、1728年6月1日にアカデミーは倒産します。 ジョン・ジェームズ・ハイデッガーとともにヘンデルはアカデミーを建て直し、イタリアを訪れて歌手と契約を結んでドイツ経由でロンドンに戻りました。 一方1733年にはライバルの貴族オペラが設立されます。貴族オペラの作曲家はニコラ・ポルポラでした。さらにハイデッガーも1734年にはヘンデルと決別し、それまでアカデミーのオペラを上演していたヘイマーケット国王劇場を貴族オペラに引き渡してしまいます。 ヘンデルはコヴェント・ガーデン劇場に移りますが、貴族オペラ側はアカデミーから歌手を引き抜いた上、有名なカストラートのファリネッリを迎え、アカデミー側は苦戦をしいられました。アカデミーと貴族オペラはともに1737年に倒産します。ヘンデルは同年に病に倒れ、回復後は再びハイデッガーと組んでオペラの公演を続けますが、もはやロンドンでオペラが成功することはありませんでした。 オラトリオと晩年 右の黒い建物がヘンデルの住んだブルック街25番地の家。 左の白い建物にはジミ・ヘンドリックスが住んだ。 Source:Wikimedia Common DAVID HOLT - Flickr: London 003 Hendrix and Handel houses (originally uploaded by User:Mathsci on en.wikipedia.org with the above description), CC 表示-継承 2.0, リンクによる ヘンデルは1732年の『エステル』以来、英語のオラトリオをいくつか上演しています。1734年から1738年まではオラトリオの新作を発表しなかったのですが、1739年はじめにオラトリオのシーズンを開き、『サウル』と『エジプトのイスラエル人』を上演しました。 1741から翌年にかけてダブリンで慈善演奏会を開き、このときに『メサイア』を初演して好評を得ました。ロンドンに戻ってからはオペラをやめてオラトリオ一本にしぼり、ロンドンで四旬節の期間に演奏会を開き、オラトリオ作家としての名声を確立しています。 一方ヘイマーケット国王劇場ではミドルセックス伯爵が中心になって再びイタリア・オペラが上演されるようになり、ヘンデルの新たなライバルになりました。 1749年にはオーストリア継承戦争の終結を祝う祝典のために『王宮の花火の音楽』を作曲する。 1751年に左眼の視力を失い、間もなく右眼の視力も悪化し、1752年に完全に失明したため作曲活動はできなくなりましたが、その後も演奏活動だけは続けていました。1758年の夏、タンブリッジ・ウェルズで眼科医のジョン・テイラーによる手術を受けましたが成功しませんでした(ジョン・テイラーはバッハにも同様の手術を施して失敗しています)。翌1759年、体調の悪化により死去。74歳でした。ウェストミンスター寺院に埋葬されています。 ヘンデルが没した翌年にジョン・マナリングによるヘンデルの伝記が出版されました。音楽家の伝記が出版されることは当時としては異例でした。 1784年にはヘンデルの生誕百周年を祝って大編成の管弦楽団によるヘンデル記念祭が挙行され、その後も記念祭は続けられました。サミュエル・アーノルドによるヘンデル全集は1787年から1797年までかけて刊行されました。 ヘンデルは1724年以来、メイフェアのブルック街25番地に住んでいました。偶然にも1968年以降ジミ・ヘンドリックスが隣の23番地に住んでいました。現在この建物は「ヘンデル・アンド・ヘンドリックス・イン・ロンドン」という博物館になっていまする。 バッハとの関係 ヘンデル、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、ドメニコ・スカルラッティはともに1685年に生まれた。 バッハは、1719年と1729年の2度にわたりヘンデルに面会を求めましたが、最初はすれ違いになり、2度目はヘンデルが何らかの事情で面会を断ったために、同時代に活躍しながらも生涯出会うことはなかったのです。 バッハが「音楽の父」と評されるのに対し、日本ではヘンデルを俗に「音楽の母」と呼ぶこともありますが、これは日本人がヘンデルをバッハと対等の存在として位置付ける意味で考案した呼び名であり、欧米にはこのような呼び名は存在しませ。 バッハが主として教会の礼拝で用いる音楽(教会音楽)で活躍したのに対し、ヘンデルはオペラや(劇場用の)オラトリオなど、劇場用の音楽で本領を発揮しました。 バッハが音楽家一族として有名なバッハ家の生まれであったのに対し、ヘンデルの家族は音楽とは無関係でした。またヘンデルは生涯独身で子供はいなかったのに対し、バッハは2度の結婚で合計20人もの子供(うち成人した子供は10人)に恵まれた子沢山の父親として知られており、両者は作曲家としての活動だけでなく私生活においても全く対照的な人生を歩んでいたと言われています。 作品について オラトリオ『メサイア(救世主)』は曲中に有名な「ハレルヤ・コーラス」を含み、今日でも非常に有名です。オラトリオではほかに『エジプトのイスラエル人』が知られ、また『ユダス・マカベウス(マカベウスのユダ)』中の合唱曲「見よ、勇者は帰る」は、大会の優勝者を称える曲・表彰状授与のBGM(得賞歌)として日本でも頻繁に用いられています。 オラトリオにくらべて約50曲あるオペラはヘンデルの没後は大部分が忘れられてしまいましたが、オペラ『セルセ』(クセルクセス)中の「オンブラ・マイ・フ(懐かしい木陰よ)」は、「ヘンデルのラルゴ」とも呼ばれて親しまれています。 そのほか、『ジュリアス・シーザー』、『リナルド』の中のアリア「私を泣かせてください」なども知られている。1920年からドイツでヘンデルのオペラの復活上演が行われるようになりましたが、その演奏や演出は18世紀のものとは相容れないものでした。英国では第二次世界大戦後になってようやく復活上演されるようになりました。 1990年代あたりからはオペラの蘇演が非常に盛んとなり、今日では器楽曲よりもバロック・オペラの代表的作曲家として人気が高いと言えmス。 オペラ、オラトリオや世俗カンタータの他、管弦楽曲としては、管弦楽組曲『水上の音楽』『王宮の花火の音楽』が有名です。また、合奏協奏曲、室内楽、オルガンやチェンバロのための作品があります。 合奏協奏曲では作品6の12曲(1739年)がもっとも優れています。コレッリの影響が強く、ヴィヴァルディの影響は見られません。オルガン協奏曲はオラトリオの幕間にヘンデル本人が演奏するために書かれたもので、オラトリオ以上に人気があったといいます。教会のオルガンではなく、劇場の中の演奏会のためにペダルのない小型のオルガンを使用しました。 英国ではしばしば重要な行事でヘンデルの音楽が採用されます。たとえば1981年のチャールズ王子とダイアナ妃との結婚式では『サムソン』から「輝かしい天使よ」がキリ・テ・カナワによって歌われ、2018年のヘンリー王子とメーガン妃の結婚式では『アン女王の誕生日のための頌歌』の第1曲「神々しい光の永遠の源よ」がエリン・マナハン・トーマスによって歌われました。 要人の葬式には『サウル』の葬送行進曲が演奏されることが多いと言えます。『ソロモン』の「シバの女王の到着」もよく使われる曲で、2012年ロンドンオリンピックの開会式でも使われました。『ジョージ2世の戴冠式アンセム』中の「司祭ザドク」は伝統的に戴冠式で使われています。サッカー・UEFAチャンピオンズリーグの入場曲「UEFAチャンピオンズリーグ・アンセム」も「司祭ザドク」を原曲としています。 影響 ヘンデルは生前から高く評価され、没後すぐに神格化されました。ヘンデルは名声が没後も衰えなかった最初の作曲家でした。とくにオラトリオは英国だけでなく、1772年にはハンブルクで『メサイア』が上演されました。 1773年にはカール・フィリップ・エマヌエル・バッハが『メサイア』を上演しました。オラトリオは当時発達した市民レベルの合唱団に好まれました。エマヌエル・バッハは『メサイア』を何度も指揮し、これに刺激されて自らオラトリオを作曲するようになりました。 1780年代にはウィーンのヴァン・スヴィーテン男爵がその私的な日曜コンサートでヘンデル作品を広く紹介し、モーツァルトがこのコンサートのためにいくつかの曲を編曲しています。また、ハイドンはロンドン訪問から帰るときにザーロモンからオラトリオ『天地創造』の台本を贈られましたが、この台本は本来ヘンデルによる作曲を想定して書かれたものだといいますう。台本はヴァン・スヴィーテン男爵によってドイツ語に翻訳され、それにつけられた音楽はハイドンの代表作のひとつとなりました。 ベートーヴェンはとくにヘンデルを高く評価し、『調子の良い鍛冶屋』にもとづく2声のフーガや、『ユダス・マカベウス』の「見よ勇者は帰る」にもとづくチェロとピアノのための変奏曲を作曲しました。 1824年、ヨハン・アンドレアス・シュトゥンプフとの筆談において、ヘンデルがもっとも優れた作曲家だとベートーヴェンは答えたが、ヘンデル全集をベートーヴェンが持っていないことを知ったシュトゥンプフは後にアーノルド版全集を贈っている[77][78]。 作品リストへつづく |