ザクセン王国の栄華を今に ドイツ・ザクセン州短訪 ヘンデル1 JGeorg Friedrich Handel 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2021年4月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
総合メニューに戻る ヘンデル1 ヘンデル2 ヘンデル3 作品リスト ギャラリー アート ◆ヘンデル1 ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル Source:Wikimedia Common バルタザール・デンナー - originally uploaded on nl.wikipedia by Robbot (トーク · 投稿記録) at 2004年4月21日. Filename was Haendel.jpg., パブリック・ドメイン, リンクによる ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルのサイン Source:Wikimedia Common Connormah, George F. Handel - Own work by uploader, traced in Adobe Illustrator from http://www.classical.net/music/images/composer/h/handel-sig.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる はじめに ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Handel, 1685年2月23日 - 1759年4月14日)は、ドイツ出身で、主に英国で活躍し、英国に帰化した作曲家ですs。英語ではジョージ・フレデリック・ハンドルです。 生涯 ハレ・ハンブルク時代 ハレのヘンデル像 Source:Wikimedia Common Deutsche Fotothek, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル Source:Wikimedia Common フィリップ・メルシェ - Handel House Museum, パブリック・ドメイン, リンクによる 1685年、現ザクセン=アンハルト州(当時はブランデンブルク=プロイセン領)のハレに生まれました。ハレはもとマクデブルク大司教領の中心都市で、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の子のザクセン=ヴァイセンフェルス公爵アウグストによって支配されていましたが、1680年のアウグストの没後はブランデンブルク=プロイセンの領土になりました。 ヘンデルの父のゲオルクははじめアウグストの外科医(床屋を兼ねる)かつ従僕でしが、アウグストの死後はその子のヴァイセンフェルス公爵ヨハン・アドルフ1世に仕えました。父は1697年に没していまする。 ヘンデルは幼少時から非凡な音楽の才能を示していましたが、父は息子を法律家にしようと考えており、息子が音楽の道へ進むことには反対していました。しかし、幸いなことにヴァイセンフェルス公爵がヘンデルのオルガン演奏の才能を気に入り、ヘンデルは公爵の援助のおかげで音楽の勉強を続けることができたといいます。 ヘンデルはハレの聖母マリア教会のオルガニストであったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハウに作曲とオルガン、チェンバロ、ヴァイオリンの演奏を学びましたが、じきに師をしのぐほどになりました。 1702年にハレ大学に入学しましたが、同年ハレ大聖堂のオルガニストを1年間の契約でつとめます。この頃に始まったテレマンとの交友は終生続きました。 翌1703年、ヘンデルはハンブルクへ出ました。当時のハンブルク・オペラの中心的な作曲家はラインハルト・カイザーであり、ヘンデルはその影響を受けました。ハンブルク時代にはヘンデルの最初のオペラ『アルミーラ』が1705年1月8日に上演され、成功しました。同年2月には次のオペラ『ネロ』(現存せず)が上演されています。 翌1706年にも2つのオペラを作曲していますが(1708年上演)、これらも現存しません。ハンブルクではまたヨハン・マッテゾンと親友関係にありましたが、マッテゾンのオペラ『クレオパトラ』(1704年)の上演中に2人は喧嘩を始めた挙句、決闘で刺殺されそうになったことがあります。しかし後に和解しています。 1703年にヘンデルはマッテゾンとともにブクステフーデの後任オルガニストになるためにリューベックに旅行していますが、ブクステフーデの娘との結婚が条件とされていると聞いて逃げ出しています。2年後にバッハも同じ経験をしています。 ヘンデル2へつづく |