ザクセン王国の栄華を今に ドイツ・ザクセン州短訪 ヘンデル2 JGeorg Friedrich Handel 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 現地視察:2004年9月5日、掲載月日:2021年4月30日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
総合メニューに戻る ヘンデル1 ヘンデル2 ヘンデル3 作品リスト ギャラリー アート ◆ヘンデル2 イタリア時代 1706年から1710年までイタリアの各地を巡りました。ヘンデルの正確な足取りは明らかでありませんが、フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィア、ナポリを訪れたとされています。ローマでは当時オペラの上演が禁止されていたため、ここでヘンデルは最初のオラトリオ『時と悟りの勝利』を作曲しています。 ローマではまたコレッリに会ってその影響を受け、またドメニコ・スカルラッティと鍵盤楽器の競演を行っています。チェンバロの腕前については評価が分かれ、スカルラッティの方が優れているとする者もありましたが、オルガン演奏についてはヘンデルが圧倒し、スカルラッティ自身がヘンデルの強い影響を受けたといいます。 再びフィレンツェのココメロ劇場で、ヘンデル最初のイタリア・オペラ『ロドリーゴ』が上演されました。1708年にはオラトリオ『復活』が上演されています。 1709年にヴェネツィアで上演されたオペラ『アグリッピーナ』は大成功を収め、連続27回も上演されました。イタリア・オペラの中心地のひとつであるヴェネツィアで外国人の作品がこれほど成功するのは異例でした。ほかにカンタータなども発表しました。 ロンドンへ 1710年、25歳のヘンデルはハノーファー選帝侯の宮廷楽長となりましたが、ハノーファーには落ち着かず、ハレで年老いた母を訪れた後、デュッセルドルフに滞在し、その年の暮には初めてロンドンを訪れました。 ここで書かれたオペラ『リナルド』は1711年2月14日に初演され、15回の上演を数える大成功となりました。6月にオペラのシーズンが終わるとデュッセルドルフを再び訪れた後にハノーファーに戻りました。 翌1712年11月には再びロンドンを訪れ、ハノーファーに帰る約束があったにもかかわらずそのまま英国に住み着きました。1714年のアン女王の死去に伴い、ハノーファー選帝侯が英国王ジョージ1世として迎えられることになりますが、ヘンデルは2年以上もハノーファーを留守にしていたことを咎められることなく、新国王とは良好な関係を保ちました。1727年には正式に英国に帰化しした。 1716年にジョージ1世はハノーファーに戻り、ヘンデルも久しぶりにハノーファーを訪れています。ロンドンに戻った後の1717年には『水上の音楽』が演奏されました。ロンドンのオペラはいったん下火になりますが、ヘンデルは、後にシャンドス公爵となるジェイムズ・ブリッジズの住み込み作曲家として『シャンドス・アンセム』や仮面劇を作曲ましした。 テムズ川上のジョージ1世とヘンデル(19世紀の想像図) Source:Wikimedia Common Edouard Jean Conrad Hamman (1819-1888) - P.M. History. Januar 2006, S. 29., パブリック・ドメイン, リンクによる ウィリアム・ホガースによるカリカチュア(1724年)。左がヘイマーケット 国王劇場でヘンデルのオペラとハイデッガーの仮面舞踏会(ほかに アイザック・フォークスの奇術ショーの看板も見える)、右がリンカーン ズ・イン・フィールズ劇場でジョン・リッチ一座のハーレクイン劇『フォー スタス博士』に行列ができている。手前ではドライデンやシェイクスピア の本が紙屑として売られている。 Source:Wikimedia Common ウィリアム・ホガース - Scanned from The genius of William Hogarth or Hogarth's Graphical Works, パブリック・ドメイン, リンクによる ヘンデル3へつづく |