シルクロードの今を征く Now on the Silk Road ブーコレオン宮殿 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
| 総合メニュー(西アジア) トプカプ宮殿 トプカプ宮殿1 トプカプ宮殿2 プカプ宮殿3 トプカプ宮殿4 トプカプ宮殿5 トプカプ博物館1 トプカプ博物館2 トプカプ博物館3 トプカプ博物館4 コンスタンティノープル大宮殿 チュラーン宮殿 ドルマバフチェ宮殿 ブーコレオン宮殿 次はブーコレオン宮殿です。 ◆ブーコレオン宮殿(Istanbul、トルコ) ブーコレオン宮殿(ギリシア語:Παλάτι Μπουκορέων)とは、東ローマ帝国の首都・コンスタンティノープルに存在した宮殿です。 現在は、イスタンブールのコンスタンティノープル大宮殿跡の南に、宮殿の壁の残存欠が残っています。 概要 東ローマ帝国時代のコンスタンティノープルの主要な建物群から離れた海岸沿いにブーコレオン宮殿が存在ましした。 この宮殿の北には、10世紀ごろまで東ローマ帝国の宮廷として使用されたコンスタンティノープル大宮殿が存在し、その別宮殿として、この宮殿は建てられたのでした。海岸沿いの城壁の一部としてテオフィロスが建設したもので、13世紀ごろまでよく使われていました。 十字軍遠征の時代のコンスタンティノープル陥落の後は、ラテン帝国(1204年 - 1261年)の皇帝らは海岸沿いのこの宮殿を好み、古くなった大宮殿に変わり宮殿として用いられました。さらに南の海岸側の門を出ると、そこにブーコレオンの港がありました 名称 「オルミサ」という古い名称は、その宮殿が建設された地の初期の名前でした。ブーコレオンという名前は、現在埋め立てられている宮殿の前の小さな港の名称(ブーコレオン港)に因んだと言われています。 歴史 起源 ブーコレオン宮殿は、おそらく5世紀のテオドシウス2世の治世中に建設されたと考えられています。皇帝は、城を再建し、広げ、城壁の上に大きなファサードを追加し、969年には、回廊を建設しました。ブーコレオン宮殿は、11世紀までコムネノス王朝によるブラケルナエ宮殿のまでの広い時代、東ローマ皇帝の宮殿の中での主要な宮殿であり続けるのでした。 東ローマ皇帝の宮廷として また、ブーコレオン宮殿は、国家会議にも使用されました。1161年、ラムのスルタン、キリジ・アルスラン2世、1171年にエルサレムの王アマルリックと共に、1166年に皇帝マヌエル1世コムネノスが教会評議会を開いたときに宗教的な集会所を務めました。 十字軍遠征の時代のコンスタンティノープル陥落の後は、ラテン帝国(1204年 - 1261年)の皇帝らは海岸沿いのこの宮殿を好み、古くなった大宮殿に変わり宮殿として用いられまし。 2つのコンスタンティノープル陥落後 第4回十字軍のコンスタンティノープルの陥落で、ブーコレオン宮殿はモンフェラート公のボニファティウスによって陥落しました。 ボニファティウスがコンスタンティノープルに迫ったとき、ブコーレオン宮殿は、すべての命を免れるべきであることを条件に、降伏しました。ブーコレオンでは、皇后であったフランス国王の妹と、后であったハンガリー国王の妹、そして他の妃たちが発見され、そのほかの高貴な女性も数多く見つかりました。そのほかのの文化品とともに、それらは戦利品となりました。 それらの中には、ボニファティウスが後に結婚したハンガリー王国のベラ3世の娘マーガレット皇后がいました。その後のラテン帝国のコンスタンティン支配期間の間、ブーコレオンは古くなったコンスタンティノープル大宮殿に代わってラテン皇帝の住居として使われ続けました。 しかし、ミカエル8世パレオロゴスによってコンスタンティノープルの街を奪還した後、宮殿はコンスタンティノープル大宮殿と共に、徐々に放棄され、ブラケルナエ宮殿のほうが多く用いられました。 1453年のコンスタンティノープル陥落の時にオスマン帝国の皇帝(スルターン)、メフメト2世が入ると、当時の有名な宮殿は廃墟ではあるものの、まだ残存していることが驚かれたといいます。宮殿への入り口で、スルタンは次の詩を発言をしたと言われます。 「蜘蛛は帝王の宮殿に巣を張り、 梟はアフラシヤブの塔で鳴く」 構造 景観 荒れ果てた部分。 ブーコレオン宮殿は、2つの高床の部分に支えられ、海のベモンドに基づいて、その上に建てられています。又、それは高床による、高い1階部分を可能にしています。 西のファサードからは、海を見渡すことができます。これは、ライオンの彫刻が門の脇侍として飾られました、仕える人々専用の門(白い大理石で作られていた)と皇帝専用の大門(2本の柱を持つ大規模なドア)の1階に位置しています。 ブーコレオン宮殿の旧観の全体像は、その大部分が鉄道の建設中に破壊されたため、全てを見渡すすることは不可能です。しかし、破壊された箇所の部分的な再建は、1934年のマンベリーの模写作品であるいくつかの古い作図に基づいてのみ、可能です。 そのため、鉄道線路建設中に破壊されずに今日まで残っている遺構は、西部のファサードのみです。 宮殿の破壊 今日、宮殿跡から海岸沿いの城の西側ファザードのみが鉄道と道路バイパス(ジョン・F・ケネディ通り)の間に位置しているため、見ることが可能ですが、その景観は建設当時とは異なり、現在は東ローマ時代から15メートル、海岸線が後退しているため、立地は異なっています。 鉄道建設中に、ローマン・コンクリートで造られていないブーコレオン宮殿の内部の東ローマ帝国時代の一部は、高さ2mの底に埋もれました。皇帝専用の大門は部分的に残っていますが、東ローマ帝国時代の遺構の一部は大きな堆積物の下に隠れています。 また、以前まで何保護のための対策を講じず、時がなすがまま、イスタンブールの市街の中に放置し続けられていたため、かなりの程度の荒廃が進んでいます 現在 一部のブーコレオン宮殿の跡は、シルケシへの鉄道のための線路を作るために1873年に破壊されました。遺跡は、海を見下ろすバルコニーが存在し、今日でも見える3つの大理石の囲まれた出入り口からアクセス可能であることを示唆しています。 イスタンブール第4文化遺産保護地域委員会が保護及び保全措置が財産所有者であるイスタンブール広域自治体により実施されるべき状態であるとし、2018年、イスタンブール市から、この宮殿は文化遺産保護委員会によって復元されると発表されました。宮殿は、博物館を持つ野外博物館になることが計画されています。 巡礼地として ブーコレオン宮殿の礼拝堂は東ローマ皇帝のレガリアを収容し、宮殿の礼拝堂には聖人たちの聖遺物が奉納されており、宮殿礼拝堂への立ち入りは、皇族・その他の重臣のみに制限されていました。しかし、それにも関らず、宮廷礼拝堂は正教会の巡礼(聖遺物の見学のため)の一部であった兆候が存在します。 へつづく |