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イスタンブル (Istanbul、トルコ)

コンスタンティノープル大宮殿

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月
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トプカプ宮殿
  トプカプ宮殿1  トプカプ宮殿2  プカプ宮殿3  トプカプ宮殿4  トプカプ宮殿5
トプカプ博物館1  トプカプ博物館2  トプカプ博物館3   トプカプ博物館4
コンスタンティノープル大宮殿  チュラーン宮殿  ドルマバフチェ宮殿  ブーコレオン宮殿


 次はコンスタンティノープル大宮殿です。

◆コンスタンティノープル大宮殿Istanbul、トルコ)

 コンスタンティノープル大宮殿(トルコ語: Büyük Saray)は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにあった巨大宮殿複合体で、半島南西端のイスタンブール旧市街地にあたる場所にありました。

 聖なる宮殿ともいわれています。330年から1081年まで東ローマ帝国歴代皇帝の居所とされ、800年以上に渡って帝国統治の中心地でした。ごく一部の遺構や基礎部分しか現存していません。


大宮殿にあった床のモザイク。日常生活や神話が描かれているが、
それがあったホールの建設時期や用途については定説がない。
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Source:Wikimedia Cmmons

歴史

 330年にコンスタンティヌス1世がローマからコンスタンティノープルに首都を移転させたとき、彼は自身と後継者のための宮殿建設を計画しました。宮殿は競馬場とアヤソフィアの間とされました。何度か拡張および修復されており、特にユスティニアヌス1世とテオフィロスの治世下で大規模な修復・拡張が行われました。

 13世紀初頭まで大宮殿はコンスタンティノープルの統治と儀礼の中心でしたが、コムネノス王朝初期から皇帝の居所としてはブラケルナエの宮殿の方が好まれました。第4回十字軍によるコンスタンティノープル略奪に際しては、モンフェッラート侯ボニファーチョ1世の率いる兵らが大宮殿で略奪しました。

 その後のラテン帝国でも大宮殿を使い続けましたが、修復するための資金がありませんでした。ラテン帝国最後の皇帝ボードゥアン2世・ド・クルトネーは、宮殿の鉛板製の屋根を取り払って売るところまで追い込まれていました。

 1261年、ミカエル8世パレオロゴスの軍がコンスタンティノープルを奪回したとき、大宮殿は無残な状態でした。パレオロゴス王朝の皇帝らは大宮殿をほぼ放置し、ブラケルナエの宮殿を主に使いました。そのため1453年にメフメト2世がコンスタンティノープル入りしたとき、大宮殿は廃墟と化していました。その空虚なホールや別館を見て回りながら、メフメト2世はペルシアの詩人フェルドウスィーの次の詩をつぶやいたとされています。

 「蜘蛛は帝王の宮殿に巣を張り、
 梟はアフラシヤブの塔で鳴く」

 大宮殿の大部分はオスマン帝国初期にコンスタンティノープル全体の再建の一環として撤去されました。しかし20世紀初頭の火事で大宮殿の遺構の一部が顕わになりました。その際に独房、多数の大きな部屋、墓と思われるものなどが見つかっています。

 大宮殿の発掘調査は現在もイスタンブールで行われています。これまで発掘調査が行われたのは大宮殿の敷地の4分の1未満です。大宮殿跡地にはスルタンアフメト・モスクとそれに付随する各種建物が建っており、大がかりな発掘は不可能です。これまでに出土したモザイク画の多くはモザイク博物館に展示されています。

解説


イスタンブール考古学博物館の中庭にある大宮殿の柱の1つ
Gryffindor - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
Source:Wikimedia Cmmons


コンスタンティノープル中心地の地図。大宮殿は文献などから下方の網掛け部分に
あったとされている。現存する部分は濃い黒で描かれている。
Cplakidas - Image:Constantinople center.svg. Translated and added more detail, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Cmmons


ブーコレオン宮殿の遺構
Gryffindor - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
Source:Wikimedia Cmmons

 大宮殿はコンスタンティノープルの半島の南西端に位置し、競馬場とアヤソフィアの背後にありました。オスマン帝国時代に建設されたトプカプ宮殿のように、多数の別館から構成されていたと見られています。大宮殿の総敷地面積は 200,000平方フィート (19,000 m²) 以上でした。

 大宮殿の正面入口はアウグスタイオン広場のカルケ門でああります。アウグスタイオン広場はアヤソフィアの南に接するように位置し、コンスタンティノープルの大通り (en) の起点になっていました。広場の東に接するように元老院議事堂またはマグナウラの宮殿がありましたが、後に大学に流用されました。

 また、広場の西には東ローマ帝国内の全てのマイルストーンの起点となる Milion があり、南にはローマ式浴場のゼウクシッポス浴場がありました(ただし、浴場として機能したのは古代末期まで、中世以降は監獄や兵舎、絹織物工場などへ転用されました)。

 カルケ門を入ってすぐの南側に近衛兵団 Scholae Palatinae の兵舎がありました。兵舎の後ろに19脚の長いす (Accubita) の置かれた応接ホール(このホールでは古代ローマ風の長椅子に寝そべって食事をする宴会ができるようになっていた)があり、東ローマ帝国初期には皇帝の居所だったダフネ宮殿 (en) に続いています。

 この宮殿には皇帝の寝室 Octagon がありました。ダフネ宮殿から競馬場の皇帝専用席 (kathisma) に直接繋がる通路がありました。主謁見室 Chrysotriklinos はユスティヌス2世が建設させ、バシレイオス1世が拡張・改修しました。そのすぐそばに宮殿内の礼拝堂がありました。その北に皇帝テオフィロスが建てさせた宮殿 (Triconchos) があり、Sigma と呼ばれる半円形の控え室を通じて行き来できるようになっていました。

 Triconchos の東にはバシレイオス1世が建設させた金メッキされた5つのドームのある豪華な装飾の新しい教会 (Nea Ekklesia) がありました。この教会はオスマン帝国征服後も残っていましたが、弾薬庫として使われ、1490年の落雷で爆発しました。この教会と海岸の城壁の間には Tzykanisterion というポロの一種を行う競技場がありました。

 さらに南には、主要な建物群から離れた海岸沿いにブーコレオン宮殿があります。海岸沿いの城壁の一部としてテオフィロスが建設したもので、13世紀までよく使われていました。特にラテン帝国(1204年 - 1261年)の皇帝らは海岸沿いのこの宮殿を好んでいました。海岸側の門を出ると、そこにブーコレオンの港がありました。


つづく