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増上寺・寛永寺石灯籠等、移築実態調査

(東京都・千葉県・長野県

清瀬市 長命寺-2

青山貞一 Teiichi Aoyama
池田こみち Komichi Ikeda

山形美智子 Michiko Yamagata
Marcgh 24, 2015
Independent Media E-wave Tokyo
無断転載禁

調査の目的 D清瀬市 円福寺 2本 I上田市 信濃国分寺
@練馬区 長命寺 E清瀬市 長命寺-2 J君津市 神野寺 2本
A西東京市 東禅寺 F清瀬市 長源寺 K東京都港区 妙定院
B清瀬市 長命寺 3本 G練馬区 道場寺
C練馬区 正覚院 H練馬区 三宝寺
註)寺の名前の後ろにあります本数は論考の頁数です。つづくをクリックすることで進みます。

 2015年3月24日(火)、 円福寺を視察した後、夕方に東京都清瀬市にあります長命寺を視察しました。

 長命寺には前年の2014年12月22日、増上寺の石灯籠、全国移築実態調査の東京都内の移築分について、訪れています。

 場所は清瀬市内で都道40号線(志木街道)が南北に分岐する地点の北側にあります。右側にある幹線自動車道は、関越自動車道です。


出典:グーグルパップ

 下は拡大図です。右から来た志木街道が南側にも分岐する三叉路の北側にあります。長命寺前というバス停もあります。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-22


出典:グーグルパップ


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24

 下の写真は長命寺の山門、本堂、薬師堂、鐘楼を写しています。


長命寺の山門、本堂、薬師堂、鐘楼
出典:グーグルストリートビュー

 また下の写真は長命寺の本堂です。


長命寺本堂とその前に鎮座する2つの宝塔そして2つの増上寺の石灯籠があります。
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-22

 前回、長命寺を現地視察した際の調査報告清瀬市 長命寺 3本)は、別途お読みいただくこととして、この長命寺には、脈絡なく増上寺から由緒ある多宝塔や多くの石灯籠がもってこられ、境内に多数移設されています。

 とりわけ、多宝塔は、 六代家宣正室 天英院(近衛熙子)そして十一代家斉正室 廣大院(近衛寔子)の 宝塔
であり、戦前は東京芝の増上寺の北霊屋にあったものです。

 下は八角形の増上寺にあった2つの宝塔です。しかし、左右どちらが天英院、廣大院のものであるかすら分かりません。また一切の解説もありませんでした。


八角形の増上寺にあった宝塔と石灯籠(左側)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-22


八角形の増上寺にあった宝塔と石灯籠(右側)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-22

 しかも、以下の写真にあるように、どう見ても宝塔部分と台座部分が合っていない、無理矢理に乗せているように見えます。台座からはみ出しています。


多宝塔の台座が合っていない
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24


多宝塔の台座が合っていない
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24

 ちなみに、天英院、廣大院については、以下の通りです。

天英院
 近衛 熙子(このえ ひろこ、寛文6年3月26日(1666年4月30日)[1] - 寛保元年2月28日(1741年4月13日))は、江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室です。父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・(品宮)常子内親王であり、夫の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗っています。


◆広大院
 広大院(こうだいいん、安永2年6月18日(1773年8月6日) - 天保15年11月10日(1844年12月19日))は、江戸幕府の11代将軍・徳川家斉の正室(御台所)です。実父は薩摩藩8代藩主・島津重豪、実母は側室・市田氏(お登勢の方(慈光院))です。養父は近衛経熙です。実名は寧姫、篤姫、茂姫、後に天璋院が「篤姫」を名乗ったのは広大院にあやかったものとされています。

 徳川将軍家にあって由緒ある天英院、廣大院の宝塔がこともあろうか、縁もゆかりもない長命寺の本堂の前に何の刻印、解説板もなく「堂々」と鎮座していること自体、あり得ないことと言えます。


 それに加え、
先の報告署(3本目)に詳述しているように、もともと増上寺にあった以下の21基の石灯籠が、なぜか長命寺をはじめとする清瀬市内の寺に多数置かれているのです。


出典:※伊藤友己氏 増上寺の石灯籠


本堂前の増上寺の石灯籠群
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400  2014-12-22

 ちなみに惇信院は徳川家宣、文昭院は徳川家重、有章院は徳川家継、台徳院は徳川秀忠の院号です。その他、上野寛永寺の灯籠があり、常憲院が1基、有徳院が3基あることになっています。

<参考>
徳川家康  安国院(あんこくいん)
徳川秀忠  台徳院(だいとくいん)......増上寺
徳川家光  大猷院(たいゆういいん)
徳川家綱  厳有院(げんゆういん)
徳川綱吉  常憲院(じょうけんいん)......寛永寺
徳川家宣  文昭院(ぶんしょういん)......増上寺
徳川家継  有章院(ゆうしょういん)......増上寺
徳川吉宗  有徳院 (ゆうとくいん)......寛永寺
徳川家重  惇信院 (じゅんしんいん)......増上寺
徳川家治  浚明院(しゅんめいいん)
徳川家斉  文恭院(ぶんきょういん)
徳川家慶  慎徳院(しんとくいん)
徳川家定  温恭院(おんきょういん)
徳川家茂  昭徳院(しょうとくいん)


◆清瀬市の長命寺周辺に無残に置かれた増上寺の石灯籠などの一部

 ところで、今回(2015年3月24日)、再度、清瀬市の長命寺を訪れた主な理由は、前回の調査後、長命寺境内の志木街道を挟んで反対側にある長命寺の駐車場と寺関係者の資材置き場の一角に増上寺の石灯籠や宝塔の一部とおぼしき石材が雑然と放置されているという情報が入ったためです。

 上記の場所をグーグルマップのストリートビューで検索した結果が以下です。ただし、これだけではまったく分かりません。


出典:グーグルマップ ストリートビュー  

 以下は今回の現地調査により発見された増上寺の石灯籠などの一部や残骸です。周知のように増上寺や寛永寺の石灯籠は、全国各地の大名などが亡くなられた徳川将軍に寄進したものであり、それぞれ地名や氏名が刻印されています。それらが以下の写真にあるように無残にも石積されているのは、許されるものではないでしょう。


長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24



長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24



長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24



長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24



長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24



長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24



長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24



長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24

 下の写真の右下の台座は間違いなく増上寺か寛永寺の石灯籠のものです。


長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24

 下は間違いなく増上寺か寛永寺の石灯籠の一部です。あまにりも無残な置き方です。


長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24

 下の一部も増上寺か寛永寺の石灯籠の一部のようです。


長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24



長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24



長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24

 下は間違いなく増上寺か寛永寺の石灯籠の一部です。


長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24

 なかには以下のように沢山の石仏もありました。まるで八ッ場ダムや品木ダムのダム工事現場にあったさまざまな時代の石仏や無縁仏を一箇所にまとめて置いてあるように見えます。


長命寺駐車場近くに無残に放置されていた灯籠の素材や石仏など
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2015-3-24


本稿はこれで終わり