エントランスへはここをクリック   


晩秋の長州・萩短訪

I吉田松蔭刑死と墓所

青山貞一 東京都市大学

現地訪問 2009年11月21日〜22日

独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


長州藩・毛利家
@今に残る希有な歴史文化都市 H吉田松蔭誕生地と一族
A萩市の産廃処分場問題 I吉田松蔭刑死と墓所
B産廃処分場問題講演会 J毛利家の菩提寺 東光寺
C反射炉跡と造船所跡 K松陰神社と松下村塾
D浜崎地区:旧萩藩 御船倉 L御成道と萩城跡
E浜崎地区:旧山村家住宅 M菊屋家住宅とその庭園
F菊ヶ浜・相島・笠山 N萩の城下町を歩く
G萩博物館 Oエピローグ

■吉田松陰及び一族らの墓所

 
吉田松陰誕生の地の直ぐ隣に、吉田松陰及び一族さらに高杉晋作など松下村塾門下の墓がある。


吉田松陰一族及び門下生の墓所
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8



撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8
 
●吉田松陰年譜


吉田松陰肖像。この肖像画は、門下生の松浦松洞が松蔭が
斬首を受ける直前の書いたものとされている。 
出典:萩松下村塾資料
  • 1830年9月20日(文政13年8月4日)、長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)に家禄26石の萩藩士・杉百合之助、瀧の次男として生まれる。 
  • 1834年(天保5年)、父の弟である吉田大助の仮養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範として毛利氏に仕え家禄は57石余の家柄であった。
  • 1835年(天保6年)、大助の死とともに吉田家を嗣ぐ。兵学師範としての職責を果たせるよう、同じく父の弟で叔父である玉木文之進から厳しい教育を受ける。
  • 1840年(天保11年)、藩主毛利敬親の御前で「武教全書」戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
  • 1842年(天保13年)、叔父の玉木文之進が私塾を開き松下村塾と名付ける。
  • 1845年(弘化2年)、山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。九州の平戸へ遊学した後に藩主の参勤交代に従い江戸へ出て、佐久間象山らに学ぶ。佐久間からは「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林(小林虎三郎)のみである」と、二人の名前に共通していた「トラ」を引用し「象門の二虎」と褒められている。
  • 1851年(嘉永4年)、東北地方へ遊学する際、通行手形の発行が遅れたため、肥後藩の友人である宮部鼎蔵らとの約束を守る為に通行手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を行う。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田藩では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽藩では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。
  • 1852年(嘉永5年)、脱藩の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育(はごくみ)となる。
  • 1853年(嘉永6年)、米国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、同じ長州藩出身の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗。
  • 1854年(安政元年)、ペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された。事が敗れた後、松陰はそのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。
  • 1855年(安政2年)、生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、木戸孝允、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、前原一誠等維新の指導者となる人材を教える。
  • 1858年(安政5年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄した。
  • 1859年(安政6年)、幕府は安政の大獄により長州藩に松陰の江戸送致を命令する。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)。獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残す。その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。

◆大和魂について

 外国や外国的な事物と比して日本流であると日本人が考える能力・知恵・情緒・品性・精神・もしくはそうした性質そのもの、などを指す用語・概念。 右記に示すとおり、各時代において様々な概念を有し変容しつつ使われてきた。

 平安時代中期ごろから「才」「漢才」と対比的に使われはじめ、諸内容を包含するきわめてひろい概念であった。

 江戸時代中期以降の国学の流れのなかで、「漢意(からごころ)」と対比されることが多くなり、「日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」という観念が付与されていった。

 明治時代以降、ナショナリズムや民族主義の興隆とともに過剰な意味が付与されるようになり、第二次世界大戦期には軍国主義的な色彩を強く帯び、現状を打破し突撃精神を鼓舞する意味で使われることが主となった。

 そのため日本の敗戦後は、日本の文化・思想界の主潮流から追いやられている。


大和魂の概念

 世事に対応し、社会のなかでものごとを円滑に進めてゆくための常識や世間的な能力。

 特に各種の専門的な学問・教養・技術などを社会のなかで実際に役立ててゆくための才能や手腕。

 外国(中国)の文化や文明を享受するうえで、それと対になるべき(日本人の)常識的・日本的な対応能力。やまとごころ。

 論理や倫理ではなく、情緒や人情によってものごとを把握し、共感する能力・感受性。もののあはれ。


 複数の女性を同時に愛してしかもすべてを幸福にしうる、艶福とそれを可能にしうる恋愛生活での調整能力。いろごのみ

 以上の根底となるべき、優れた人物のそなえる霊的能力

 勇敢で、潔い気

 主君に対しての忠義な精神。



和歌に見る大和魂

  • 敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花(本居宣長)
  • かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)
  • 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂(吉田松陰)
  • 剣道は 神の教への道なれば 大和心をみがくこの技(高野佐三郎)

上記の出典:Wikipedia
    

●吉田松陰刑死
 

 吉田松陰が江戸で斬首となったことは誰でも知っているが、その具体的経緯についてはあまり知られていない。

 2005年3月に刊行された読売新聞西武本社発行の「萩歴史スケッチ」(もともと新聞に連載されていたものを一冊の著作にしたもの)に、松蔭処刑の経緯が仔細に記されているので以下に示す。

 松蔭が安政の大獄に連座し1859年(安政6年)7月27日、江戸伝馬町牢屋屋敷内の刑場で斬首された。29歳のことであった。直接の罪は井伊直弼老中暗殺計画への関与だ。

 幕府が萩藩の江戸藩邸に松蔭の江戸召喚を命じたのが同年4月19日。この命令が直目付の長井雅楽らによって萩に伝えられたのが5月14日。当時、下田で米艦での密航を企てた罪で、萩城下の野山獄に再入獄中だった松蔭に兄、梅太郎によって知らされた。

 そして5月29日、護送かごで江戸へ立った。江戸到着は6月24日(当時、萩、江戸間は約1ヶ月かかった)で、江戸藩邸の牢に入れられた後、7月9日に評定所から呼び出しがあり、伝馬町牢屋敷に入れられた。米艦への密航時以来、2回目の入獄となる。

 この時点まで、松蔭自身はもともと江戸への呼び出しの内容に検討がつかず、死刑となるとは思っていなかったと見られている。実際に尋問は、若狭国小浜藩士で安政の大獄の最初の逮捕者となった尊王攘夷派の志士、梅田雲浜との関係を問いただしたり、京都御所に落とし文をしたかどうか、といったもので、いずれも簡単に嫌疑がはれた。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 しかし、その後、松蔭は自らを窮地に追い込む発言をしてしまう。すなわち、松蔭は「私は死罪に値する二つの罪を持っている」として老中、間部暗殺計画と倒幕のため京都の公卿三位大原重徳に手紙を出したことを明かしてしまっていた。

 その後、松蔭は死刑を悟り、10月20日には父杉百合之助、兄の梅太郎、叔父の玉木文之助らにあて永訣の書を書き「
親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」の一首をそえている。

 そして刑死2日前の10月25日には、門下生や知友たちへの遺言状ともいえべき「留魂録」の執筆に取りかかっている。書き終えたのが10月26日夕、獄中で手に入れた半紙を四つ折りにして19面に書き、全部で5000字にものぼっている。冒頭の一首が有名な
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」である。

 刑死当日の10月27日朝、評定所への呼び出しがあり、死罪の申し渡しののち、正午頃処刑された。死に臨んでの態度は堂々としていたとされる。呼び出しの声を聞き、「此程に思定めし出立ハ、けふきくこそ嬉しかりける」と最後の一首を書いた。

 伝馬町牢屋敷には全国から送られて入牢したのは数10万人に及びうち、1万人以上が刑死したとされる。このうち、幕末の数年間で、松蔭や橋本左内、頼三樹三郎ら安政の大獄や桜田門外の変の関係者を合わせると96人が刑死している。


吉田松陰の墓
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 安政の大獄に連座し1859年(安政6年)10月27日に伝馬町の獄牢で処刑された吉田松陰の遺体は、最初は小塚原回向院に埋葬され、その後、毛利家が所有していた東京都世田谷区若林お抱え地(現在、世田谷区若林4丁目)に改葬された。この改葬地が現在、東京にある松陰神社となっている。

 刑死者の扱いは極めて粗雑で、松蔭の遺体は四斗桶に入れ、回向院のわら小屋に置かれていた。役人が桶を取り出し、蓋を開けると、首の顔色はまだ生きてるようにも見えたが、髪は乱れ顔面を覆い、血がべったりとこびりつき、胴体は裸のままだった。

 松下村塾門下生の飯田正伯が髪を束ね、桂小五郎(のちに木戸孝充)と尼寺は水で血を洗い落とした。飯田は黒羽二重の下衣を、桂が襦袢を脱いで遺体にまとい、伊藤(伊藤博文)が帯を解いて結んだ。その上に首を置き、持参した甕に納めた。そして、同じく安政の大獄で死罪となった福井藩士、橋本左内の墓の左を掘って葬った。

 小塚原回向院は小塚刑場での刑死者や行路描写の供養のため、両国回向院の別院として1667年(寛文7年)に南千住に開かれた。埋葬者は20余万人とされ、殺人、強盗、火付けらの罪人なども一緒だった。憂国の志士たちも多く埋葬されていた。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


右から吉田大助、吉田松蔭、吉田庫三、吉田稔麿の墓(上の図参照)
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


29歳で無くなった高杉晋作の墓。
松蔭の墓の背後にある(上の図参照)
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 松蔭の遺体がその後、世田谷区若林の地に改葬されたのは、特に久坂、高杉晋作らにとって、こうした殺人、強盗などの罪人等と同等の扱いを受けることは耐え難かったからだ。

 久坂が朝廷に働きかけ改葬に奔走した結果、1862年(文久2年)、朝廷から将軍家茂に勅論が授けられ、これをもとに幕府は安政以来の国事犯刑死者の罪名を許す大勅令を布告した。

 これを受けて翌1863年江戸にいた高杉晋作ら松下村塾の門下生が松蔭の改葬を果たした。現在、回向院墓所内に立つ松蔭の墓は、1942年に建てられた記念墓という。

 萩市椿東の松陰誕生地の近くにある松蔭の墓は、処刑100日後の1860年(万延元年)、杉家、門下生達が遺髪を埋葬したものである。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


つづく