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晩秋の長州・萩短訪

C反射炉跡と造船所跡

青山貞一 東京都市大学

現地訪問 2009年11月21日〜22日

独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


長州藩・毛利家
@今に残る希有な歴史文化都市 H吉田松蔭誕生地と一族
A萩市の産廃処分場問題 I吉田松蔭刑死と墓所
B産廃処分場問題講演会 J毛利家の菩提寺 東光寺
C反射炉跡と造船所跡 K松陰神社と松下村塾
D浜崎地区:旧萩藩 御船倉 L御成道と萩城跡
E浜崎地区:旧山村家住宅 M菊屋家住宅とその庭園
F菊ヶ浜・相島・笠山 N萩の城下町を歩く
G萩博物館 Oエピローグ

 翌朝、日曜日、午前10時にホテルのフロントに萩・福栄水と命を守る会の堀副会長と津田事務局長が来られ、市内視察とあいなった。

 翌朝、ホテルで和食の朝食をすまし、午前10時に、堀さん、津田さんと待ち合わせ、市内視察にくり出した。


■世界遺産暫定一覧表記資産 <萩反射炉>


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 ホテルから南で昨日、昼食をとった小さなフレンチレストランから山陰本線側に南下したところに、<萩・反射炉>がある。

 現在、萩など九州・山口の6県11市では、歴史あるいは文化遺産を世界遺産に登録する動きがある。2008年12月に<萩反射炉>が世界遺産判定一覧表に記載された。萩からは、この<反射炉>に加え、<造船所>、<松下村塾>の3つが世界遺産の文化遺産の登録候補とされている。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 下は反射炉がある地点から萩のまちをみたところである。

 反射炉は、幕末期に萩藩が鉄砲鋳造などを目的に試験炉として構築したという見方が有力である。反射炉は焚き口で熱せられた熱と天井、壁の熱反射を利用して原料を溶解する炉を意味する。

 この反射炉は幕末に幕府はじめ萩以外に佐賀藩、薩摩藩、水戸藩などで開発されたとされている。現在に残っているのは、萩藩と幕府直轄の静岡県韮山のみであり、産業上きわめて貴重な遺産であると言える。

◆反射炉(Reverberatory furnace)

 金属融解炉の一種である。18世紀から19世紀にかけての精錬に使われた。現在でも、鉄以外の金属の精錬には使われている。

 構造的には熱を発生させる燃焼室と精錬を行う炉床が別室になっているのが特徴。燃焼室で発生した熱(熱線と燃焼ガス)を天井や壁で反射、側方の炉床に熱を集中させる。炉床で金属(鉄)の精錬を行う。

鉄鋼の精錬では他の方式に取って代わられ使われることはなくなったが、現在でも銅製錬、再生アルミニウムの融解炉として使われている。



 最初の反射炉は中世の時代にあったと思われる。鐘を鋳込むために青銅の溶解に使用された。

 17世紀末に初めて金属の製錬に適用された。Sir Clement Clerkeと彼の息子Talbotは1678年、ブリストルのエイボン川の畔にキューポラ(cupolas)または反射炉を建てた。

 1687年、鉛の精錬に伴う匂いで(訴訟になり)銅に変えた。反射炉は次の十年の間に錫等の幅広い金属の精錬に用いられるようになった。旧来の精錬方法に比べて褐炭や木炭ではなく石炭を燃料として使用できるという優位性があった。

 1690年代に入ると反射炉は工業用の銑鉄の溶融に用いられるようになった。各地に建造されたが、18世紀末には小さな高炉のようで反射炉とは起源の異なる工業用のキューポラの導入に伴い、時代遅れになった。

出典:Wikipedia他



撮影:萩・福栄水と命を守る会副会長の堀洋太郎氏


撮影:青山貞一 Nikonc Coolpix S8



 萩・反射炉の文化資産は、1858年(安政5)、兵器製造等を目的に萩藩が築造した製鉄所の跡を意味する。

 現実には先鞭を付けていた佐賀藩の反射炉技術を見習うべく萩藩から人材を佐賀藩に派遣するが、技術伝授(=技術移転)は拒否された。その結果、萩藩の反射炉は技術面で未熟となり、安政3年に創業を開始したものの結果的に使用されることはなかった。


撮影:青山貞一 Nikonc Coolpix S8

 反射炉は玄武岩と煉瓦で築かれており、基底部分は前面5.45m、側面3.8mの長方形となっている。煙突の上部にいくにつれ次第に断面積は小さくなっている。先端部はニつに分かれており2本の煙突となっている。高さは約11.5mである。




撮影:青山貞一 Nikonc Coolpix S8

 下の写真は、萩の反射炉の煙突を中心とした遺跡である。高さは、約11.5mある。

 
萩反射炉
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 下は、反射炉の地上部拡大写真。


萩反射炉
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

萩藩の熱意たぎった溶鉱炉

 反射炉とは金属を精錬、溶解するために用いる炉の1つ。江戸時代末期、主に洋式大砲の砲身を鋳造するため全国各地に建造された。

 萩藩では13代藩主・毛利敬親が近代化や軍備増強を推進し、軍艦・火薬製造所、ガラス製造所などを整備した。

 萩の反射炉の底部は長方形で高さは11.5m、上部にいくにつれだんだん細くなり2つに分かれている。下部は安山岩と赤土、上部は赤れんがでできている。

 実際には炉を建造したものの、試験的に使われたのみで、実用には莫大な資金が必要となるため運用されることはなかった。

 各地に造られた反射炉だが、現存しているのは静岡県の韮山とここだけで、産業史上の貴重な史跡である。

西日本新聞


 下は反射炉がある小畑地区の小高い丘から見た萩のまち。小さなお椀型の里山が多数見える。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


■世界遺産暫定一覧表記資産 <萩造船所跡>

 下の地図は<反射炉跡>から恵美須カ鼻にある<造船所跡>への行き方。



 萩・反射炉の場所から海側に10分ほど行った恵美須カ鼻に、同じく世界遺産候補の<造船所跡>がある。反射炉が鉄砲鋳造が目的であったのに対し、造船所は軍艦造船を目的であったとされる。

恵美須ヶ鼻<造船所跡> 

 萩藩は安政3年(1856)、桂小五郎(後の木戸孝允)の意見書などに基づき、洋式軍艦の建造に着手した。

 藩命を受けた船大工棟梁の尾崎小右衛門は、伊豆半島の戸田村(静岡県沼津市)から招聘された船大工とともに、萩近海を視察する。

 これにより、小畑浦の恵美須ヶ鼻が造船所建設地に選ばれた。この地で安政3年に丙辰丸、万延元年(1860)に庚申丸と2隻の洋式軍艦が建造された。

出典:萩市資料

 以下の出典は萩市資料。

 恵美須ヶ鼻造船所跡は、萩藩が洋式の軍艦を建造するために築いた施設の跡地で現地には、当時の規模そのままに防波堤が残っている。

 嘉永6年(1853)、ペリー来航に衝撃を受けた幕府は、諸藩の軍備・海防の強化を目的に、大船の建造を解禁する。また幕府は安政元年(1854)、萩藩に対して大船の建造を要請する。

 次いで安政2年、幕府が伊豆の戸田村で洋式帆船を建造したことなどを受け、萩藩においても洋式軍艦を建造する機運が高まった。

 萩藩は安政3年1月、洋式造船技術と運転技術を学ばせるため、船大工棟梁の尾崎小右衛門を伊豆と江戸へ派遣する。

 尾崎らの意見に基づき、同年4月、小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所が設立され、12月、萩藩で最初の洋式軍艦となる丙辰丸が進水した。丙辰丸は海軍の練習艦として使用され、また大坂(大阪)へ国産物を運ぶなどに活躍したという。


出典:「丙辰丸製造沙汰控」(山口県文書館蔵)

  「丙辰丸」は全長約25m、排水量47tの木造帆船です。艦種としては
  スクーナーまたは君沢型と呼ばれる船で、2本のマスト(帆柱)に対し、
  帆を縦に3枚張るのが特徴。この船は、建造された安政3年(18566)
  の干支をとって「丙辰丸」と命名されました。翌年2月には、藩主毛利敬
  親の観覧のもと、試運転が行われた。


出典:小川亜弥子『幕末期長州藩洋学史の研究』(思文閣出版、1998年)

 その後、萩藩は更に技術者を長崎に派遣してオランダ人から知識を習得させ、万延元年(1860)に2隻目となる庚申丸を建造した。

 なお庚申丸の建造にあたっては、萩市紫福にある大板山たたら製鉄遺跡(山口県指定史跡)の鉄が使用された。庚申丸は海軍の練習艦として使用された後、文久3年(1863)に下関で外国船と放火を交え、撃沈された。


つづく