下町の歴史を刻む森 根津神社 7. 徳川家宣胞衣塚 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 山形美智子 Michiko Yamagata 鷹取 敦 Atsushi Takatori December 25 2014 Independent Media E-wave Tokyo 無断転載禁
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撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13 次は徳川家宣胞衣塚です。 ◆徳川家宣胞衣塚 根津神社の境内には、「徳川家宣胞衣塚」として、第6代将軍・家宣の胞衣(胎児を包んだ膜と胎盤)を埋めた塚があります。根津権現が甲府藩邸であった時、徳川家宣が生まれたことに由来しています。 根津神社の境内にある「徳川家宣胞衣塚」 出典:Wikipedia
◆徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)について
なお、綱豊の将軍後継に伴い甲府徳川家は絶家となり、家臣団も幕臣として編制されています。 宝永6年(1709年)、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任すると、宝永通宝の流通と酒税とを廃止しました。 生類憐れみの令は部分的に変更して存続させています。ほか、柳沢吉保を免職し、側用人に間部詮房、学者として新井白石らを登用し綱吉時代が始めた文治政治を推進し、荻原重秀に命じて財政改革を試みました。しかし、在職3年後の正徳2年10月14日(1712年11月12日)に死去しています。 享年51(満50歳没)。跡を子の徳川家継が3歳で継ぎ、政治は引き続き新井白石らに依存しています。 法名は文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士です。墓所は東京都港区の三縁山広度院増上寺。6代将軍・徳川家宣と7代将軍・徳川家継の治世を併せて正徳の治(正徳の政治)といいます。 ◆家宣の人物・逸話について 荻原重秀を憎む新井白石に対し「才あるものは徳あらず。徳あるものは才あらず。真材誠に得がたし」と宥め、重秀を病没寸前まで重用し続けていました。家宣は慈悲深いことで知られていました。 新井白石から初代将軍・家康、曽祖父の2代将軍・秀忠、祖父の3代将軍・家光の事跡などを熱心に学んだといわれています。また慶長5年(1600年)から延宝8年(1680年)に至る80年間の諸大名家の家系図と略伝を10か月でまとめさせ、『藩翰譜』と題して常に手元に置いたといいます。 綱吉から養子として迎えられて江戸城西の丸に入ったとき、また下心を持つ諸大名や旗本が賄賂に近い祝い品を持ってきたとき、家宣はこれらを全く受け取らなかったといいます。後に将軍になると人事を一新し、不正を厳しく取り締まったといわれています。 家宣は将軍になると、新井のほかに室鳩巣ら多くの学者を招聘し、人材の登用に尽力しました。綱吉は「生類憐れみの令」を厳守することを遺言して世を去りましたが、家宣は葬儀の2日前に綱吉の柩の前で、側用人の柳沢吉保に対して「生類憐れみの禁令に触れ罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のためにあえて遺命に背くこととする」と言ったとそうです(徳川実紀)。 境内には6代家宣公の産湯井戸(非公開)や庚申塔などがあります。 出典:主にWikidpia ◆江戸幕府第6代将軍、徳川家宣の霊屋、霊廟、宝塔について 徳川家宣の霊屋、霊廟は、当初、東京芝増上寺の北側霊屋にあったが、太平洋戦争、第二次世界大戦により木造建築物を焼失し、現在残っているのは、増上寺の<徳川家霊廟>の宝塔のみとなっています。これについては、以下の論考を参照してください。
◆塞大神碑 塞大神碑は、もともとは東大農学部前の中山道と日光御成街道の分岐路、本郷追分に祀られていた道祖神です。 この追分は、日本橋から一里で、江戸時代に一里塚のあったところです。 文政7年(1824年)の火災で欠損し、その跡地に明治6年(1873年)、この賽の大神碑が建てられました。その後、明治43年(1920年)に道路拡張のため、根津神社に移されています。 塞大神碑 出典:Wikipedia 塞大神碑の開設 ◆根津神社境内のつつじ 今回は冬なので見られませんでしたが、根津神社はつつじで全国的に有名です。境内のつつじは、徳川綱重が屋敷の庭に植えたことに始まります。 根津神社のつつじまつり 乙女稲荷神社の鳥居が見えます 出典:Wikipedia 文京区 (トリップアドバイザー提供) 文京区 (トリップアドバイザー提供) 以下、再掲します。 ◆祭事 1月 初詣(1月1日) 2月 節分(2月3日) 4月-5月 つつじまつり 6月 大祓 9月 例大祭神賑行事(9月17日-18日) 例祭式(9月21日) - 天下祭(江戸時代以来続く江戸の代表的な祭礼)の1つ 10月 根津・千駄木下町まつり(10月20日頃) 11月 七五三詣 新嘗祭(11月23日) 12月 大祓(12月31日) つづく |