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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

南京「大虐殺」の6つの理由(10)

侵华日军为何在南京“屠城”?
 来源: 抵抗戦争の歴史
公開日: 2021-12-13

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月22日
 

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6.. 日本軍のメンタリティーと戦場環境の分析

 南京大虐殺がなぜ行われたのか、その理由は大きなテーマである。 日中両国の政治戦略、作戦、戦闘指揮など複数の要素が絡んでくる。 同時に、占領下に置かれた日本兵の複雑な精神状態や、特殊な戦場環境にも関連している。

 何十万人もの大量殺戮を行うには、何千人もの将校や兵士が必要で、冷酷に何度も何度も屠殺を上げ、引き金を引くことを要求された。 前述した「天皇への忠誠心」「命令遂行」「武士道」といった基本的な資質とは別に、彼らが恐れられたことを達成するために、どのような複雑な心境だったのか 恐喝? 他にどのような戦況が客観的に彼らを狂気に追いやったのか。 このことは、南京大虐殺がなぜ起こったのかを研究・探求する上で、見落としてはならない重要な側面である。

 日本の侵略軍が行く先々で、中国軍と人民の抵抗と反撃に遭うのは当然である。 戦死者が出るのも必然だったのだ。 侵略者の犠牲となった人間たちは、復讐の欲望と心理を持ち込んだ。 南京安全区国際委員会のリーベ委員長と南京国際赤十字委員会のマギー委員長が完成させた「機密書類」には、「肩章に星をつけ、銃剣を手にし、ベルトにリボルバーをつけた」小男の姿が記録されている。

  1938年1月23日未明、外務省赤十字病院で私の従者を一人殺した後、日本兵が張という医者に、「お前の部下が上海で1500人の私の友人を殺した。今私の願いを聞かなければ、お前を殺す」と言って、女を引き渡すように強要してきたのだ。 明日は上海に帰ります」。

 南京を攻撃した日本軍は、ほとんどの師団が同じ地域から集まっていた。 そのため、同じ部隊の兵士には親族、同胞がいることが多かった。 この場合、一部の兵士が戦死することで、隊員の親族意識と復讐心がさらに掻き立てられる。

 南京大虐殺に参加した旧第16師団第20航空団第4戦隊の増田六助上等兵は、「南京攻略の際、戦隊は死傷者を出し続けた」と回想している。 身近な同郷の若者たちであり、親戚やいとこ、兄弟姉妹もいた。 私の弟は中国戦線で戦死していたのです。 だから、中国人を見たときは、兄の敵だと思った・・・・・。 ".

 翼が所属していた第30旅団長の佐々木藤一も、自伝の中でこの将兵による報復虐殺を認めざるを得なかった。 12月13日の日記には、午後2時過ぎに部隊が平和の門に向かって前進してきたときの様子が書かれている。「この後、投降してくる捕虜が続出し、その数は数千人に及んだ。 上官の忠告も聞かず、意気揚々とした兵士たちは、捕虜を次々と殺していった。 多くの仲間の血と、10日間の苦難を思うと、兵隊はもちろん、『皆殺しにしてやろう』と言いたくなった。 ".

 第16師団第33飛行隊の元兵士、坂昌平が「当時、中国人は人ではなく、物だった」と言うように、憎しみから「見つけ次第殺す」という行為を軽んじていた兵士もいた。 個人的な付き合いがあれば、それは人間的な関係であり、親近感を持つことができるはずです。 しかし、戦争では敵意があるから、人を見たら「殺す」という発想が響いた。

 私たちも多くの人が殺されているので、『こいつらはやり遂げた』という気持ちになるのです」。 毎日新聞の鈴木次郎特派員は、数人の土木工兵らしき日本兵が「こいつら、いつも攻撃してくる!」と叫んでいるのを目撃している。 と言いながら、「鋭いツルハシを振り上げて、囚人の一人の頭に叩きつけ」、「ツルの先が頭蓋骨にカチッと当たって血が噴き出した」のだそうだ。 目の前に大量の日本兵の戦死者を見るたびに、復讐心、敵討ちへの思いが湧き上がり、サディスティックな精神が点滅したことは否定できない」と書いている。

 日本軍兵士や将校の間に蔓延する復讐心は、中国の首都南京で「軍事力」をフルに発揮し、中国政府と中国国民に降伏と和平を求めていく日本軍国主義者の必要性に合致していたのである。

 また、日本兵は「大和民族の優越」という民族排外主義に深く影響を受けていた。

 中国の戦場では、中国人は豚や犬、家畜よりひどい動物とさえ見なされていた。 そのため、人間らしさや寛容さなど、人間の美徳が語られることはなかった。

 1936年5月、日本同盟通信社上海支局長の松本重治は、長春で関東軍戦略担当参謀の田中隆義中将(後に陸軍省軍務局長中将)にインタビューし、次のように語っている。 田中はインタビューの中で、「率直に言って、あなた(松本)と私では、中国を見る目が全く違う」と失礼なことを言った。 あなたは中国人を人間として見ているが、私は彼らを豚として見ている、何をやってもいいんだ」と。

 陸軍にいた日本人ジャーナリストの駒形幸夫は、「陸軍大将が『中国人は豚だ』という考えを持っていたからこそ、『女子供関係なく、すべての中国人を殺せ、すべての家を焼き払え』と命令することができた」と、感慨深げに語っている。 下級兵士が「強姦、略奪、乱暴」の文化を身につけるのは必然だった。

 日本兵は民族的優越感から、敗れた中国人に動物を屠殺したり切り刻んだりするような残酷な仕打ちをした。 旧日本第114師団重機関銃隊の田所二等兵の記述によると、「捕虜に見せるために、耳を切り落としたり、鼻を切り落としたり、口をナイフで刺して切り開いたりしていた」という。 目の下に水平にナイフを刺すと、たちまち魚の目のようなぬるぬるしたものが垂れ下がってくる。 これをやらないと、他の楽しみがないんです。 上陸してからはやっていないゲームです」。

 さらに、民族的優越感に駆られた日本兵の中には、馬を流れ弾で殺された報復として、中国人数名を殺害する者もいた。 「1984年、上新河の綿堤に住んでいた張春山、鍾志来、鍾勝の3人の老人が証言し、日本軍の「生贄の馬を殺す」という野蛮な行為を暴露した。 その記念に、コットンビーチの老人たちに無理を言って、馬を現在のトラクターステーションまで引きずってきて埋葬してもらった。 埋葬後、日本軍は馬を埋葬した老人9人を殺し、首を切って馬の墓の横に置き、「斯波旅団軍馬」と書いた看板を建てた。 "

 日本軍の民族的優越感と中国人蔑視は、中国系の日本人学者である林博耀氏の論文「南京大虐殺をめぐる背景」で見事に分析されており、「帝国陸軍」の兵士自身が中国人を蔑視し「人間の心」を失っていたと述べている。

  兵士たちは早い時期から、天皇至上主義という日本民族に対する精神的優越感を持ち、それに沿って、中国人は劣等民族として略奪、搾取、支配されるだけの価値があるという考えを植え付けられ、中国人に対して強い蔑視の念を抱くようになった。 優越感に浸っている日本人は、劣等生の「シナ人」には何をしてもいい、「髑髏を絞る」(中国人に対する蔑称)のだという。 シナ人」は人間ではなく、「ハエ」「モノ」、せいぜい「イヌ」「ブタ」だからだ。 「ブタ」です。 このような蔑視の結果、軍隊の「内務」授業を通じて兵士の人権感覚は完全に麻痺し、生きている中国人を暗殺するための新兵訓練を通じて、彼らは「亡霊」に鍛え上げられたのである。

 戦争の遅れ、残酷さ、苦難は、日本兵の性格を変質させた。 彼らは、幸せな人生の追求や家族の暖かさへの信頼を失い、無気力、イライラ、麻痺、狂気に陥っていったのである。


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