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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

南京「大虐殺」の6つの理由(1)
侵华日军为何在南京“屠城”?
 来源: 抵抗戦争の歴史
公開日: 2021-12-13

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月22日
 

南京大虐殺の最も権威ある専門家の一人である孫肇偉(中国近代史の専門家、侵略日本軍南京大虐殺史研究会副会長、国務院の俸給を受ける権利保持者)。

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6つの理由(11)

リード文

 なぜ、日本軍は抵抗の激しかった上海ではなく、南京を「大虐殺」したのだろうか。 中国のインターネット上では諸説あり、疑問も多い。 本稿では、松岡環氏の『南京戦記』など、権威ある日本の専門家や退役軍人の記憶、ジャーナリストへのインタビューなどを大量に用いた孫肇氏の要約概説である。

 「閉ざされた記憶を求めて」、「あるジャーナリストの南京大虐殺の記録」(駒田幸雄著)......。 本多勝一著「南京大虐殺」、南京大虐殺の出来事に関するジャーナリストへのインタビューなど。 また、アメリカ、イギリス、ドイツなどの海外史料も概説に多数含まれる。 本書は、この南京大虐殺問題について最も権威ある包括的な解説書である。

  出典 孫沢偉『南京大虐殺の真実』南京出版社、2016年12月、42-69頁。


「タウンシップ協会の帝国兵士」


本文

1. 南京大虐殺は日本軍国主義の悪質な拡大の産物である

 南京大虐殺は、中国を侵略した日本軍が行った残虐行為の中で最も代表的で典型的な出来事である。 その理由は別として、日本軍が中国全土で行った残虐行為と共通する根本的な原因は、日本の軍国主義の残忍さと凶暴さである。

 当然ながら、殺人犯には殺意と動物的な性質が必要であり、殺人犯が殺意を高めて引き金を引かなければ、罪のない一般市民を大量に虐殺する悲劇は起こり得なかっただろう。 日本軍国主義はあらゆる戦争犯罪の源であり、世界を震撼させた南京大虐殺のような歴史的悲劇は、日本軍国主義の悪質な拡大がもたらしたものである。

 日本は1860年代の明治維新から第二次世界大戦が終わり、無条件降伏を強いられるまで、軍国主義の道を歩んできた。 この間、日本は明治、大正、昭和の各時代を経てきた。

 一般に明治時代は、中国への領土的野心を持ち、中国から巨額の資金を強奪して海軍や陸軍を充実させ、新しい産業基盤を構築する軍国主義が始まったと言われている。

 大正時代になると、軍国主義がさらに強まり、中国ですでに獲得していた特権を利用して、資源の略奪、労働力の搾取、市場の奪取を行うようになった。

 昭和に入ると軍国主義が頂点に達し、中国への侵略は局地戦から本格的な戦争になり、中国の一部を植民地にしてしまった。

 1927年4月、若槻内閣は財政危機の中で倒れ、後任の首相には悪名高い大陸進出論者の田中義道が就任した。 6月と7月の東方会議で、田中は「対中国政策綱領」を「指示書」の形で提出し、「満蒙」を「中国本国」から切り離すという大方針を打ち出した。

 満州とモンゴルを中国から切り離すというのが、一般的な政策であった。 綱領は、「満州、特に東三省については、国防と人民の生存という点で、大きな問題がある」、「隣国として、特別の責任を負わざるを得ない」と宣言し、「帝国利権が さらに7月25日、田中は天皇に「帝国の積極的かつ基本的な満州に対する方針」を提示し、「中国を征服しようとすれば、満州を征服しなければならない」と、日本の対外拡張戦略の全般をあからさまに打ち出したのである。 世界を征服しようと思ったら、まず中国を征服しなければならない」。

 これは、まず「満蒙」を併合し、その後に中国を征服しようという日本の傲慢な野望を十分に示している。

 田中義一が創設した「帝国軍人会」とその付属組織である「大日本青年団」「青年訓練所」「大日本防衛婦人会」である。 以上が、軍国主義を推進する4つの国の組織であった。

 これらの組織とその構成員は、日本帝国主義が存続するための社会的基盤であった。 明治初期に導入された国民徴兵制度によって、多くの若い農民が軍事訓練を受けることができた。

 この訓練によって、日本の若い世代全体が事実上、軍国主義国家となったのである。

 スメヘスタット(独:Smethurst)はその著書『日本軍国主義の社会的基盤』の中で、「在郷軍人会は戦前の日本で最も重要な大衆愛国団体となり、そのメンバーの多くは軍隊の指導者よりもさらに狂信的であった」と述べている。

 「予備役と少し劣る若者たちが、1930年から1936年にかけてあらゆる運動に参加し、国内外の「脅威」に対してより強い立場を取るよう文民政府に迫った。」

 日本の軍国主義は天皇制とも密接な関係があった。1891年に施行された大日本帝国憲法では、「大日本帝国は、永久に一人の天皇によって統治される」「天皇は、国家元首として全権を有する」と規定された。 「天皇は陸海軍を統帥する」「天皇は宣戦布告、講和、条約締結の権能を有する」。

 この天皇制は、天皇に最高の権威と権力を与えるものであった。 それは、日本が現代においても中国への侵略戦争を続けるための政治的、組織的、思想的な保証を与えるものであった。

 南京戦に参戦した竹本清は、「人を殺すということは残酷なことだ」と言った。 当時の雰囲気は、天皇陛下の命令に対してのみ忠誠を誓うものであった。 日本に敵対する者は、中国だろうが何だろうが、完全に倒さなければならないという軍国主義的な教育だった......「マシンガンで人を殺すといえば、マシンガンで「パチン」と掃射することだった。 人が即座に死ぬのをこの目で見ること。 そういう時は、殺さないわけにはいかない。」


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