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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ
「南京安全区」
全37避難シェルター概要(5)

出典:反戦史レポート  2020年12月14日

1937年南京大屠杀安全区及安全区内暴行史
 来源: 抗战史记 2020-12-14


中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年11月3日
 
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28. タオグ・シンクン(Taogu Xincun)難民シェルター

 南京安全区の上海路にあるタオグ・シンクン(Tao Gu Xin Cun)にあり、以前は北京の第10国民軍のオフィスであった。 南京陥落の時、ここには200人の難民がいた。

29. 七星山寺(Qixia Temple)難民シェルター

 南京市北東部郊外の七甲山北千穂崖の麓に位置し、1938年1月中旬には1万人以上、最大で2万4千人の難民がいたが、そのほとんどが近隣地域の農民だった。


カール・ギュンター氏とその妻の疑惑写真(インターネットより)

30.江南セメント工場 難民シェルター

 1937年12月28日には4,000人の難民がいたが、1938年2月3日には6,000人、3月13日には20,000人以上に増えていた。 このシェルターは、江南セメント工場の所長代理であるドイツ人のギュンターとデンマーク人のヒンドバーグによって設立、指導、管理されており、ドイツとデンマークの国旗を掲げて、難民を侵略から守っていた。 シェルター内には小さな病院が設置され、周辺の負傷した難民に医療を提供した。


中国人の偉大な友人であり、デンマークの友人でもある - ヒンドバーグ氏

31. ハッチソンハウス 難民シェルター

 南京市の下関の揚子江のほとりにあり、7,000人の難民を抱えていた。南京安全区国際委員会のメンバーであるイギリスの実業家シールズ氏の支援により設立された。1937年12月初旬、南京安全区国際委員会は中国赤十字社南京支部に600袋の米を割り当て、避難所や川沿いでお粥を配ることにした。

32. 宝田橋難民シェルター

 下関炭港の東側に位置し、7,000人の難民を抱えるこの避難所は、「最悪で、管理されていない、最も悲惨な避難所」と評された。

33. サレジオ難民シェルター

 南京市の下関の三茶川流域、三茶川の西側に位置し、6,000人の難民がいた。 パゴダブリッジ難民シェルターと合わせて、放置されている「最悪で悲惨な」難民シェルターとして知られている。

34.市の南東部にあるプレイグラウンド難民シェルター

 南京市の南京の南東部に位置するこのシェルターには、1万人以上の難民が暮らしていた。 難民の多くは野外で生活し、衛生状態も非常に悪く、南京の赤十字国際委員会のマッカラム氏は「ほとんど管理されていない難民キャンプ」と表現した。

 マッカラム氏によると、赤十字社はここにお粥の工場を持っているが、米や石炭の問題で、毎日の薄味の米の供給は保証できないという。

35. 老人ホーム 避難所


 1938年1月2日にミルズがシェルターを訪れた際、シェルターには30人以上の子供を含む約500人の難民がいると聞いた。 南京政府は避難する前に、ここに米と燃える石炭を残していたが、それもほとんどなくなってしまった。

36. ヤン・ジェネラル・レーン難民シェルター

 1938年2月26日、第三区の疑似区役所は、疑似南京警察署に遺体をシェルターの空襲用塹壕に埋葬するよう要請した。

37. ゲッタン(Getang)難民シェルター

 劉河県月塘鎮にあり、2000人の難民がいた。 このシェルターにいた難民は、安全地帯の国際委員会に救援を要請した。 国際委員会は、1938年2月14日の「状況に関する内部報告」で、現地の難民から救援の要請を受け、「深刻な戦争被害を受けている」「南京からの救援を非常に必要としている」と述べている。


南京安全区にいる子供たち


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「南京安全区」内での残虐と強姦(1)へつづく(未了)

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